2008年11月30日

潮津神社

 鳥取市青谷町の潮津(うしおづ)神社です。
祭神は八上姫と大己貴命です。ここはすでに以前から紹介しているように、因幡と伯耆の国境付近で、青谷上寺地遺跡の北方にあります。
 これで因幡にある八上姫を祀る神社をすべて参拝することができました。
 先日、清流茶屋かわはらの方から伯耆の八上姫を祀る神社の資料を頂戴しました。誠にありがとうございます。
それによると、日野郡福栄村字神福の福栄(ふくさかえ)神社(大字豊栄の大阪神社の祭神を合祀)、日野郡石見村大字上石見の大石見神社に八上姫が祀られています。
 このほかに、「伯耆の素兎」で有名な大山町束積の中山神社の境内社の鷺の宮にも素兎の神とともに八上比賣幸魂が祀られているそうです。
 改めて八上姫を祀る神社を列挙します。 
八上
 賣沼神社
 都波只知上神社
 大江神社
 
因幡八上以外
 酒賀神社
 御湯神社
 稲葉神社(稲葉殿)
 潮津神社
 
伯耆
 福栄神社
 大石見神社
 鷺の宮
県外
 三井神社(島根県)
 島御子神社(長崎県対馬)
 気多神社摂社(石川県)
 大己貴命とともに祀る神社は酒賀神社、御湯神社、稲葉神社、潮津神社、大石見神社、福栄神社、島御子神社の7社です。気多神社は確認できていません。合祀後であれば、大江神社、都波只知上神社もあります。
 
 

潮津神社

posted by yakamihakuto at 21:04| Comment(12) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月29日

ふたたび宮谷の賀茂神社

 御旅所について、筆者は誤った認識をしていました。ここに訂正させいただきます。
 八頭町宮谷の賀茂神社には、御旅所跡があります。ここは、祭礼のとき、賀茂神社の神輿が渡御したところです。御旅所がかつてあった神社とは、庶民の信仰の厚かった神社であることを示します。そこには胞衣塚の跡もあります。胞衣塚は古来、それを埋めることによって、災厄から守られるという信仰があったようです。ところで、その位置が白兎夏至冬至ライン上にあることから、この胞衣は八上に生誕された高貴な方の個人的な胞衣塚とみなすことはできないでしょうか。八上生誕の高貴な方となると、やはり一番思いつくのは八上姫です。福本70号墳はこの胞衣塚の真西に位置しており、非常に関連性があるといえるのではないでしょうか。
 郡家町誌の賀茂神社の項には、こう記されています。「創建年代は不明であるが、古文書の一つである、文明三年(1471)六月付の「賀茂大神宮」によれば、家伝に鳥居日向守の祖先が山城国(京都府)の賀茂大神宮をこの地に移すとある。この地とは宮谷字細谷の経塚の南の平地であるという。その後日向守重宣なる人が歌学専修業の途次、、当地で大雪に逢い、重賢に頼り、八年逗留して重賢の女を娶って当所に永住した。そのために山城国の県主(重宣の父)に依頼して神領を給与された。これは朱雀天皇(930〜945)の時であったという。なお、天暦6年(952)日付の棟札写によれば高橋庄兵衛(卯歳)の名で「奉建立本堂一宇字社内安全脩 湯口安左衛門九月吉日」とあり。このときに本殿が建築されたのである。次に古文書の第二、賀茂大明神曰謂(えつい)書によれば神領二百石あったが、羽柴秀吉来伐の時、古文書等宝物皆焼失して今残存しているのは高麗犬と古名だけである。

 それから、奥宮の京賀里から今の地に移転した。
この京賀里とは京都の賀茂大明神をこの里に遷祭したことを伝承したものである。次に第三の古文書『賀茂祖皇太神宮録記』によれば天平壬申年(732)夏、大干ばつで五穀皆枯れて稔らなかったので農民が非常に憂慮した。その時賀茂別雷太神宮の神託があったので山城国愛宕郡の上賀茂の別雷尊を稲葉(因幡)のこの里に移し祭ったので、その後は五穀も豊かに稔り村中繁栄したという。
 天降別雷神乃神代与利天津日継者不絶計里(あまくだり わけいかづちの かみよより あまつひつぎは たえずありけり)鳥居日向守重宣(筆者注:賀茂神社宮司)
 さて、天平4年賀茂別雷神を勧請して帰り、休息した地を御生地(みあれのち)としてエナ塚という。
 現在育英小学校の前で、用水路が三つに分かれているので俗に『三ついで』という。ここから東方100メートル余の所に石の鳥居があったが、現在は宮谷村入り口近くに移転した。
『三ついで』の一つは私都川の方向(北西方)に流れる。他の二つは郡家方面(南方)に向かって流れる。この中間の川を足洗い川(俗称あらいで)という。別雷神を奉持して帰国した供人が手足を洗った所である。これから上流の奥谷、下坂、井古村のあたりははるか上流の市場堰八上堰の流末であって旱害(干害)の多いところで、水不足の年毎に雨ごいをした...。」
 「大神宮」という呼称からも、やはり非常に格の高さを感じます。

ちょっと不思議なお話があります。
 実は筆者は約10年前の夏のある日にこの賀茂神社に参拝したとき、境内である白装束の老女と出会いました。その方はなんと兵庫県の佐用町からタクシーを使って連日この賀茂神社へ参拝に来ているということでした。理由を尋ねると、この賀茂神社に現れる女神に呼ばれているからだそうです。拝殿のほうを見て、「あそこに神様が見えませんか。」と言われて、見てみましたが、当然、私には何も見えません。
 しかし、この老女にははっきりと見えているのです。その女神とはコノハナサクヤ姫、トヨタマ姫、イチキシマ姫、ミズハノメノ神、瀬織津姫、または素兎=八上姫なのでしょうか。
 このようなことがあったことも筆者が賀茂神社がただならぬ神社であると思った理由です。
 
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2008年11月28日

能登半島 八上姫を祀る神社

能登半島にある気多神社に関連する神社にも八上姫が祀られています。「嶋山の内、別所村に八上比売の神社あり。八上明神という。」とあります。
 また、「南西に望めば、田畝茫々として湖水湛えたり、此の辺の山を能登の中山と云い、此の山上の端一宮垂跡の地也。 巫女原と云い山を巫女山と云う。」とあり、ここにも中山があり、その付近に巫女と関連する地があるのも八上と共通します。 
posted by yakamihakuto at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

対馬 八上姫を祀る神社

  八上姫を祀る神社が対馬にもあることを講演会で紹介しましたが、こちらです。
posted by yakamihakuto at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月27日

現代版 イナバノシロウサギ

 昨日日本海新聞で紹介された新さんの不思議なエピソードの舞台は実は八頭町の大江谷(旧船岡町)水口(みなくち)の金比羅大権現です。 ここの兎神が、実際の野ウサギに化身して、新さんを案内されたのかもしれません。この鳥居の近くで野ウサギは姿を消したことになります。
 本殿と拝殿の隙間の見つけにくいところに施されているこの立体の波兎神をぜひ皆さんもぜひ見学、参拝してください。水口の集落からかなり山間に入ったところです。道は一本ですが、念のため地元の方に道を確かめておいた方が良いでしょう。うまくすると兎さんに案内してもらえるかもしれません。

金比羅 鳥居
















金比羅 波兎
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2008年11月26日

海潮音にシンポジウムの事が

 本日11月26日付 日本海新聞のコラム、海潮音に23日のシンポジウムについての所感が紹介されていました。 冒頭の新さんのウサギの案内のエピソードは近々、筆者も自身の最近の体験とあわせて紹介しようと思っていました。詳細はこちらでどうぞ。執筆者のおっしゃるとおり「千年の眠りから覚めた兎の神様」が今動き出しています。

posted by yakamihakuto at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

食べる! 兎ー因幡の白兎ー

食べる! 兎 - 因幡の白兎 -   
 先日のシンポジウムのパネルディスカッションで、筆者は会場からのご質問、「江戸時代に兎を鵜と鷺にして、鳥だから食べてもよいとして食されていたこと」について、「兎を食べないでください。」と、的外れなお答えをしました。
 しかし、その発言も少し修正しなければなりません。ちるくるさんのホームページには、因幡で売られている食べる兎が紹介されています。
 これなら大丈夫です。あとは虫歯に気をつけましょう。
posted by yakamihakuto at 10:39| Comment(2) | TrackBack(1) | うさぎ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

神秘の波兎 もっとウサギを!

 講演シンポジウムも終わり、ほっとして、ドライブを楽しんでいるとふと視界に、追い求めているものが出現しました。
 八頭町大御門の隣の安井宿の内田様宅の土蔵に施された鏝絵の波兎です。やはり、旧八東町です。八東町の方々もご先祖様からの何かを受け継いでいらっしゃるのだと思われます。白兎は天照大神を氷ノ越えまで案内されたのでしょう。その途中でお通りになった八東です。(八東には天照大神と白兎という密意がこめられているのではないかというのは筆者の自説です。)後の世にこれが伊勢道となります。(勿論、この写真は内田様に許可を頂戴して撮影し、公表させていただいております。内田様、このたびは誠にありがとうございます。)
 ちょうど小雨の振る中での撮影で、何枚も撮りましたが、その中の1枚には雨のしずくがちょうどお月さんのようになって写ってくれました。月世界から白波とともに地上に舞い降りてくる神秘の白兎です。ヒデキ感激!(ヒデキじゃありませんが。 ちょっと古いかな?)

内田様のお話によりますと、5年くらい前、土蔵の塗り替えの際に、職人さんに勧められて、子宝(子沢山)に恵まれるようにとの願いで、制作されたそうです。
 八上、因幡一帯にこのようなウサギの像や八上姫をはじめとする神々の像が増えていくと、もっともっと町は栄えていくように思えます。ホントにほのぼのとした気持ちになります。
そろそろ日本全国、町中いたるところにクリスマスのイルミネーションで飾られますが、どこへ行っても同じではなく、八上へ行けば、こうしてさまざまなウサギさんに会えるというのは地域独自の魅力です。日本では、多神教ならではの個性のオンパレードができるのです。いずれこれは全国的な評判になります。
 もっと光を!ではなく、もっとウサギを!が八上・因幡の合言葉となりますように。
 

神秘の波兎
posted by yakamihakuto at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 波ウサギ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

シンポジウム無事終了!

 11月23日 イナバノシロウサギシンポジウムは無事、終了しました。約150名もの方に集まっていただきました。誠にありがとうございます。主催の八頭町役場、産業課の方々や観光協会の方々の非常に手際のよい準備により、講演会はスムーズに進行しました。細かな配慮が行き届いていると思いました。本当にお世話になりました。米子からもある禰宜の方から祝電をお寄せいただきました。ありがとうございます。地元で大評判の甘味屋の梅大福まで頂戴し、初めて口にしてそのおいしさにびっくりしました。ありがとうございます。
 鳥取産はおいしい、と巷でも評判が高まっています。カレーもギャル曽根さんで有名になったようです。
 
 そして、なんと八頭町長もお越しいただき、パネルディスカッションの最後までご清聴いただきました。
 この催しをさらに町の活気作りにつなげていくことができれば目標達成です。また、教育関係者の方も比較的多くいらっしゃったようで、今後、シンポジウムで話された内容がさまざまな形で反映されていくことをとても期待しております。
 
 筆者は講演慣れしておらず、結局、原稿を用意してスライド写真をスクリーンに写しながら、ほとんど読み上げていくというものでした。
 パネルディスカッションは、筆者は準備できておらず、ほとんどを他のパネラーのみなさんにお話してもらいました。コーディネーターの日本海新聞記者石井記者は、話の流れを上手に作っておられて、さすが、と思いました。パネラーの松本さん、平木さんも率直で的確なご意見でうまく場を盛り上げていただきました。
 そして、新さんは、主に歴史時代の因幡、八上の豪族が大和政権樹立に大きく貢献してきたことの形跡や、土師氏や物部氏と兎神の関連について展開され、話の内容が非常にアカデミックになりました。
 筆者もその中で何とか発言し、「八上の白兎は古事記の話のように騙したりしない尊い神であり、地元の方はもっと誇らしく思っていただきたいこと、伝承地や遺跡、社寺は直接自身の目で確かめして初めていろいろなことが感じ取れ、理解できること」を強調しました。
 
 では大胆にも、筆者の講演原稿を公開いたします。

 原稿版11月23日 イナバノシロウサギ神話シンポジウム
 八上の白兎と神々の伝承の謎  
 八上ルネサンスへの序章
因幡の白兎は、誰にでも知られている『古事記』神話の一つです。だましたワニに赤裸にされてしまった兎は、通りかかった大己貴命に助けられます。大己貴命は助けた兎に、これから出会う八上姫と結ばれることを予言されます。『古事記』にはその八上姫がいた八上の里がどんなところであったか、一言も記されていません。
鳥取市の白兎海岸には、この神話伝承と関連して白兎神社があります。白兎海岸の白兎神社本殿の台座には、珍しい菊の御紋が施されており、皇室との関連があるのではないかといわれながらも、長年謎とされてきました。
 一方、八上姫の住まう八上の里にはその謎を解く鍵が隠されていました。そこには、天照大御神の八上行幸の折、白兎が現れて行宮(あんぐう)にふさわしい場所へ案内した、といういわば「もう一つのイナバノシロウサギ伝承」が残っているのです。これが白兎神社の台座に残された菊の御紋の由来と関連すると思われます。
 八上にはたいへん貴重な伝承、それと関連する様々な神蹟があります。
 八上の白兎が天照大御神を案内
 因幡の中央、八上の霊石山山麓の城光寺(八頭町下門尾 現青龍寺)と慈住寺(八頭町土師百井)の縁起には「霊石山に天照大御神が行幸され、その時白兎が大御神の御装束を口にくわえて西方の伊勢が平まで案内された」と記されています。それを裏付けるように、霊石山には「伊勢が平(いせがなる)」という地名が今も残り、「皇居石(こうきょいし)」や「御冠石(みこいわ)」と名づけられたイワクラ等があり、霊石山の東の麓には3つの白兎神社があるのです。
 なお縁起には、鳥取・兵庫県境の山、氷ノ山(赤倉山)は、天照大御神が旭日に輝く日枝の山(ひえのやま)、と感動されたことがその名の由来であることも記されています。その縁起の伝承記述と符合するように、若桜町舂米(つくよね)集落には天照大御神御一行の行幸伝承が残っており、天照大御神の御製といわれる和歌が伝わっているのです。全国を見渡しても天照大御神の伝承の残る場所は極めてまれであり、しかも御製に至っては唯一、といってよいでしょう。
 須佐之男命と大己貴命も八上に
 現在の氷ノ山は山頂に須佐之男命の宮殿があったことから、昔から須賀の山(すがのせん)と呼ばれていた山です。ヤマタノオロチ伝承もここであるという説もあります。(『須賀の山雑記』山根達治著より)もと山頂にあった神社は、現在舂米集落に遷宮していますが、宇宙の根元神:造化三神(天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ))を祀っています。かつては因幡・美作・但馬・播磨4カ国の総社で皇室が管理されていた、という非常に格式の高いお社です。
 鳥取県神社誌によれば、旧八頭郡(古の八上郡と推定 郡家・船岡・八東・若桜・河原・用瀬・佐治・智頭町)には、199の神社がありますが、その半数近くの84のお社で須佐之男命を祀っています。これほど集中的に須佐之男命を祀っている地域は極めてまれといえるでしょう。これは人々を悩ませていたヤマタノオロチを退治した須佐之男命を英雄とみなしていることからでしょう。
 また、旧船岡町才原(さいばら:財原)の大江神社の地は、大己貴命(おおなむちのみこと)がこの地で民に農業を教えて、村が豊かになったとする伝承を残すところです。隣の鳥取市河原町には八上姫を祀る売沼(めぬま)神社やその御子神である御井神(みいのかみ)を祀る黒木神社があり、大己貴命を祭る神社が多く残っています。
 瀬織津姫命・イザナギノミコト
 『古事記・日本書紀』には登場しない瀬織津姫(せおりつひめ)が、八上の私都(きさいち)に集中的に祀られているのは、地名の由来と関連がありそうです。智頭町の虫井神社は瀬織津姫を祀る壮大なお社で、かつては船岡の大江氏が祭祀を司っていたようです。瀬織津姫とは 大祓祝詞(おおはらえのりと)に登場します。鳥取県は瀬織津姫を祀る神社が全国で3番目に多いところです。一番多いのが36社の岩手です。32社の静岡に次いで3番目の鳥取ですが、全部で25社あり、そのうち旧八頭郡に14社もあるのです。私都だけで4社もあるのは驚きです。私都という地名と瀬織津姫は密接に関連しているように思えます。瀬織津姫を祀る私都 花原の花原神社は天照大御神の行宮の地、伊勢が平(いせがなる)の真東に位置しています。智頭町の虫井神社も、天照大御神を祀る八頭町大江の赤倉神社のほぼ真南に位置することなど、何か関連を示そうという意図があるのではないかと思われます。
                    
 智頭町と岡山県奈義町の境にある那岐山(なぎせん)はイザナギノミコト・イザナミノミコトの降臨伝承に因む山です。麓の那岐神社は天地開闢(てんちかいびゃく)のときに現れた神世七代(かみよななよ)の神が祀られているという珍しいお社です。

 日本の神話を代表する天照大御神・須佐之男命・大己貴命・イザナギノミコト・イザナミノミコト(智頭郡もかつての八上郡だったと考えられる)の伝承が、そろって残るという、全国的にみてもきわめてまれな「神話のふるさと八上」は、今まで出雲神話の陰に隠れてあまり知られることはありませんでした。日本の神話を代表する神々の伝承が残る八上、因幡は、現在、大変注目を浴びている宮崎県よりも内容の濃い「神話のふるさと」といえるでしょう。
 
 石破洋元島根県立女子短期大学教授の『イナバノシロウサギの総合研究』をきっかけに、脚光を浴びつつある因幡・八上の神話伝承、特に八上に固有の天照大御神と白兎の神話、それに関連する数々の遺跡について顕彰していくことは、後の世にこの貴重な伝承を受け継ぐためにも、そしてかつての八上全体を活気づけるためにも大切なことだと思われます。

 以上をふまえて八上の神話伝承とそれに関連する遺跡などについてお話させていただきます。

 まず最初に、平成になってからこのようなムーブメントが起こった発端は、1999年兎年、石破洋教授のイナバノシロウサギに関する新説が日本海新聞記事に紹介されたことにはじまります。翌2000年石破教授は『イナバノシロウサギの総合研究』を出版されました。これはイナバノシロウサギに関する初の学術研究書で、『古事記・日本書紀』の研究対象として掘り下げられなかった八上にはじめてスポットがあてられたものです。石破教授の研究の諸成果なくして、私たちの今日のような催しは決してありえなかったことです。実は約50年前の昭和32年、郡家町の広報にもこの伝承が紹介されたことがあります。しかし、それを引き継いで大きく取り上げる動きはそのときは現れませんでした。

 これから八上のお話をする前に、まず、因幡の地名由来について私が思うことを述べていきます。
 稲葉とは稲作に関係のある地名ですが、どうしてこのような名前がつけられたのでしょう。その謎を解く鍵は稲葉神社です。鳥取市立川にあります。祭神は稲葉大明神です。稲葉大明神とはどのような神様でしょうか。稲葉大明神は稲葉神社の東の卯垣(ぼうがき)にあった半月形の苗代田、古苗代と関連があります。現在は消滅した古苗代跡、そこには記念碑が一本あるのみです。大苗代というところもあったそうです。これは稲葉大明神がどこからかお越しになり、稲葉の民に、初めて苗代を用いた稲作を伝授されたところなのです。そして漢字は稲場、稲葉、稲羽、現在の因幡へと変遷していきますが、音は正確に伝えられていったものと思われます。
 ところで、同じような遺跡と伝承が伝わるところがあります。京都府北部、天橋立の手前、丹後半島の山間部、現京丹後市峰山町二箇というところに「月の輪田」という名前の半月形の苗代田が残っています。残念なことに、実は本来の月の輪田は昭和の圃場整備で消滅し、移転・縮小されています。この月の輪田は、丹波の地名由来と関連するのではないかといわれています。田庭が田場になり、現在の丹波になったと考えられます。
 月の輪田のすぐ隣の久次には久次岳という山があり、その麓には比沼麻奈為神社があります。祭神は伊勢神宮外宮の豊受大御神です。久次岳の中腹から山頂にかけては禁足地とされていますが、そこには、古代の祭祀場跡があるようです。豊受大御神の伊勢神宮外宮故地といわれているところです。豊受大御神の伝承が色濃く残るところで、月の輪田には、豊受大御神が丹波で初めて稲作を始められたところという伝承があるのです。そして豊受大御神は周辺の地域にこの稲作の方法を伝授されたそうです。隣の豊岡市は豊受大御神と関連のある地名ですし、但馬もその可能性が高いでしょう。摂津にも伝承があります。
 このような伝承内容の類似関係を見ると、稲葉大明神とは豊受大御神であるのではないでしょうか。
    
 続いて因幡の祖先神について考えて見ます。鳥取市湖山のかつての高草郡には天穂日命と、その御子神を祀る神社があります。天穂日命の末裔、土師氏の始祖であり、相撲の始祖でもあることでも有名な野見宿禰命を祭る神社もあります。土師氏と名乗り始めてからの拠点は実は八頭町の土師郷ではないでしょうか。土師氏の系統から後に学問の神様で有名な菅原道真公の菅原氏や、大江氏が登場します。土師氏は皇室と非常に関係の深い氏族です。
 天穂日命は天照大神の御子神ですが、出雲の国譲りの際の交渉役として高天原から派遣された神です。天穂日命は出雲大社の祭祀を司る北島家と千家家の始祖でもあります。 因幡の氏族の一つである土師氏は因幡全土に多く分布し、特に八上と高草に多いようです。土師氏の職掌は、土師器の製造と陵墓の造営・管理です。八上の私都谷と下坂、奥谷には、非常に窯の跡が多く土師氏の分布と重なっています。そして霊石山山麓を中心に古墳群が多く分布しています。またその中には特殊な形の古墳もありました。福本70号墳がそうです。これもいずれは復元されると良いでしょう。
 

 八上の神々
 ここで八上の名称由来について少し私なりの推測を述べたいと思います。先ほど那岐神社の紹介をしましたが、神世七代の神、6代目がオモダルノミコト、七代目がイザナギノミコト、そして、8代目が天照大神なのです。
 和歌山県南紀白浜の近くには熊野古道があり、そこに八上王子という神社があります。ハニカミ王子ではありません。ハンカチ王子でもありません。(註:笑いをとろうとしましたが、失敗しました。残念!)この神社の主祭神は天照大御神です。また、天照大御神を祀る伊勢神宮内宮のご神体は八咫鏡で、これも数字の八と関係があります。八という数字と天照大御神の関連があり、ここに天照大御神がお越しになったという歴史的事件を象徴する地名として八上となったのではないでしょうか。

 天照大御神伝承と白兎 
 地元の青龍寺・慈住寺の縁起に記された天照大御神と白兎の伝承をご紹介します。鳥取市方面との境には門尾の三本松があります。このあたりで天照大御神は白兎と出会います。白兎は天照大神の装束の裾を銜えて、行宮にふさわしいところへと導きます。
 そして、霊石山の山頂近くの伊勢が平という平原まで、天照大御神ご一行を導き、そこで姿を消してしまいます。天照大御神はしばらくこの伊勢が平で行宮され、八上を治めます。その後、八東、若桜を経て氷ノ越えの道を進まれ、雪深い峠近くで、美しい樹氷をご覧になり、御製を詠まれました。
 
 霊石山とその周囲の神蹟をみていきます。まず霊石山の東側の麓には私都川が流れ、古の八上の街道がありました。それに沿うように3つの白兎神社があります。福本には八上の白兎神社本社があります。福本の南西方面には池田の白兎神社があります。そして土師百井にも、もと白兎神社があります。ここだけ、もと、という言葉がくっついていることはとても重要だと思います。いずれも大正3年、1914年に宮谷の賀茂神社に合祀されました。福本の白兎神社の立派な社殿は幸運にも壊されることなく、当時の青龍寺住職によって青龍寺本堂の厨子として再利用され、現在に至っています。福本の燈籠は同じく賀茂神社に移設されたものと思われます。白兎大明神と記された燈籠が賀茂神社の木製鳥居の前に残っています。
 ところで少し話はそれますが、宮谷の賀茂神社の主祭神である瓊瓊杵命と、宮谷にある5つの堤には関連があるように思えます。
 賀茂神社は、平安時代に藤原氏によって選定された式内社には含まれていませんが、この賀茂神社が、かなりの崇敬を受けていた神社であることの証として、育英小学校跡地の前にある御旅所跡があります。かつては神輿の渡御が行われていたのです。
 飢饉や日照りが続いたときには、近郷の農民が賀茂神社にお参りに来ていたのだと思われます。また、井関や、堤などの具体的な水利の技術を学んだのかもしれません。私は、瓊瓊杵命と宮谷にある5つの堤とは大いに関連があり、おそらくこの堤のうちの一つは、瓊瓊杵命ご一行がここにおいでになり、おつくりになったものではないかと思っております。
 白兎神社の話に戻ります。
 門尾と、下門尾にもそれぞれ白兎神社の氏子の集落として、白兎神社と刻まれた燈籠が残っています。祭礼の日には白兎神社の幟が立てられます。
次に、霊石山山頂付近の伊勢が平です。ここまで天照大御神御一行を案内したシロウサギはここで、姿を隠してしまいます。ここには、大小二つの岩があり、皇居石、または皇后石と呼ばれています。この山頂の不思議な平原にしばらくの間、天照大御神は行宮されます。 御冠岩はこの伊勢が平の西の山腹にあり、そこからは、河原平野を望むことができます。天照大御神がこの岩の上に冠を置かれたのでその名がつけられたようです。ここは稲羽誌によれば、かつては因幡を代表する名所だったようです。今ではここを訪れる人はきわめて少数です。 
 天照大御神が実は男の神様であることをうかがわせる伝承となっていることにお気づきの方もいらっしゃると思います。実は天照大御神は、男の神様として描かれている場合もないわけではありません。
 祇園祭の鋒と山は何十もありますが、その中に岩戸山があります。この岩戸山は、天の岩戸開きをテーマとしているとしているものですが、祭神のお姿を象った像が祭りの時には一般公開されています。私もこの夏、祇園祭の期間中に、行って見て来ました。イザナギノミコト、タヂカラヲノミコトとならんで、天照大御神の像が鎮座しています。岩戸山保存会の方のお話によると、ずっと昔からここでは天照大御神は男の神様として伝わってきたそうで、伝統を重んじる京都ですから、女神を男の神様へ変更することはありえないことのようです。
 他にも、源氏物語に出てくる奈良の長谷寺にも天照大御神が雨宝童子という男の神として像が安置されています。江戸時代に活躍した円空という仏師も男性の天照大御神の像を制作しています。平安時代の大江匡房(おおえまさふさ)も伊勢神宮奉納の装束から天照大御神は男神と断定しています。

 このように、天照大御神が男の神であるということを示す例も少ないながらも残っていることは注目すべきことであろうと思われます。その点からも、ほとんど伝承の残っていない天照大御神の、しかも男の神様としての様子が伺える八上の伝承は非常に重要です。
 さて、続いて米岡神社です。元は伊勢ヶ平に祀られていたものを今から500年位前にこの地に下ろして祭っているということらしいのですが、白兎ラインのことを考慮すると、どうやら、この米岡にも古くからお社があったとしか思えません。全国的に見ても極めて珍しい天照大御神伝承に基づくお社です。八上はすごいところですね。

 次は若桜町、氷ノ山の天照大御神伝承に話は移ります。
若桜町舂米集落には天照大御神御一行の行幸伝承とともに、ここで天照大御神がお詠みになったとされる御製が伝承されています。その御製を紹介します。

 あしひきのやまへはゆかじ
        しらかしのすえもたははに
                ゆきもふれしば 
 実はこれと酷似する和歌が万葉集に載っています。柿本人麻呂編集による万葉集10巻 2315番の和歌です。因幡万葉歴史館の庭園にあるシラカシの植樹のところでも紹介されています。

 あしひきのやまじはしらず
        しらかしのえだもとををに
                ゆきもふれれば
 私は、大胆な推論を立てました。万葉集の中の詠み人知らずの和歌の中には、私たちの祖先神たちの詠まれた和歌が多く含まれているのではないかということです。和歌を詠むことは、すなわち政の一環として非常に重要視されていたことからもその可能性は高いと思います。
 天照大御神は、雪の降り積もる舂米の集落、あるいはスサノヲノミコトの宮殿でしばらく氷ノ越えの機会をうかがっていたのかもしれません。そして朝日に輝く樹氷のすばらしい景色をご覧になって、複数の何らかの意味を重ね合わせてこの和歌をお詠みになったのでしょう。
 天照大御神がお通りになったこの道は、後の伊勢道として伊勢参りが盛んになった江戸時代ごろには、由緒あるところとしてその名が知られていたようです。 各所に伊勢道の道しるべが残っています。八頭町の加藤要治氏が、鳥取県内のこのような古くからの石碑の詳細な研究をされて、1冊の厚い本を出版されています。
 ところで、氷ノ越えの峠には、かつて因幡堂というお堂があり、そこには大兎明神が祭られていたそうです。因幡の国境付近には八上姫を祀る神社やシロウサギの伝承が必ずといっていいほどあります。因幡堂は、現在は但馬にあるそうですがどうなっているのでしょうか。できればこの峠に再建されるといいですね。
    
 白兎神社のラインこのラインは地元福本の郷土史研究家、新誠さんと私が共同発見したラインです。このラインに基づく遺跡の位置関係は、古代において暦を知る手段として重視されていたのではないでしょうか。 日知り(ひしり)、聖神社という名の神社もありますが、これも関連するものだと思います。太陰暦に基づく暦は、農作や漁業においても大変重宝されているようで、暦を正確に知ることはとても重要なことだったと思います。
 もちろん暦を知るのみならず、このように、神々の拠点をその地に置いているということは呪術的な意味も含まれていると思います。東西のライン 富士山、恵那山、伊吹山、元伊勢内宮、八上、三徳山、大山、出雲大社がならぶことはとても不思議です。恵那山には天照大御神のご誕生の際の胞衣(えな)が埋設されたという伝承があります。元伊勢は天照大御神を祭る壮大な社で、80以上もの摂社があります。かつては因幡からも多くの参詣者が来ていたそうです。氷ノ越えの伊勢参りは実はこの元伊勢参りがメインでした。
 八上姫 
 莫男(まくなむ)駅というちょっと変わった名前の駅が八上にあったそうです。これは 奈良・平安時代の律令時代に作られた街道に設けられた駅ですが、旧八頭郡地域では他に智頭に道俣駅があったようです。なぜ八上の駅にはこのような名前がつけられたのか、ということに関して土師百井の郷土史家三木薫先生は、男つまり、夫、恋人と泣く泣く別れて相手を無くした八上姫のことを言い換えたものではないか、と解釈されています。すると、この名前が残る場所の付近が八上姫の本拠と考えられるのではないでしょうか。石田百井には井古田という字が残っていますが、これは忌子、つまり、祭祀を司る巫女を意味するものであったのではないかと考えます。
 いずれにせよ、白兎神社のある土師百井、池田、福本、全国最大レベルの規模を持つ郡役所、八上郡衙のあった万代寺に八上姫のご住居と、祭祀の施設があったのではないでしょうか。あるいは、野々宮神社のある船岡町上野(かみの)、下濃(しもの)も有力です。
 では八上姫を祀る神社を確認していきます。まず、鳥取市河原町曳田の賣沼神社です。ここは八上で、現在八上姫を主祭神として祀り、最も厚く信仰されている神社です。元の社地は隣の簗瀬山中腹:嶽古墳近くにあったそうです。
 旧船岡町才原の大江神社は大己貴命、天穂日命、美穂津姫命の神を主祭神としていますが、このお社には、なんとかつては30くらいの摂社があり、その中の一つに八上姫を祀るお社がありました。現在は本殿に合祀されています。いずれ、元のように摂社ができるといいですね。
 鳥取市河原町佐貫にある都波只知上(つばきちかみ)神社にも八上姫が合祀されていますが、元は同じ佐貫の、字石坪にあった神社に主祭神として祀られていたそうです。以上の3つの社が八上郡の中で祀られている神社です。
 では八上以外で八上姫を祀る神社を見ていきます。
まず鳥取市用瀬町にある犬山神社です。残念なことに、神社の由緒書きに八上姫の名は上げられていませんが、町誌などには八上姫の名が祭神として記されています。ここは珍しく、大己貴命がアシハラノシコヲノミコトという珍しい呼び名で祀られています。犬山神社の宮司様のお話によれば、ここに安蔵長者の娘であった八上姫と大己貴命がお住まいになっていたそうです。ここは八上から外れているところなのですが、八上姫という名前であることからやはり、かつての智頭郡も八上の一部であった可能性が高いといえるでしょう。
 最初に紹介した稲葉神社にも八上姫が祀られています。稲葉殿として大己貴命と八上姫を特別に祀っているようです。因幡を象徴する神社に祀られるようになった経緯には何か深いものがあるのではないでしょうか。  
 そして、因幡の北東、岩美町岩井にある御湯神社には大己貴命と八上姫、御井の神が祀られています。ここには波兎の彫刻が燈籠に施されており、八上姫ファミリーがすべてそろっている珍しい神社といえます。伊勢宮とも呼ばれる壮大なお社です。
 鳥取市青谷町の長尾鼻は石破教授が古事記のイナバノシロウサギと大己貴命が出会った気多の崎ではないかと推定されているところで、因幡と伯耆の国境近くです。ここにも八上姫を祀る塩津神社があります。ここにはあの青谷上寺地遺跡があり、そこから、フトマニに用いる卜骨(ぼっこつ)が大量に出てきた祭祀拠点でもあった所です。
 今回、講演依頼を受けて、その前にぜひとも確認しておくべきところとして国府町菅野の酒賀神社がありました。主祭神は八上姫と大己貴命、扇の山の神、オオヤマズミノミコトです。最も奥まった因幡の国境付近にしては壮大な境内地と参道、社殿があり、格の高さを感じました。驚くべきことは、ここの祭祀を司る長尾宮司は、当代で50代目に当たるそうです。一世代を30年と計算すれば約1500年前から、一世代を40年と計算すれば、約2000年の歴史を持つ、長尾家です。若桜の須賀ノ山がかつてはスサノヲノミコトとクシナダヒメの宮殿のあった場所だという言い伝えがあることを有力視すれば、ここは、八上姫と大己貴命の宮殿のあったところなのではないでしょうか。
 そのほかに祭神としてでは在りませんが、因幡一ノ宮、宇倍神社は八上姫のご誕生されたところという伝承も残っているようです。
 以上見てきたように八上姫が八上以外で祀られている理由は、実は因幡全体がかつては八上と呼ばれていた時代があったことによるものだとおもわれます。
 八上姫は因幡の国の神 
 八上姫の化身はイナバノシロウサギという石破教授の説から、八上姫=イナバノシロウサギは太古の因幡の国の神ととらえてよいと思います。因幡全体に残るさまざまな神々の伝承を、顕彰し、特に因幡の国の神である八上姫とシロウサギの神を称えると、因幡の未来は明るくなると思います。


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2008年11月17日

日本海新聞に記事が 

 本日の日本海新聞朝刊に私め、白兎の小使いへのインタビュー記事が筆者の見苦しい写真とともに、載りました。23日の講演会へ向けた内容です。
 
 23日午後1時半より八頭町郡家公民館(宮谷)、講演会とパネルディスカッション、お時間がございましたらおいでください。
 講演では、因幡の地名由来なども織り交ぜて、因幡・八上に伝わるさまざまな神話伝承や、神社祭神のお話をするつもりです。
 講演内容が風化しないように、詳しい要約も当日お配りします。好評の白兎・波兎マップも用意しております。(先着順です。)拙著も販売をいたします。
posted by yakamihakuto at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月16日

酒賀神社 由緒 その1

 筆者が八上姫のお社として最も注目する酒賀神社、境内にある石製の由緒書きの内容を紹介します。

 「祭神  大己貴命 八上姫 大山祇命
 例祭 四月十九日  十月十九日
 
 三代実録所載の国史現在社で菅野大明神とも称する
旧大草郷十三ヶ村の氏神であり郷中の一ノ宮である
 そもそも当神社の創立たる判然として知ること能わざれども古伝旧事記に依りて考えるに今を去る千百余年の昔 天平勝宝六年須賀山の麓に坐す宮処を栃本山が鼻に奉移 皇室の尊崇により貞観三年従五位下 同十六年従五位上を授けられる
 元慶元年地方大震災のため宮殿社地崩壊したるを以って翌二年須賀山の旧社地へ復遷 其の後元和八年三月 野火 山に入り社殿まで残らず灰燼に帰したるが故に寛永元年九月再営 天保十三年八月社地を菅野山の峰に移転し宮祠を再建成就す   現在の社殿 即ち 是である
 明治五年二月 郷社に列せられる」

 幾星霜を経る中で幾多の困難を乗り越えてきた酒賀神社の由緒です。それにしてもこの酒賀神社のこの写真、なんだかジーンとくるものがあります。天気のよかったのもあるのでしょうがそれだけではないような気がします。本殿のすばらしさもありますが、筆者は、いくつか撮影した酒賀神社の写真のなかで、この拝殿を写した写真に非常に感激しました。筆者は、このあたりに八上姫と大己貴命の宮殿があったのだとなんとなく確信しています。この拝殿は、その古の宮殿を模したものではないかという気がしてくるのです。
 いずれこのあたりも詳しく探索させていただくことになりそうです。
 とにかく、八上姫に関心のある方は、この酒賀神社はmustな場所です。ぜひご参拝ください。筆者は非常に心惹かれています。理由は説明できません。
ある意味で、因幡の神社を研究していくことは、自身のルーツ探しにつながっています。
 そしてルーツを遡っていくと、因幡の住民のほとんどが、神々の系統とつながっていることがわかります。私たちは、もっと祖先神のことを知る必要があります。縦の系統はとても大切です。

酒賀神社拝殿
posted by yakamihakuto at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

清流茶屋かわはら=八上姫の駅

 清流茶屋かわはらは道の駅の中でも中国地方屈指といわれるほど評判の高いところだそうです。
確かに、イナバノシロウサギ伝承や、特に、八上姫を大きくクロースアップした戦略はみごとに地元ならではの特色とマッチしています。賣沼神社とも上手に連携して、神様のご利益を戴いていることも勝因ですが、マネージメント、マーケティングの高度なノウハウを持っており、他の観光地でも大いに参考になる点が多いのではないかと思います。この清流茶屋かわはら自体が、すでに観光名所となっているのです。ニュータイプのテーマパーク、テーマステーションといえます。(莫大な負債を抱えて数年で潰れる地方のテーマパークとは違います。)
 筆者も、拙著を出版した直後に、こちらでの本の販売をお願いしたところ、すぐに快く受け入れてくれました。実際、このたび訪れてみると、拙著はすでに売り切れとなっており、早速在庫補充しました。
 さらに、ここは八上姫を中心に、イナバノシロウサギ伝承にかかわるさまざまな情報の発信基地となり、訪れるたびごとに、その内容レベルが高くなってきているのを感じます。さまざまなイベントもこの道の駅で催されています。
 常に更新し、アイディアを出し続けることは、人体の新陳代謝のように必要なことなのです。 担当の方は相当な研究もされており、たまたま筆者が事務所を訪れたときに、偶然にも拙著をお読みいただいていたようで、筆者はシェーッ、と驚きました。
 筆者も非常に注目しています。このブログも以前に紹介されたようです。ありがとうございます。
 八上姫、イナバノシロウサギ伝承地顕彰を鳥取市という現代の行政区に限らず、因幡全体に広げていくと、本当にその神話の価値が高まると思います。実際、現時点で、物産に関しては行政区分は関係ないようで、若桜や大江の物産も販売されています。ですから神話伝承もより整合性が取れるように、因幡全体へと広げていくのが自然でしょう。
 筆者は、宮崎よりも、因幡のほうがより豊富な神話伝承を残していると思います。ですから、取り組み方次第では、全国的に有名な神話伝承の観光地になりうると思います。
 道の駅は、その地元で取れる物産販売のみでは、いずれ行き詰まると思います。やはり、その地に固有の情報や古くからの伝承、ありきたりではなく、隠れた観光名所情報など、文化的なものを、旅行者は求めているのです。そのあたりのニーズをしっかりとキャッチしている点は、本当にすばらしいことであると思います。今後の活躍が期待できます。
 
 奈良・平安時代に、おそらく八頭町石田百井にあった莫男駅(まくなむえき)=八上姫駅は、平成の世に、ここ河原町高福に国道53号線と、近い将来開通する鳥取自動車道という主要幹線における現代版莫男駅=八上姫駅として蘇りました。これは、江戸時代後半以降、売沼神社を中心に、地元の人たちが八上郡内でもっとも八上姫を称えてきたことの因果とも言えるでしょう。旧八上郡で以降現在に至るまで、八上姫を最も称えているのは間違いなく河原町・売沼神社です。
 一方、筆者はもともとの八上の範囲を因幡全土ではないか、と推測していますが、その点から言っても歴史上一貫して八上姫を主祭神として、2000年近くにわたって称えてきたのは、先日紹介した鳥取市国府町菅野の酒賀(すが)神社、祭祀を50代受け継いできた長尾宮司家であることを忘れてはならないと思います。八上姫の謎を解く上で、最も重要な社が酒賀神社です。
 八上=因幡全土とは、八上姫を娶った大己貴命が、そのことにより、因幡全土を勢力圏としたととらえられるからです。
 筆者は八上姫伝承地と、八上姫を祀る神社を参拝して、八上姫は因幡の複数の場所に居住されたのではないかと思うようになりました。
 これは、丹後地方においても豊受大神の伝承地が複数あり、そのいずれもがなんらかの根拠があるからです。もちろん、メインの場所はあると思いますが、あまりそこで決着をつけようとすると、こじれるので、どれも候補地として、取り上げるのが妥当ではないでしょうか。
 その後の信仰の深さや持続によって、最終的にはどれが本当の場所かは分かってくるように思えます。いずれにせよ、もっと八上姫を祀る神社や白兎を祀る神社が増えてもいいと思います。
 少し、見方を変えると、神社合祀は結果として白兎神社関連の地を賀茂神社、青龍寺と、2箇所増やすことになりました。マイナスがプラスに転化したともいえるのです。そのあとは地元の住民の盛り上げ方次第であると思います。
 それと、地域の皆さんにもちゃんと利益が還元されるようなシステムが構築されることが大切です。特に自動車道が整備されると、実は自動車道が敷設された地域の経済力が弱まるのは見えています。自動車道の途中の出口に降りてもらえるよう、観光資源をもっと宣伝・開発していくことは大変重要です。
 
 


posted by yakamihakuto at 00:23| Comment(6) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

平家と源氏

 八上の山奥には平家の落ち武者伝説がいくつか伝わっています。八頭町姫路は安徳天皇とその従者たちの伝承が残っていますし、現在兵庫県との県境近くの若桜町の落折(おちおれ)集落は全戸が平家という苗字を持つ珍しい集落として有名です。筆者は連休最初の探索地としてこの平家集落を訪れました。
 ここには多くの中学の国語教科書で登場する「敦盛の最期」、その平敦盛の実父、平経盛(たいらのつねもり)の一行の隠れ棲んだといわれる洞窟跡や平経盛以下18名の従者が眠る墓所があるのです。
 同じく集落内には当初は自らの出自を平氏であると悟られないように、社を藤原神社として祀っていたようです。
 社は、国道29号線から程近い小山の頂上にあります。
 驚いたことに、その小さな社殿の扉には大二という文字と、主の神のシンボルマークである丸に点を象ったマークがつけられていました。大二とはなにを意味するのか、わからないので、地元の方にお聞きすると、特に意味はないようだ、という返事がかえって来ました。
 筆者はそこで、思い当たることを考えました。主(す)の神を示すマークのすぐ隣の大二とは同じく、根源神を示すものとして、伊勢神宮で使われている太一であるだろうことが頭に浮かんできました。太一を縦に書いたときに、太の点がずれると下の一と一緒になって二という漢字になり、同じく上の字は大という文字になってしまったのではないかと推測されます。

 すなわち、平家、平経盛ご一行が、伊勢信仰を正確に根源神信仰であるととらえていた可能性が大きく、すでに、そのすぐ後に登場する鎌倉時代の伊勢神道と同一の神道観を持っていたであろうことをうかがわせます。
 また、地元の方のお話によれば、平経盛一行は賀露港より千代川をずっと遡上して、この地にたどり着いたらしいということなのですが、それだけではなぜ、八上を選ばれたのかは理由がわかりません。ここでも、ひょっとすると八上の白兎が何らかのお導きをされたのかもしれません。
 
 一方、反対勢力である源氏の源範頼もなぜか、伊豆の修善寺より八上の、しかも白兎と縁深い霊石山へ逃れ、そこで僧として身を隠します。
 源氏であろうと、平家であろうと、訳ありながらも逃げ延びてきた人々を温かく匿い、、迎え入れていったのが八上の人々の懐の深さではなかろうかと推測します。

 八上では宇宙根源神=主の神、造化三神、神世七代(国常立命〜イザナギイザナミ)をすべて祀っていることになります。

平家 崇敬神 シンボル
posted by yakamihakuto at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 若桜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

因幡万葉歴史館

 因幡万葉歴史館は、因幡国の国主として赴任した大伴家持が万葉集最後を飾る歌をこの因幡の地で詠んだことを記念して平成になって作られた記念館です。(ちなみにこの歌を最後に大伴家持は一切歌を詠まなくなります。そこには藤原氏との確執があったとも想像されます。)
 そこにある庭には、万葉集の和歌に登場する木々や植物が植えられています。その中に、あのシラカシが植樹され、その根元には、万葉集10巻柿本人麻呂の編集した詠み人知らずの歌、
 足引きの山路も知らず
    しらかしの枝もとををに
          雪のふれれば
 が紹介されていました。
 もちろん、この和歌の類似の
 
 あしひきのやまへはゆかじ
    しらかしのすえもたははに
          ゆきのふれしば
 が八上の若桜町舂米に、天照大神の御製として伝わっていたという事実は紹介されていません。
 しかし、これは一つの驚きです。シンクロニシティーといいましょうか。実に不思議です。
 万葉集は、約4500首もの和歌が収められていますが、その中には詠み人知らずの歌も多く、もし、文字が存在していなかったとするなら、どのようにそれらの歌が伝えられてきたのか、疑問な点もあります。

 筆者は以前にも述べましたが、万葉集の中の詠み人知らずの和歌のなかには、神々の詠まれた和歌が多く含まれているものと思います。和歌は、政治と密接な関係を持っていた、という事実からもこのことは妥当ではないかと思います。 特にシラカシという言葉は、政治の舞台と大変重要な関連を持つものとして使用されてきたように思います。
 奈良県にはシラカシに因む地名が比較的多く見られるのはこのためであると思われます。
 奈良と八上の類似性に気づいておられる石破教授や、郷土史研究家の新誠さんの見解とも一致するものと思われます。


posted by yakamihakuto at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 国府町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

犬山神社

  鳥取市(旧八頭郡)用瀬町にある犬山神社に参拝しました。こちらは国道53号線、あのスーパーはくとの通過する因美線のすぐ近くにある小高い山の頂上に社殿が鎮座しています。ここは、珍しくも大己貴命がアシハラノシコヲノミコト、という祭神名で祀られています。
 
 宮司様からお話をお聞きしました。するとこちらには八上姫も祀られているそうです。以下は犬山神社の宮司様のお話です。メモを取っておらず、若干不正確になっているところがありはしないかと少々不安ですが、ご紹介します。また、近い将来、正確にお話を書きとめるつもりでいます。
「八上姫は安蔵長者の娘として生まれ、この犬山神社に大己貴命としばらくお住まいになったそうです。その後、出雲へ向かうときにやはり正妻を怖れて、売沼神社のある河原町曳田で八上姫と別れ、二神の間にすでに宿っていた御子神、御井の神を河原町高福の黒木神社の地でお産みになり、朽ちた桜の木にできた穴においておかれたそうです。それを見た地元の民が、これは恐れ多いこととして、御子神を大切に育てられたということです。」
 にわかに信じがたいお話です。(シェーッという感じです。)
 智頭郡であるのに、八上姫と呼ばれていることは、その昔、智頭郡が八上の一部であったことを示すのでしょうか。
 八上姫は大己貴命とともに、出雲へ向かわれて、そこで、御井の神を三井神社でお産みになって、御井の神を木の俣においたまま、一人、ふるさとへお帰りになった、という出雲の地元の伝承と矛盾してきます。
 また、八上姫はこの八頭郡から一歩も出ておられないようで、御井の神をお産みになって、どういう理由でかわかりませんが、その後お育てしていないこと、などが疑問点として残ります。また、拝殿上部に設置された由緒書きには祭神名として八上姫が上げられていないことなど、八上姫に対する扱いが一貫していないところが気になります。
 しかし、八上姫の何らかの伝承を多少不正確さも交えながらも残しているものとして、軽く見てはいけないものであるといえるでしょう。
 

posted by yakamihakuto at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

酒賀神社

 この連休を利用して、筆者は今まで行くことのできていなかっ寺社や観光施設を精力的に回ってきました。
 その結果、またもや驚くべき事実がいくつか浮かび上がってきました。
 その筆頭は鳥取市国府町菅野にある酒賀神社です。
ここは、主祭神が八上姫と大己貴命、そしてオオヤマズミノミコトです。
 そのすぐ近くの大石というところの大石神社には、なんと御井の神が祀られています。ところで、昔の人たちの道とは、尾根伝いの道もありました。下界は安全性の点から、交通を避けることもあったようです。このような話はほかの地域でも聞いたことがあります。今年5月に八頭町宮谷の賀茂神社の山に登りましたが、まさに山頂から尾根伝いに道が残っていました。
 この酒賀神社のある山を須賀山(すがやま)と呼ぶそうですが、尾根伝いに南へ行けばあの赤倉山、そして須賀の山(すがのせん)へと通じます。須賀の山は以前紹介したとおり、ソ(ス)サノヲノミコトとクシナダヒメの宮殿跡、御陵のあるとされるところです。北へ行けば、湯村温泉へとつながる蒲生峠、そのすぐ近くの御湯神社には大己貴命、八上姫、そして御井の神が祀られています。御湯神社は伊勢宮とも呼ばれている大変格式の高い神社です。ここにも廃寺跡が隣接していることから断言できます。また、峠の名前から、イナバノシロウサギに登場する蒲の穂綿もおのずと連想されます。
 これらの事実、他の関連の社との位置関係より、この酒賀神社の格式の高さを非常に強く感じました。
 

 社の壮大さにも参道の雰囲気にも驚きました。参道は杉並木で、あの三重県の伊勢神宮別宮滝原宮を思い起こさせる風情があります。
 そして、何よりも、ここの神社を守ってこられた長尾宮司家の当代宮司様がなんと50代目に当たるということです。
 これは驚きです。50代とは一世代を約30〜40年と計算して、約1500年前〜2000年前が初代となります。
 祭神は創建当初より八上姫と大己貴命だそうです。のちに扇ノ山の神、オオヤマズミノミコトを祀るようになったということです。
 筆者は、この長尾宮司家は八上姫の系統の方ではないかと、推測しました。
 また、個人的に驚くべきこととして、長尾宮司様のお話をお聞きすると、どうやら筆者の八上、大江谷の家系ともご縁があるようでした。シェーッ!

 
posted by yakamihakuto at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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