2008年04月26日

虫井神社

 八上の南方、大江谷の南方に智頭町大呂というところがあります。ここには虫井神社があります。虫井神社の由緒書きから紹介します。
 「御祭神
 瀬織津姫 左
 須佐之男命 中
 速秋津比賣命 右
 天御中主命
 大山祇命
 宇賀魂命
 
 荒海大明神  右殿
 里人大明神  中殿
 都都良麻大明神 左殿
 
 当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命(武内宿禰)によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...
 国内最古級の歴史書、「三代実録」巻の四十四に「元慶七年(八八三)十二月二十八日因幡国正六位上、虫井神従五位下を授く」と記されている。
 そして正中元年(一三二四)には、御社殿を改築し遷座するなど朝野の尊崇も深かった。その後移り変わる歴史の狭間で、中世古代以来幾度の兵火にあい廃朽を余儀なくされていたが、嘉慶元年(一三八七)上古よりの名社であることから、大江美濃介師貞によって六〜七丁下の字ハセツコウに移転再興された。更に江戸時代、正徳四年(一七一四)に妙見社・三瀧蔵王権現・荒海大明神の三社を改築遷座した。
 大正十年...社殿を山麓の現在地に移し、本殿・幣殿・拝殿を新築、荘重なる御社殿のもと盛儀をこらして遷宮が斎行された。
 なお旧社地は現社殿より百四十m程高い尾根に在り。深緑連なる木立の中わずかに安永九年(一七八〇)の石製手水鉢が往時を偲ばせる
 また当社は虫井の社名に因むものか、往古より虫の守護神として崇拝され幼児の疳の虫、或いは田畑山林などの五穀成就、病害虫の駆除、風雨順時などに霊験著しく、植え付けより収穫まで、およそ年間を通じて地元はもとより遠く岡山、兵庫の両県より多数の参拝があり広く虫に関わる信仰を集めていた。
 いずれにしても景行天皇の御代より相伝えて実に悠久二千年に垂れんとする県下でも屈指の社歴を有する古社である。」
 虫井神社の虫という文字の上にはハネがついており、兎の文字と少し似ています。
 略記によれば、元々は、荒海兄弟という地元の氏族の拠点だったようです。その氏族が、あの河原町の多加牟久神社の武牟口命によって平定されたということなのでしょうか。その辺りの詳細はよく読み取れません。
 現在の祭神の筆頭は瀬織津姫です。その元になるのは左社の三瀧神であるようです。滝の神、水の神ともされる瀬織津姫、実はホツマにおいてはその最初の紋(章)で稲の害虫駆除との関連で登場します。このことが、社名の由来と関連するのかもしれません。
 虫井神社では毎年十月に花籠祭が催されます。
太陽に見立てて造った花籠を神社に奉納するそうです。江戸時代に始まる行事で、無形民俗文化財として県指定されているそうです。
以前にも述べましたが、この虫井神社と天照大神を祭る八上の赤倉神社はほぼ南北のライン上に位置しています。
ホツマツタエミハタノハツ 東西の名と穂虫去る紋(キツノナトホムシサルアヤ)
 「...和歌姫(天照大神の姉神)が天照大神の伊雑の宮においでになるとき、紀志伊の国の稲田が蝗(イナゴ)の大群に襲われてしまいました。途方にくれた農民たちは、稲の被害を伊雑の宮に告げたのですが、あいにく天照神は丹後の天真名井に坐す豊受神のもとへ行幸されていたのでした。そこで内つ宮(中宮)の向津姫(瀬織津姫)は和歌姫を伴い、急ぎ紀志伊の国に行かれたのです。紀志伊にお着きになった和歌姫は田の東方にお立ちになり、玄草(おしくさ)をもって扇ぎながら歌をお詠みになってお祓いをされると、蝗がとびさったので、向津姫は左右に三十人に侍女を立たせ、一斉にこの歌を歌われました。これが稲虫を祓う和歌の呪い(まじない)です。
 種果たね 生むすき盛め 無病素目らのゾロ葉も葉芽ぞ虫もみなシム
(タネハタネ ウムスキサカメ マメスメラノ ゾロハモハメゾ ムシモミナシム
 と繰り返して三百六十回歌い、あたりにどよませると、蝗の大群は西の海のかなたへざらりざらりと去っていったのでした。こうして烏羽玉(ぬばたま)のような闇夜となった人々の心は、糧を得て再び明るさを取り戻しました。喜びにあふれた紀志伊の国の人々は、日の前向津姫と和歌姫のために、それぞれ天日の前宮(あひのまえみや)と玉津の宮を造営し、それを献上申し上げました。向津姫のご滞在になった天日の前宮は国懸の宮(くにかけのみや)と讃えられ、和歌姫は玉津の宮がたいそう気に入られました。紀志伊の国は和歌の力により、もとのように若返ったことから、和歌の国(若の国)と讃えられました。...」
以上鳥居礼氏『完訳秀真伝』より。
 また、日本翻訳センターの現代語訳も大いに役立ちます。
 このように、虫井神社の社名と祭神の瀬織津姫がどのように関連があるのかは、もはや地元の伝承でもその由来が途絶えてしまい、記紀を通じても全く手がかりはないのですが、ここでもあの偽書扱いされているホツマによって、関連性が伺えるのです。もしかすると瀬織津姫はここにおいでになって、稲虫の祓いをされたのかもしれません。そのときに行われた呪い(まじない)としての催しは長い年月の間でとぎれてしまったのでしょうが、近代以降に地元住民たちの潜在意識の奥深くに残っていた遠い過去の記憶から、それに近い催しが花籠祭として蘇ったのかも知れません。
 智頭町には式内社はありませんが、天照大神を主祭神とする社や、瀬織津姫を祭る神社が比較的多いこと、中でも虫井神社において瀬織津姫を主祭神としていることなどから、藤原氏への対抗勢力が強い所であったのかもしれません。(筆者の都合の良い想像です。)
 
 ホツマには、和歌山の地名由来はもとより、和歌の語源、日の前国懸神宮や玉津島神社の由緒、広田神社の名前の由来も明確に記されています。これらのことも記紀では一切手がかりを得られません。
 筆者はホツマの存在を知ってかれこれ15年近くになりますが、確かに、中には現代の私たちには受け容れられないような記述や、不思議なことも多く盛られており、最初は眉唾物として距離を置きつつ、少しずつ触れていますが、知れば知るほど、これは真実の書ではないかという思いを強くしています。
 より多くの方がホツマの原文や様々な解説書などに触れていかれ、ご自身の感覚によってご判断していただくことを願います。 
 たいした内容検討も無いままに、一般的に偽書扱いされているからという理由で、この書物を避けてしまうことのほうがより大きな損失であるように思えます。
 つい先日、出版された菊池展明氏『円空と瀬織津姫』上(風琳堂)p377には、全国の瀬織津姫を祭る神社が紹介されていますが、鳥取県は全国3番目に多い25社の神社で祭られています。その中でも因幡で18社、旧八頭郡では13社と、集中していることがわかります。実は少し前に鳥取県神社誌に掲載されていた瀬織津姫を祭神とする神社を紹介しましたが、菊池氏の著書に記載されていない2社を含めると、その数は県内で27社となります。都道府県の面積のことを考慮すれば、密度でいえば総数全国1の岩手を抜いて、全国1位になります。
 また上記書には、円空は、出自が藤原氏系でありながら、自らの先祖が犯した罪への贖罪として、消された瀬織津姫のために数多くの彫刻を作成したのではないかと考察されています。円空はあの中将姫と同様の使命を持ってこの世に生まれ出てきたのでしょう。 
 


posted by yakamihakuto at 22:54| Comment(1) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月23日

アマゾンでなか見検索スタート!

 アマゾンで拙著のなか見検索がスタートしました。表の表紙と裏表紙、目次と最初の章をすべて閲覧できるようになりました。まだ、入手されていない方は、一度ご覧ください。
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2008年04月21日

長谷寺の天照大神

 奈良の名刹、長谷寺に行ってきました。
本堂の本尊は11メーターもの大きさの十一面観音、向かって右手に春日明神の御神像、そして、向かって左側になんと、天照皇大神の御神像=雨宝童子の像が安置されています。像の前方に大きな額が掲げられており、そこにはっきりと天照皇大神と記されています。
 本堂の外はあの清水寺の舞台づくりと同じようになっており、そこからは、風光明媚な長谷寺の全景を眺めることができます。そして、舞台より向かって左側にそびえる山が天照大神ご降臨伝承の残る與喜山です。このことが縁起で、長谷寺は天照大神を本堂内に祭っているようです。
 源氏物語にも登場する長谷寺詣で、宮中の女御にとって長谷寺詣では楽しみであったようです。今年は源氏物語からちょうど1000年だそうです。
與喜山
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2008年04月13日

天照大神の山陰行幸

 天照大神の山陰行幸については、古事記・日本書紀には、もちろん一切記されていません。山陰地方には隠岐と八上に、それぞれ天照大神行幸伝承が残っていることはすでに紹介したとおりです。
 ところで、『ホツマツタヱ』にはこの天照大神の山陰地方行幸に関わることが記されています。
 鳥居礼氏の『完訳秀真伝』には五七調の本文が、漢字かな交じり文で記載され、さらに本文の詳細な現代語訳と補注が記されています。ホツマのもともとの原文はヲシテ文字という独自の神代文字で記されています。 
 豊受大神の丹後真名井でのご危篤と崩御、天照大神への最後の奥義の伝授の様子、その崩御の地に朝日宮が建立されたこと(京丹後市峰山町久次の比沼麻奈為神社がもっとも有力比定地と思われます)、その後、天照大神がしばらく宮津、真名井におとどまりになったのち、千足(チタル)国、即ち山陰地方を御巡守されたことが記されているのです。
 「宮津より 早雉(ハヤキジ)飛べば 天日神(アマヒカミ:天照大神) 急ぎ真名井に 行幸(みゆき)なる 時に玉杵命(タマキネ:豊受大神の忌名)相い語り 「昔道奥(みちのく) 尽くさねば ここに待つ」とて 授けまし 「諸神たちも しかと聞け 君は 幾世の 御親なり これ国常立(とこたち)の勅(ことのり)」と 洞お閉ざして 隠れます その上に建つ 朝日宮 君懇(ねんご)ろに 祭りして のち帰まさん 御てぐるま 留(とど)むる民お 憐れみて 自ら 政り 聞こし召す 趣き告げる 雉子(きぎす)にて 向津姫(ムカツヒメ:瀬織津姫)より 勅(ことのり)し 日高見(たかみ)に祭る 豊受(トヨケ)神 持子(モチコ)の典侍(すけ)と早子内侍(ハヤコウチ)味子姫(アジコ)と三人(みたり) 早行きて 真名井の原の宮仕ゑ 勅あれば 門出して 宮津の宮にあるときに君の御狩に千足(チタル)国 道お定めて 治むのち 八十杵尊(ヤソキネ)の弟(オト)...。
以上、秀真伝御機の六(ホツマツタヱミハタノム) 日の神十二后の紋(ヒノカミソフキサキノアヤ)の一部を紹介しました。
 ホツマの本文はネット上 でも参照できます。
 現代語訳と英語訳版・仏語訳版もあります。
 神代文字については、アカデミズムでは、忌部氏の『古語拾遺』でわざわざ、その存在が否定されていることを踏襲し、1953年、山田孝雄氏の「所謂神代文字の論」で神代文字の存在が完全に否定されたことを追認しているだけのことのようです。 
 日本の歴史学では、ほんの一個人が定説化した学説がその後も長らく正当な説として、後代の学者に無批判に受け継がれているようなことが少なからずあるように思えます。1953年から半世紀以上が経つ現在、再度この点についても見直しがなされるべきでしょう。
 実は、忌部氏の子孫、忌部正道は『神代巻口訣』で神代文字の存在を肯定しています。大江匡房は『箱崎宮記』で神代文字の存在は否定しているものの、ひらがなは応神朝のころから使われていたことを記しているそうです。『弘仁私記』(813年)、『承平私記』(936年)にも漢字が流入する以前に固有の文字の存在が肯定されており、『扶桑略記』(1094年頃)にはカナの「日本書紀」があった事が示されています。この「弘仁私記」「承平私記」「釈日本紀」は、いずれも「日本書紀」の解説書です。このことから筆者は、(内容をすべて見ていないので決め付けるのはよくありませんが、)これらの書物は、不比等によって消され捏造されてきた真実を、ひそかに書き留めたものではないかと思います。
 ホツマ文字=ヲシテ文字をはじめ、全国各地の古い神社には、様々な種類の神代文字が伝わっている所もあります。
『ホツマ』が仮に江戸時代の偽書であるにせよ、江戸時代に記された一大叙事詩として、アカデミズムで研究してもおかしくないくらいのものだと思うのですが。今のところ、そういった視点からも一切とりあげられません。
 例えば、滝沢馬琴の幻の小説などが出てきたとしたら、おそらくこれは研究の対象になることでしょう。百歩譲って、作者不明であっても、江戸時代の古文書で日本神話をモチーフにしている、というだけで、その物語の価値は大いにあると思うのですが。大学の国文学科で研究対象として取り上げられてもおかしくないのですが...。そういう面からも、アカデミズムによって一切かたくなに無視されることの背景にはもっと重大な意味があるように思えてきます。
 本居宣長は神代文字を否定しましたが、古事記を中心に研究をして、懸命に倭心を追い求めていました。漢心(からごころ)の混在していないやまとことばで記された『ホツマ』はまさしく宣長の求めていた至宝といえるのではないでしょうか。
 記紀では神話のストーリーがぶつ切りにされていることに、記紀の神話とホツマを合わせ読んだ人なら例外なく誰でも気づきます。神話の舞台も全国的ではありません。ホツマは、ストーリーが一貫してつながっており、ほぼ日本全国が舞台となっています。また、伊勢神宮の祭神、天照大神と豊受大神の関係も、ホツマではじめて判明します。和歌についての記述も多く、和歌ということば自身が、実は大和言葉であることや、枕詞の意味も記されています。天照大神の御代に全国的に起こった動乱、それと関連して、何故狐が伏見稲荷の使いとなったのか、中臣祝詞に登場する白人、胡久美の意味もホツマでない限り、解明できません。
 花形隆一郎氏はその著作『実在した人間 天照大神』で、西洋の政治思想の発展史を踏まえて、思想史的な観点からも、ホツマが後世に捏造された偽書では無い、と結論付けています。
 ところで話を八上の天照大神行幸の伝承に戻します。 もし、このホツマに記されていることが地元の伝承と重なるのであれば、このような流れの話になるかも知れません。(以下は筆者の想像です。)
 天照大神は、豊受大神の崩御の後も、しばらく丹後に留まられました。ミヤツとは、現在の京都府宮津市ですが、その南方の山間に大江町の元伊勢内宮があります。行宮の地はそこだったのかもしれませんし、あるいは天橋立をはさんで、南には元伊勢跡地ともいわれる文殊堂、北には、籠神社の末社、真名井神社があり、そこであったのかもしれません。この真名井神社は、実は、内陸の久次岳山頂、久次岳山中の大饗石(おおみあえいし)、比沼麻奈為神社および、大宮賣神社を結ぶ東西ライン上に位置しています。または、真奈井が原の地、大宮賣神社か、その付近だったのかもしれません。天照大神は、丹後のいずれかの場所にしばらく行宮されました。これが、丹後に外宮と内宮の元伊勢がそろってあることの根拠です。
 その後、山陰地方への行幸を計画されました。因幡の国、岩美の御湯神社は、天照大神御一行が山陰へ行幸されたときの行在所になったものと思われます。ここは伊勢宮とも呼ばれています。(ちなみに天照大神が因幡へ行幸される以前、豊受大神はその名をお伏せになって、稲葉山の麓で稲作の技術をお伝えになりました。このときの神蹟が古苗代であると推測します。稲作を教えられた豊受大神を稲葉大明神として、鳥取市卯垣の稲葉神社で祭っています。)
 そして、陸路または海路で隠岐へ渡られます。そこで、天までとどくような大木をごらんになって大きな樹、オキという地名由来の御言葉を発せられたのでしょう。
 しかる後、陸路または海路で、因幡へ到着され、内陸の八上へと歩を進められました。郡境である三本松付近で、八上の土地の神、八上姫の化身である白兎と出会い、白兎の導きによって、そこから遥か南西方向へ中山の麓道をたどりながら、霊石山山頂近くの平原(伊勢が平)にたどり着かれました。そこで白兎は身を隠してしまいます。天照大神御一行は、しばらくそこで行宮を営まれました。瀬織津姫も豊受大神崩御の後、高天原で政務を担当され、ひと段落したところで、丹後の天照大神ご一行にに合流され、行動をともにされていたのだと推測します。八上の行宮の折には、主に私都の民が瀬織津姫のお世話をされたのでしょう。あるいは私都のいずれかの場所にしばらくいらっしゃったのかも知れません。神社祭神の分布状況から、このような想像が自然にわきあがってきます。
 最勝寺の元の境内地には白濁した清水の湧き出る井戸がありますが、天照大神の行宮の折に掘り出されたものかもしれません。霊石山の御冠岩に天照大神は山陰地方の平安を願って冠を安置し、国見をされました。
 同行の猿田彦命は霊石山の南方の三角山に布陣して、防衛の任にあたったのでしょう。
 八上のあちらこちらに出向かれ、いよいよお帰りになるときには八上の南東に位置する国境、現在の氷ノ越えの峠をお通りになる際、大雪の降り積もったあと、旭日に輝く樹氷をご覧になってその美しさに感動されて、和歌を詠まれました。
 
 あしひきのやまへはゆかじ
    しらかしのすえもたははに
           ゆきのふれしば 
 
 須賀の山に暮らす須佐之男命、稲田姫夫妻と再会されたあと、八上、因幡の国を離れられたのでしょう。そして、丹後の元伊勢にお戻りになった後に、中央の高天原に御帰還されたのではないでしょうか。
  再度お断りしておきますが、以上はホツマに記されていることと地元の伝承を筆者が想像を交えて結び合わせたものです。 記紀ではこのようなストーリーは決してできませんが、丹後・山陰の神蹟・伝承とホツマには整合性があるようで、自然につなぐことができました。このことは注目すべきです。
 そして、もう一つ、指摘しておくべきことがあります。ホツマの記述によれば、豊受大神はイザナミノミコトの父親であり、天照大神の祖父に当たります。そして、幼少期の天照大神への教育を東北の日高見でほどこしました。天照大神はウヒルキと呼ばれていたそうです。漢字を当てると大日霊貴となります。秋田県にはその名もずばり、大日霊貴神社があります。豊受大神は天照大神の御餞津神と称され、伊勢外宮豊受大神は一般的に内宮より格が下であるととらえられていますが、ホツマによれば、天照大神の指導者的立場にあった偉大な神なのです。
 すると、ここで思い出されるのは伊勢神道です。伊勢神道では、豊受大神は天御中主神であり、国常常立命であるとされています。実はホツマにおいても豊受大神は国常立命が輪廻転生されたと、はっきりと記されています。しかもここでは輪廻転生が肯定的にとらえられています。伊勢神道は、外宮神官が外宮の格を上げるために仕組んだものであり、ゆえに神道五部書は信頼のおけない偽書である、と烙印を押されています。しかし、伊勢神道とは全く別の系統ともいえるホツマの記述によって豊受大神と天照大神の関係が明確に判明し、それが伊勢神道において主張されていることと一致することを確認するとき、今まで、偽書扱いされていた神道五部書の内容が俄然、脚光を浴びてきます。筆者は以前にも述べましたが、直感的に、伊勢神道はもともとの伊勢神宮に伝わる教えを、即ち藤原氏=中臣氏によって簒奪されたそれ以前の伊勢に伝わる正しい由緒をや教えを、一部仏教や儒教的な表現を借りながらも再構築して、世に出したものであると思われます。ですから外宮神官渡会氏の私的利害によって新たな見解を世に出そうとしたものではないと確信します。であるがゆえに、神宮の祭式においても外宮先祭といわれるように、外宮が重視されているのです。
 ホツマが、明確に本来の神話時代の事実を示すものである、と認識されていなかった時代において、依拠すべき神典は古事記と日本書紀、および先代旧事本紀であったため、そこからは、外宮と内宮との本当の関係がわからなかったのは無理もありません。
 そして、瀬織津姫。記紀には一切登場していないものの、大祓祝詞にその名が掲げられているため、神道関係者の間でも謎の神とされてきました。その事績は一切不明であるため、本居宣長は禍津神(マガツカミ)と定義してしまいました。ホツマでは、天照大神の第一の后として登場します。伊勢神道の神道五部書においても登場する、伊勢神宮内宮荒祭宮の神、瀬織津姫、別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)その名の由来も判明します。 天照大神には、東西南北それぞれの局に三人の宮仕えを配していました。
 「東西南北(きつさね)の 局は替り 宮仕ゑ その中一人 素直なる 瀬織津姫の ミヤビには 君も階(きざはし) 踏み降りて 天下がる日に 向津姫 つひに入れます内宮に...」「その中でも特に素直な南の典侍(すけ)の瀬織津姫の慈愛に満ちた美しいお姿に、大君(天照大神)も強く御心を引かれ、ついに内つ宮(中宮)にされたのでした。その瀬織津姫は天下がる日に向津姫と称え名を賜りました。瀬織津姫が内つ宮に召しかかえられたので...」(鳥居礼氏『完訳秀真伝』より)
 瀬織津姫はあの八上姫の評判とも似通っているように思えます。
 この記述から、伊勢神宮や兵庫県西宮市広田神社の祭神が、天照大神の中宮、瀬織津姫であることが明確になります。
 この事実からも伊勢神道が外宮神官の私的な利害によって唱えられたものではないことがわかります。(神道五部書が偽りの書であると批判している学者の中に荒祭宮の祭神名が別名瀬織津姫とされていることを問題としたものはあるのでしょうか。また、渡会氏の利害とどう関わってくるか、その関係を果たして説明できるのでしょうか。荒祭宮祭神名の件に関して、渡会氏が社家の格を上げるためにわざわざ主張しなくてはならないことではありえないでしょう。
 ホツマは、今まで神道学者が見落としてきた重大な事柄についての疑問がいくつも解消されるような内容を有しているといえるのです。

 
 ホツマの内容検討によって、偽書であるか否かを明確にして、もし記紀より信頼できる書物であると判明したのならば、これまでの定説をすべて見直していく必要が出てくるのではないでしょうか。
  
posted by yakamihakuto at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月09日

正夢になるかも

 
 5月12日加筆
 少し前に筆者は夢を見ました。
 福本の白兎神社は、因美線郡家駅から至近距離にあり、車窓からも神社を見ることができます。もちろん、今は小さな祠と御神木と鳥居、案内看板だけのひっそりとしたたたずまいです。
 因美線は関西と山陰を結ぶ幹線となっており、あの人気の智頭急行スーパーはくとが毎日二十本も通過しています。しかも特急停車駅の郡家駅の近くではゆっくりと走っています。 
 このロケーションを活かして白兎神社に、因美線を走る列車の車窓からもはっきりと見えるような「八上 白兎神社」と銘打った大きな看板が設置されている夢を見ました。これは近い将来実現し、正夢になるのでは、と密かに期待しています。
 そして天照大神伝承の伝わる若桜へとつながる若桜線も、再び活気を取り戻せるのではないでしょうか。郡家駅の隣の河原駅も霊石山に一番近い駅で、米岡神社は目前の位置にあります。白兎伝承は天照大神の行幸伝承とセットであり、自治体の枠を超えて盛り立てていくべきものと思います。
 スーパーはくとの利用客が目にする看板の効果は絶大なものとなるでしょう。白兎神社再興もそう遠くない将来に実現すると思われます。
 
 と思ったのですが、十数年ぶりに郡家駅から、スーパーはくとに乗って以前とは景色がぜんぜん違うことにはたと気づきました。そうです。なんと、郡家駅周辺は新興住宅が立ち並び、駅から白兎神社が見えるロケーションは極めて限られていることに気がつきました。こうなると、神社自身は駅からほとんど見えませんので、せめて、案内看板を設置できれば、と思います。
 
スーパーはくと at 郡家駅




















郡家駅より白兎神社遠望
posted by yakamihakuto at 11:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 郡家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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