2008年02月17日

井古(イゴ)

 2月23日加筆 
 八上の地、天穂日命を祀る土師神社は以前紹介しました。この社は、稲荷(稲生)という集落にある神社で、白兎ラインの北東の始点に位置しています。
 その隣には、井古(いご)という珍しい名前の集落があります。ここは私都谷への入り口にあたります。八上には、「以後(いご)さん」という苗字の方もおられます。
 郡家図書館所蔵『郡家町の地名』によれば「日本地名大辞典は『当地方で土地の落ち込んだ場所を(いご)と呼ぶところから地形による命名と思われる』とあるが、鳥取地誌考ではいごはえごと同義語としてとらえた上で「いご・えごは因幡では、井古、以後、囲碁等の字が当てられており…山間小支谷の低湿地とされている。」と解明されている。また、慶長年間頃、私都川下流部の石田百井村の井古田から難を避けて移住してきた人々によって開拓されたという伝承がある。」石田百井の井古田の項では、「私都川沿いの低い土地であることから生じた地名であろうか。」とあるのみです。
 
 皇學館大學名誉教授で、八坂神社の宮司を長年務められ、現在は住吉大社の宮司を務めておられる真弓常忠氏の『祇園信仰』(朱鷺書房)にはこのように記されています。
 妹(いも)という呼称について『妹とは元来は「忌(いみ)、斎(いつき)」と同義語でありました。・・・かつて賀茂社に「忌子(いご)」という司祭の巫女がありまして、皇女の内親王をもって斎院が定められるようになったのは、この「忌子」なる巫女の古制を受け継いだものでした。...祭祀にあたって、ひたすら忌み籠った女性の立場より生じたものと思われます。男性の首長に対して、二親等の女性(多くは年下の)が司祭者、即ち「妹・斎・忌」となって神事に奉仕したため、肉親の年下の女性を「妹(イモート)」と呼ぶようになったのでしょう。』とあります。井古とは「忌子」が由来なのかもしれません。
 続いて采女についても考察されています。『采女といえば、大嘗祭で天皇のお側近くお手伝いする役目がありました。...大嘗祭における悠紀・主基両殿の儀は、夕御饌は亥刻(午後十時)、朝御饌は寅刻(午前四時)でした。それは陰暦十一月卯日ということでしたから、元々は冬至の日であったでありましょう。冬至の日の亥の刻といえば太陽の最も衰えた時刻、そのときに忌み籠って日神(天照大神)の霊威を体し、暁の寅刻再び稲魂をいただかれて日神とご一体となられてこの現世に顕現される、それが日継ぎの御子でした。この大嘗祭における天皇、言い換えるならば新生の穀童であるニニギノミコトの生誕を見守り、養育申し上げる役目を負うたのが采女でした。采女には国造の子女を宮廷に派遣していました。国造は言い換えるなら国々の国魂の神の体現者であり、国造の代わりに宮廷の祭祀に仕えて、天皇、すなわち日継の御子の霊威をうけて国々に稲の実りをもたらす使命を帯びていました。だから采女が新嘗祭に奉仕したのです。』
 采女といえば因幡で有名なのは八上采女と高草采女です。優れたシャーマンとして名高い八上姫の血統を引いていることから、因幡出身の采女はハイレベルの采女として、後世においてもたいへん重要視されていたのではないでしょうか。ほかにも伊賀国、常陸国、上野国などの采女が有名です。
 真弓氏は続けて述べています。『そうした采女の制度は、...律令制の施行とともに形骸化してまいります。それが藤原京の時代でした。かつて、飛鳥時代においては、文字通り采女が袖を翻して飛鳥の都の内外を行き来していました。持統天皇の御代、藤原京に遷るとともに、そうした飛鳥京は遠くなりました。...あの天武天皇の御代の飛鳥時代までの伝統的な風習は急速に失われていきます。...采女が袖を吹き返していたというのは、神々の祭祀が第一義として行われていたことを意味します。そこに采女の立場があります。言い換えるなら斎女・忌子・斎祝子といった「妹」、つまり神に仕える女性の立場です。高松塚古墳に描かれているような飛鳥女性像を想像していただいてよいでしょう。そこには豊かなロマンが感じられます。』
 采女については、その評価が様々なようです。天皇、皇后の身の回りの世話をする、ということでは、あの私部(きさいべ)とその役割は類似しており、八上の私都(きさいち)の地名とも符合するといえるかもしれません。
 大嘗祭の行われる日が卯の日であることや、冬至の日とも関わっていること、なにやら八上の伝承や遺跡の地理関係(白兎の夏至・冬至ライン)を想起させます。白兎夏至・冬至ラインの北東の端に位置する八上の「井古」とは、采女、および、因幡・八上の巫女達の精進潔斎の場であったのかもしれません。
 古くから八上姫の故郷として祭祀が盛んに行われていたであろう土地柄だったことなどから、そのような地名や、何等かの痕跡があってもおかしくはないと思います。

 
 真弓氏も指摘しているように、やはりここでも持統天皇の背後にいた藤原氏が神道の伝統を踏みにじったことがうかがえます。
 
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2008年02月10日

祇園祭の瀬織津姫

 祇園祭については以、岩戸山で天照大神の男神像が祀られていることを紹介しました。
 ところで鈴鹿山という鉾には、瀬織津姫が祀られています。瀬織津姫は鈴鹿山にかつて出没していた賊、鬼を退治したという伝承に基づくものとされます。祇園祭の祭礼のときに姿を現し、男神天照大神と京の都にお姿を現しているのです。
 筆者にとっては、これは祇園祭のいくつもの鉾の中に紛らせて、本来の天照大神と瀬織津姫の関連を示そうとするものであろうと思えます。
 藤原氏の目をかすめて祇園祭の祭礼の中に密かに男神天照大神と瀬織津姫をたくみに祀ったのかもしれません。
 
 確かに藤原氏は、中臣氏出身であるとされながらも、伊勢神宮の祭祀を司る中臣氏とはまるで無縁なごとく、伊勢神宮への参宮などは全然行っていないようです。藤原氏が表向きに、元の出自が天児屋根命であるとするにしては、伊勢祭神との関連は全く感じられません。
 やはり中臣氏の中から藤原氏と名乗れたのは、鎌足、不比等の系統のみに限られたということに本来の中臣氏とは異なるという、重大な意味が込められているのでしょう。
 
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2008年02月07日

六甲山 天穂日命

 六甲山には天穂日命のイワクラがあることは以前にも記しましたが、筆者は今のところ、まだ現地へ直接訪れていません。聞く所によれば、冬場は、そのイワクラのある六甲カンツリーハウス内には入れないということです。春(4月1日より開園だそうです。)になったら訪れてみようと思います。とりあえずリンクでつなぎました。ごらんください
 
posted by yakamihakuto at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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