2008年12月26日

八上 冬至 日の入り

 八上 福本の白兎神社からの冬至の前日の日の入りの写真が八上出身の方から届けられました。ありがとうございます。
 ちょうど河原の賣沼神社方面へと西の日が暮れていきます。西の日天王とはここを基点に生まれた呼称だろうと、郷土史研究家の新誠さんは指摘しています。
 これからいよいよ八上 白兎神社復興へ大きく前進します。
それにしても、写真に写っている一番上の雲が白兎の顔に見えるのは私一人だけでしょうか。


冬至 日の入り
posted by yakamihakuto at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 郡家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ホツマ文字とウサギ

 先日の講演シンポジウムで神様カードを頂戴した方とのメールのやり取りで、驚くべきブログを紹介していただきました。なんと、以前紹介したこともある大神神社のなでウサギの正面からの形がホツマ=ヲシテ文字のトとそっくりだと指摘しています。詳しくはこちらを参照してください。

 うさぎは昔は何と呼ばれていたのでしょうか。ウ(卯)と呼ばれる以前は、ト(兎)と呼ばれていたかもしれません。うさぎが神の使いとしてその像が境内に装飾されている神社の祭神は原初の神を祀っている場合が多いことを、以前記しましたが、やはり、トのヲシテと関連するのかもしれません。
 それを古事記神話の作者がうさぎの本来の神聖性を歪めるために、「ワニを騙して」云々の話を挿入したのではないでしょうか。八上に伝わる白兎伝承には騙しの話など一切無縁で、非常に神々しい印象しかありません。 
 トの教えとは初代天神国常立命の立国の教えであり、人類社会に普遍的な理念が示されています。やはり、ウサギ神には深い意味が付与されています。
 トノという音を持つ地名も、因幡、八上に数箇所残っています。殿様という名前もこのあたりが関係しているのではないでしょうか。整う(トトノウ)も関連ありで、数字の十(ト)も神を表すのでトには深い意味が隠されているのかもしれません。トは北を示しますし、ト(うら)は占いをも示します。兎野(トノ)とも漢字を当てはめることができます。トを取る(獲得する)でトットリ(鳥取、十取り)とも関連するかもしれません。
 地名の由来はそれぞれ、比較的新しいのかもしれませんが、八頭、という地名の持つ不思議な偶然性と合わせ、何か無視できないものがあるようにも思えます。
 記紀のみでは、日本の神々の正確なご業績も不明で、神社へ参拝しても、祭神の神徳もわかりづらい思いをし、閉塞感を持たざるを得ないもどかしい気持ちがありました。
 しかし、ホツマをはじめとするヲシテ文字の文献によって、一挙に日本の神々の業績とその偉大さ、そして、現代にまで引き継がれる日本の精神文化のすばらしさの源がすべて理解できるようになります。
 仮にこれらが神代の時代および、崇神天皇〜景行天皇の御世に記されたものでなく、江戸時代の高度な思想家によるものであったとしても、何らかの方法によって神々の考えを忠実に再現したものといって間違いないと思われます。それは花形隆一郎氏や、鳥居礼氏がすでに指摘しているように、江戸時代に存した思想家の世界観、神道観、支配的なイデオロギーとは大きく異なるからです。プラトンが霊感によってアトランティス大陸の存在を示唆したごとくに、無から有が生じたとしか言いようがないのです。
 ホツマに記された全国各地の古い地名にしても、これだけのもの(実際に触れてみてください。ネット上でもホツマの文章は全て公開されています。)を掲載するには、東北から九州にいたるまで全国津々浦々を歩き回らなければ得られないようなものが多く、自由に全国各地を旅することのできなかった時代にそれらの情報を収集することは不可能です。しかも古い地名のみを選び取らなくてはならないのは、至難の業、まさに神業としか言いようがありません。
 しかも神社の祭神や伝承にいたっては、すりかえられたり、埋没させられているものもあり、それらをホツマのように記すことは不可能です。
 
 記紀は日本の神々の業績や神々の精神的深さ、人類愛、哲学的世界観をほとんどすべて消し去った代物であることが明確に浮かび上がってきます。
 ではなぜ、このようなすばらしい歴史や世界観が消されてしまったのでしょうか。
 
posted by yakamihakuto at 10:13| Comment(2) | TrackBack(0) | うさぎ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月18日

地名の変遷

 筆者はかつての因幡全体が八上と呼ばれていたのではないかという推論を立てています。
 八上と呼ばれる前は、地理的範囲は確定できませんが、ホツマにあるようにサホコチタル、古事記に登場する根の国、底(ソコ=サホコ)の国、あるいはヤマカゲ、と呼ばれていたのかもしれません。
 もし、スサノヲノミコトが須賀の山にクシナダ姫と宮殿にお住まいになっていたのであれば、その時点から出雲と呼ばれていた可能性も無きにしも非ずです。

 天照大御神がここに行幸されて以降、八上と呼ばれるようになったのでしょう。そして大己貴命が八上姫を娶ったことで、因幡とほぼ地域的に同一であった八上は出雲、と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
 地名は、残っていくものですから、複数の呼称が重なって残っていった可能性が高いでしょう。
 また一方、おそらく豊受大御神が稲葉大明神として鳥取市立川付近にお越しになった直後、その地域は稲葉と呼ばれるようになったのだと思われます。そしてやがて八上が稲葉と呼ばれるようになり、八上は因幡の中心部に限定されていったのでしょう。それでも因幡の中で最も大きい面積を持つ郡としてその名は残りました。
 因幡、八上も出雲と呼ばれていたことがあるとするならば、納得のいくことが多く出てきます。一つはスサノヲノミコトの八岐大蛇退治伝承の舞台(須賀の山山麓)、天穂日命の拠点比定地(高草)、出雲土師氏の本貫地(八上の土師百井)など、現在の島根県の出雲では、それらの比定地として根拠に乏しい感があるのですが、因幡まで広げるとその舞台をカバーできるのです。
 これまで、歴史学、神話学では出雲、といえば島根県とせいぜい鳥取県西部までしか視野に入れていませんでしたが、因幡も出雲とみなすことで、さまざまな謎が解けてくるのではないでしょうか。岡山方面もそう呼ばれていた可能性もあります。
 ではなぜ、大出雲が現在認識されているような島根の東部に限定されていったのでしょうか。
 それはやはり国譲りと関係するものと思われます。国譲りの後、大己貴命は青森の津軽、岩木山へ国替えされます。そのときに、現在の出雲に地域が確定されたのでしょう。
 しかし、先に述べたように、いったん出雲と名づけられた稲葉方面も、出雲の呼称が残ったのでしょう。
 その後、8世紀初頭、記紀編纂の折に、その内容にそぐうように出雲地域を限定し、その限定された出雲に記紀の記述に合わせて、関連の施設、伝承地を作り上げていったのではないでしょうか。そのように捉えることで、出雲国風土記と記紀の内容の相違の発生もうなづけます。と、ここまで述べましたが、筆者も自信がありません。あくまで推測の領域です。
posted by yakamihakuto at 10:38| Comment(4) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月17日

フトマニと和歌 神様カード

 先日の講演シンポジウムに参加された方より、大変興味深い神様カードというものを頂戴いたしました。誠にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。
 これは正に日本版タロットカードといえるかもしれませんが、決定的な違いがあります。それはこの中には当然のことながら、魔に通じるものは一つもないということです。さすが日本発です。日本人の性格の良さ、道徳性の高さは、この魔的な要素が皆無、ないしは極めて少ないことに由来しています。日本の生活習慣になじむことは、自然にそのような潜在意識を誰もが持つことにつながると思われます。
 どれが選ばれようとも、必ず、良い意味を持っています。プラス発想、ポジティヴシンキングが人の運命を好転させる原理と同じです。しかも、日本の古来の神々ですから、私たちと非常に縁があります。日本の神々の御神徳は、日本人に共通する潜在意識の決定要因です。
 カード解説の中で、神様の祭られている代表的な神社の中に、鳥取では国坂神社(祭神少彦名命)、そして、前回紹介した八東町安井宿の伊蘇乃佐只神社が紹介されていました。

 実は、日本でも古くから占いに用いる道具がありました。それは豊受大神が作成されたフトマニ図と天照大神が選定された128首の和歌です。
 以前にも述べましたが、和歌が政(まつりごと)と深いつながりがあった、その源はここにあったのです。いったい誰の手によって隠されたのでしょうか。おそらく、邪な思想を持った皇統の外部の権力者によって、かき消されたのでしょう。ですから、これに関連するホツマ、ミカサフミ、カグミハタなどもともに皇室、皇室周辺から遠ざけられることになたのでしょう。
 日本人がお伊勢さんに自然に惹かれていくのは、中国びいきの為政者によって、どんなに神々のその業績を隠されても、深く日本人のDNAの中に記憶が刻み込まれているからでしょう。128と関連するのは24部128門より成る和名抄ですが、ひょっとすると、このフトマニ、和歌の伝承が何らかの形で残っていたための一致でしょうか。
 
 そして上の記事を書いた直後に、生まれて初めて選び出したカードは、なんと豊受大御神でした。やはり、という感じです。実に不思議ですね。私は、人に見えないものが見えたりするようなことは一切ないのですが、このような不思議な符合の一致や、シンクロニシティーは数多く経験しています。そのことは、このブログを定期的に読んでくださっている方もすでにお気づきのことと思います。
posted by yakamihakuto at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月12日

伊蘇乃佐只神社

 先日、講演シンポジウムの翌日に、雨の伊蘇乃佐只神社に参拝に行ってきました。八東町安井宿の水田地帯にある地元の人も普段はあまり参拝していない神社ですが、実は祭神が非常に珍しい神直琵神、大直琵神で、全国的にも極めてまれなので、一部にはたいへん有名なお社なのです。まさに宝は田からです。
 伊蘇乃佐只は埋没神、伊豆能売神を連想させます。「いやー、八上は本当にすごいところですねー。」と、水野晴郎さん風に、言葉が自然と出てきます。多くの宝に恵まれた八上、因幡、その価値を再発見し、その情報を発信していけば町はどんどんよくなると思います。
 
イソノサキ本殿
posted by yakamihakuto at 22:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 八東 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月06日

小泉友賢

 筆者はいまのところ、17世紀に記された小泉友賢の「因幡民談記」を直接目にしていません。
 石破洋教授の「イナバノシロウサギの総合研究」に小泉友賢の因幡民談記の記述、「又八上姫の社も当国に有るべけれども今何れの地に有りということを聞かず」が紹介されていますが、これはいったいどういうことなのでしょうか。
 筆者が調べてきたように、少なくとも因幡の国には八上姫を祀る神社は、賣沼神社、石坪神社、大江神社、酒賀神社、稲葉神社、御湯神社、潮津神社の7社があったわけですが、小泉友賢はなぜこのように書いたのでしょうか。今非常に疑問を持っています。
 小泉友賢は因幡中探し回って八上姫を祀る社は見当たらないといっているのです。これは非常に不可思議です。八上姫を祀る神社は複数あるにもかかわらずどうしてこのように記したのでしょう。
 前回のブログ記事で記した多加牟久神社も元の祭神は大己貴命と八上姫であった可能性があり、その意味では、表向きに八上姫を祀る神社としては当時、認識されなくなっていたと考えられます。
 しかし少なくとも酒賀神社や潮津神社、そしておそらく御湯神社も一貫して八上姫を主祭神として祀っていたはずなので、この小泉友賢の記述は非常に疑問です。
 この小泉友賢の記述を信じるならば、酒賀神社、御湯神社、潮津神社の祭神も中世においてまったく不明であったのでしょうか。
 もしそうだとするならば、祭神八上姫を隠さなくてはならなかった大きな理由が何かあったのでしょうか。
 もしくは単に小泉友賢の見落としなのでしょうか。
 ここを確認することが因幡の八上姫を祀る神社の謎を解く鍵であると思います。

posted by yakamihakuto at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月05日

多加牟久神社

 八上姫を祀っていたらしい社のようです。
鳥取県神社誌によれば、「社伝によれば延喜式に二座とせしは大穴牟遅命、八上比賣命にしてその後、事代主命を合祀せり 即ち今に多加牟久之神二座、岡大明神と称すという。然らば祭神中に八上姫を脱せるものなり」とあります。
 また、式内社調査報告によれば「賊退治のために派遣されてこの地へきた多加牟久命は洗足山の賊を見事退治したが、ここへ来て初めて知ったことに、かつてこの地は大国主命と八上姫とが契りを結んだ場所であった。たとへば、高尾の山の仮陣営の近くに「カケアガリ」という字名がある。これは八十神に追われた大国主と八上姫とが、逃げて駆け上がったときについた地名であった。...」大国主命の十六代めの子孫である多加牟久命は「そのことを知って九州に下ることをやめてこの場所に大国主神を祀って自身は土着したのである。その子孫もまたこの社に多加牟久命を併せ祀って、代々神主として奉仕したという。この神社に通じる道は三つある。一番表道が「カケアガリ」の道、もう一つは明治谷や小河内谷方面から高尾に入る道、三つ目は裏山から入る道であるが「カケアガリ」の道に面した。「宮ノ下」という場所に多加牟久命の子孫が住んでいたと伝えている。ちかくには、神を斎(いつ)くという意味で「イツガミ」という字名があり、また「穴久保」という字名の所は湿田で多加牟久命の子孫が水路をつけずに稲作をした場所と言い伝えている。」と記されています。
 郷土史研究家の新誠氏も指摘していましたが、社伝は非常に重要です。おそらくここに記されているようにこの多加牟久神社とその周辺は大己貴命と八上姫の縁アル地でしょう。今ではせいぜい「カケアガリ」の地名とその伝承しか残っていないようですが、本当は他にも伝承があったのではないでしょうか。
posted by yakamihakuto at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 河原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月04日

金星 木星 月

 珍しい天体現象が先日おこったようです。
 金星と木星が三日月の周りで輝き、見ようによっては月の周りを兎(rabbits)が飛び跳ねているようにも見えます。
11月25日で紹介した月のしずくと波兎の写真を思い起こしました。またこれもシンクロニシティーでしょうか。

Photo by Helen in South Africa.(an Eddie Jobson fan)

金星 木星 月
posted by yakamihakuto at 14:45| Comment(2) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。