2009年01月25日

神蹟 豊受大神社

 京都市福知山市大江町には、元伊勢内宮と、元伊勢外宮があります。元伊勢外宮は豊受大神社が正式名称です。
 筆者はこれまでこの豊受大神社についてほとんど記していませんでした。
 実際のところ、判然としないことが多かったためです。
 この正月に初詣で久しぶりに元伊勢内宮とともに参拝した折、河田宮司家の方にお話をお聞きし、その後、宮司家に伝わる古文書からの資料を頂戴して、やはり重要なお社であることを確信しました。
 これまで、筆者は十数年来、丹後にある複数の元伊勢を参拝し、その折に少しずつ調査を進めてまいりました。

 その結果、雄略22年に伊勢山田へ向かったそのときの元伊勢外宮(ホツマでいう朝日宮:アサヒミヤ=豊受大神の奥都城)は京丹後市峰山町久次の山頂から山腹にあったと思われます。遷座の後にも祭祀は続けられやがて里に神殿が移築されたものと思われます。現在の比沼麻奈為神社ですが、戦国時代以前は、境内はもう少し手前に位置していたようです。
 久次、および隣接の苗代、二箇(にか)、五箇(ごか)、鱒留(ますどめ)にかけて特に豊受大神の神蹟や伝承が集中しています。
 ところで、大江町の元伊勢内宮の北方、真井野(まいの)にも真名井があり、豊受大神の伝承が伝わっています。
 丹後の元伊勢でもっとも有名な籠神社の摂社、真名井神社は久次岳山頂、山腹のオオミアエ石、比沼麻奈為神社社殿、大宮賣神社の真東に位置しています。、防衛上の観点から、海岸近くのここが元宮(奥都城)であったとは考えにくく、おそらくその位置関係より、元宮への遥拝の重要祭祀拠点であったと思われます。豊受大神が丹後を拠点に日本海沿岸各地に足を延ばされた形跡もあります。その一つがすでに紹介したように因幡における因幡大明神の稲作伝授であると思われます。
 それに加えて、北陸方面にも、神明社として天照大神が祀られているのではなく、豊受大神が祭られている社が多いそうです。 おそらく、そのあたりまで豊受大神がお越しになり、民の生活を助けられたことが神社の起源だと思います。
 摂津の国の宝塚、または三田市にも豊受大神がお越しになったことが、摂津国風土記に記されています。 (話はそれますが、摂津という地名は瀬織津姫の御神縁でついた名前ではないかと思っています。もちろん、摂津はずっと後の世につけられた名前なのですが、八頭のように、何らかの見えざる計らいが働いたものではないかと思います。摂津には瀬織津姫が晩年過ごされた広田神社があり、奥都城もその近くにあるかもしれないからです。あるいは天照大神の奥都城の近くかもしれません。)

 豊受大神はかなり広範でにご活躍されていましたが、特に丹後を拠点にされていたので、その関連の神社が多いのでしょう。ですから、元伊勢の本命はもちろんあるのですが、数ある元伊勢の多くが豊受大神の御現身のときの神蹟ととらえたほうがよいでしょう。現代人の文献中心の研究のみで、信仰とは無関係にあれこれ論議したところで、無意味です。
 
 そして、豊受(とゆけ)大神社です。とゆけ、と呼ばれていることはホツマの表記に近い事にも注目すべきでしょう。ここは、筆者は、久次岳から伊勢へ御遷座の際にお泊りになったところではないかと思っていました。確かにその可能性もあります。兵庫県市島町や、亀岡市に、その御遷座の跡とされるところが残っています。しかし、規模があまりに違いすぎるのです。ここは元伊勢内宮とまではいかなくとも、境内には相当格式のある社殿があります。河田氏のお話によると、周りを囲む39の摂社はそれほど古い歴史を持っているものではないそうです。しかし、中心の本殿や脇殿は昔からのものと思われます。
 河田宮司家の文書を拝見してここの重要性を確信しました。
 元からの祭神はなんと比沼麻奈為神社本殿祭神とまったく同じです。
 
 祭神 豊受大神 相殿 ニニギノミコト、天児屋根命、天太玉命

 平安時代から現在に至るまで、河田家が一貫して宮司を務めてきたこの豊受大神社は、ほぼ60年ごとの遷座の伝統を守っておられます。 
 ここの真西に位置する出雲大社においても60年ごとの遷宮の伝統を守っています。その期間がぴたりと符合しています。
 では、このお社の起源をいつごろと見るのが良いかということですが、筆者は雄略22年よりはるかに古い時代、トヨスキイリヒメが大和から第一番に天照大神の御霊代を丹後に遷座された時、と思います。 
 もちろん、その遷座地は元伊勢内宮です。トヨスキイリヒメがここにおいでになったときに、豊受大神が天降られたことが記録に残っています。ずばりこの場所が豊受大神社だったと思われます。
 元伊勢外宮はその後、ずっと祭祀が続けられたかどうかは定かではありません。
 というのも、元伊勢外宮の山、舟岡山(ふなおかやま:ここも船岡です。久次にも船岡(ふなおか)があり、そこは丹波道主命の府の岡でした。ふと八上の船岡の語源は何なのでしょうと思いました。)は前方後円墳ではないかという説もあるくらいです。
 その真偽のほどはさておき、少なくとも記録に残っている限りでは昌泰3年(西暦900年)には存していたことがわかります。
 おそらく、トヨスキイリヒメがここに4年間いらっしゃった間に豊受大神の御神霊が出現され、大きな瑞祥として、その地に格式のある社殿が創建されたのでしょう。
 


 

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世界の中の鳥取の神話

  なんと、たまたま鳥取大学のホームページを久々に見てみると、出ているではありませんか。
因幡の白兎に関する講演会が今週の土曜日に鳥取市で催されます。ちょっと直前すぎて、筆者は参加することはできませんが、ぜひ、地元の皆様、ご参加ください。
  世界に誇れる因幡の白兎神話です。鳥取を国際観光都市にすることも夢ではありません。全世界にウサギファンはいます。ウサギの神話や神社があるなどということが世界に知れ渡ったら、世界中のウサギマニアがこぞってやってくるに違いありません。
 さまざまな視点で因幡の白兎神話を取り上げていくべきで、鳥取大学地域学部の一連の研究や試みには筆者も大いに期待しています。

 「フランスから見た白兎神話は?−世界の中の鳥取の神話−」
  
下記の日程で、神話の講演とシンポジウムを開催します。
たくさんの方のご参加をお待ちしております。

日時 2009年1月31日(土)
    13:30〜16:30
会場 とりぎん文化会館 1階会議室
講演 「医療神としてのオオクニヌシ」
    フィリップ・ヴァルテール氏(グルノーブルV大学創造性研究所長)

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2009年01月22日

和魂洋才 和魂漢才

  
 和魂漢才は菅原道真公の有名な言葉です。和魂洋才は明治期、欧米列強に伍するためのスローガンとして使われたようです。
 歴史学者の上田正昭氏は、よく、著書で和魂洋才のことを述べておられますが、現代の日本人は、もはや、和の心を忘れ去って洋魂洋才になってしまっている、と指摘されています。確かにそのとおりです。
 教育においても、神道のことが語られることがなく、テレビ番組でも、これまで神社について取り上げられることはほとんどありませんでした。しかし、年末年始ごろには筆者は見逃しましたが、「世界不思議発見」で特集がなされたり、養老孟司さんやビートたけしさんが、伊勢神宮を参宮したときのドキュメント番組などがありました。
 エジプトのピラミッドについてもよく取り上げられますが、先ずはお膝元の日本でほとんど研究が手付かずの状態で、今も信仰の対象となっている10万もの神社の存在の謎のほうが奥深いものがあります。
 
 食生活にしても、欧米化してしまい、そのことから現代病=生活習慣病が蔓延しているとも言われます。アンチエイジングのためにも、自然環境破壊を止めるにも野菜中心の食生活が有効なのですが。
 日本人はほんの数十年前までは日常の食卓で、獣肉を頻繁に食べることなどなかったのですが、今ではごく当たり前となっています。これに関しても、ホツマでは明確に天照大神が肉食の弊害を説かれているのですが、記紀によって見事にかき消された、と見てよいでしょう。
 
 ところで、09年センター試験英語の問題の中にアインシュタインが晩年に1年間ベジタリアンになったことが問題文にありました。別の問題のところでも、有名なYou are what you eatというセンテンスが紹介され、その意味を並べ替えで問うものもありました。もっともこの言葉はさまざまに受け取る側によって解釈されています。
 筆者はこれを読んで、問題作成者の中には、食のことに敏感になっている人がいるのだと確信しました。
 センター試験ですから、受験者の中で特に感性の鋭い人には、大きな好ましい影響を及ぼすことでしょう。
 
 英語の教材などを見る機会があるのですが、その問題文や例文の中に、好ましくない内容が少なからず含まれていることに気がつきます。
 たとえば単語を覚える例文として「It is easy to deceive people.人を騙すのは簡単だ。」などというものが平然と掲載されているのを見て驚きました。そのテキストには他にもいくらか問題と思える表現が使われています。作成者の思想性が表れたものでしょうが、数十万から数百万の多くの生徒がこれを読み、暗誦し、潜在意識に刻み込まれていくことを考えると、これはよからぬことであるとは思いませんか。数十年前ならば、このような文は見過ごされることはなかったでしょう。
 IQのみを必死に鍛えて、EQに欠ける人たちが主流をなす社会は必ず衰退していくでしょう。日本人の情緒性の高さを取り戻さなくてはなりません。和魂洋才、いや、今となっては和魂和才で国を立て直すことが大切です。
 
 昨日200万人もの群集の前で就任したオバマ氏には期待したいところです。彼なら大変革をやってくれそうです。大きな邪魔が入りませんように。

posted by yakamihakuto at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

外宮と内宮

 伊勢神宮は外宮と内宮および、関連する計125社からなっています。
 記紀に外宮の祭神についてほとんど記載がないこと、内宮の成立についても記述がないことから、内宮と外宮の祭神の関係についてはさまざまな論が展開されています。
 中には、少々行きすぎと思える主張もネット上で見かけます。
神々のことを論じるときに、神格を否定するのは言語道断ですが、あまりに冷徹でシニカルな論評をするのはどうかと思います。少し前までの日本人は、何かはわからなくとも、畏敬の念を持って古来より神仏や自然を崇拝してきたものです。「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」(西行です。)
 唯物主義的な学問的方法論が大学を中心に支配する中で、学究的に追究するあまり、信仰とはなれてしまっているのは残念な思いがします。(そのような傾向が長く続いている今日、東京大学において60年ぶりに神道を研究する会が発足したのは非常に意義のあることです。また、顧問である菅野覚明教授も、その著作『神道の逆襲』において、伊勢神道を、倫理的な観点から積極的に評価しながら、従来の神道五部書を全否定するかのようなステレオタイプ化された説にとらわれないで、独自に慎重に論じています。)
 また、神仏を論じるにあたって、神秘的な事象はほとんど無視されています。古い時代のものであればそれは受け入れられたりもしますが。
 外宮と内宮の関連は、記紀において意図的にわからなくされているものであることが、ホツマによって明確になります。(ホツマが真書であるとするなら本当に、今までの恣意的な解釈がほとんど吹き飛び、整合性を持った真相が顕在化します。)
 特に日本書紀がその意図を顕わにしています。雄略22年7月に丹後(当時は丹波)比沼の真奈井の比沼山頂(現久次岳)から、伊勢の宇治山田へと外宮祭神は遷座されるのですが、このことには一切触れられていません。そして同雄略22年7月、丹後伊根筒川から浦島太郎が竜宮城へ向かったことを大々的に日本書紀は取り上げているのです。同じ年の同じ月、ですから、これは明白です。
浦島太郎は300年後の淳和天皇の御世に竜宮から戻ってくるというものですが、史実としてありえそうにないこと、しかも、国家的レベルから考えても外宮の伊勢への遷座という一大事とは比較にならないことです。Wikipediaにその背景、執筆者と思われる人物についても記されています。
「『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた作品を本にしたものでありこの人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『壊風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。『雄略記』や『丹後国風土記』、『万葉集』「巻九」などに見られる8世紀の浦島物語の原話は伊預部馬養によって描かれた神仙伝奇小説であった可能性が大きい。」と説明されています。


 同時に、豊受大神の数々のご活躍の舞台であった比沼の里、真奈井では、風土記において、豊受大神があたかも羽衣天女の一人であるかのような「伝承創作」をした形跡が濃厚です。
(このような創作が、古事記のイナバノシロウサギ神話においてもなされていることは、石破洋教授が『イナバノシロウサギの総合研究』で解明されているとおりです。 
筆者は、古事記のイナバノシロウサギは、天照大神を導いた白兎が、その後、瑞祥の象徴となったことを押し隠そうとした意図があるものと見ています。
 全国各地の古い歴史を持ついくつかの神社で、兎が吉兆の象徴として大切にされていることの起源は、記紀では一切不明で、古事記では、逆にうそをついた、というレッテルを貼られてしまっているのです。)
 
 ホツマによって、天照大神と豊受大神の本当の関係や、丹後真奈井が、重要な政治拠点となっていたことを知る者にとって、おとぎ話それ自身は幻想的で興味深いことは否定しませんが、このような中国風の作り話で事実をファブリケイトされていることに、唖然としてしまいます。
 そのような意図が見え隠れしているにもかかわらず、主に記紀や風土記の叙述に頼って、他の面での検証抜きにして、天照大神と豊受大神の神格を誤って認識しているものが、アカデミズムの中で少なからず存するのは、由々しき問題ではないかと、筆者は感じています。
 他の面とは、例えば、京都の伊勢、日向大神宮の外宮祭神が天御中主神とニニギノミコトであること、天橋立、籠神社にも豊受大神が天御中主神、国常立命とご同体であるという所伝が独自にあること、大本教でも同様の解釈がなされていること、そしてホツマにも豊受大神は国常立命の転生された神であることが記されており、それぞれが相互に関連することなく、しかも伊勢神道とは無関係に存在していることです。
 加えて、藤原不比等、持統天皇のときに、内宮と外宮の社家に大きな変更が加えられ、その直後より天皇ですら伊勢神宮へ参宮できなくされるという緊張関係が生じていたことを、知ってか知らずか等閑視し、もともと内宮と外宮の両宮の社家であった渡会氏が、鎌倉時代になってやっと表に出すことのできた伊勢神道を、軽んじている主張が多いのには、ただただ驚くばかりです。
(天皇の参宮禁止は明治維新まで約1200年間続きました。外宮に関しては菅原道真公の生誕の際、祈祷がなされたくらいですから、平安初期から一般庶民の参宮は認められていたと思われます。
その後、鎌倉期からは内宮も、武家そして一般庶民の参宮を受け入れています。然し、皇室関係者に限っては斎王を除いて一切参宮された方がいないのです。
その一方で、戦国時代、後陽成天皇は丹後の元伊勢、比沼麻奈為神社へお越しになり、額を奉納されています。ですから皇室も本当は伊勢神宮祭神の直接祭祀を切望されていたと思われます。
さきの日向大神宮へは歴代の数名の天皇も参拝しておられるようです。宮中八神には伊勢の祭神は含まれていません。宮中においても天照大神を祭祀することはままならなかったようです。「私幣禁断」の真相は「皇室の参宮禁止」ととらえた方が妥当でしょう。)
 神道五部書に偽書の烙印を押した吉見幸和の主張がいかなるものであったか、非常に気になるところです。
社家の強引な変更も突然実行され、神宮にあった古文書も焚書された可能性もあるのではないかと思われます。また、一般民衆と皇室をも伊勢神宮から切り離してしまった「私幣禁断」の狙いは祭祀の担い手を伊勢神宮内宮神官のみに限定し、神宮を孤立させ、経済的にも困窮させて、ゆくゆくは廃絶しようとしたのではないかと思われます。
神宮の御杣(ミソマ)山も伊勢から遥か遠くの木曾へと、用材確保にも苦労しました。
 この御杣山で、遷宮のたびごとに1万本以上ものヒノキが切り出されるます。用材の中には、量は少ないのですが、樹齢600年を超える大きさのものも必要とされます。元は神宮の宮域から確保できていたそうですが、鎌倉期には、もはやすべて切り出してしまってなくなったという事実には注目すべきでしょう。

丹後の元伊勢は庶民に対してなんら奉幣の制限などありません。豊受大神が稲作をはじめられた月の輪田や籾種を浸された清水戸も昔から今に至るまで、庶民の生活の場に位置しており、「私幣禁断」などというしきたりとはまったく無縁です。
ホツマによれば、豊受大神が真奈井で天照大神に伝えた最後の教えでも、君主は民の親であり、庶民への愛を大切にすることを強調されました。この思想と「私幣禁断」には筆者は距離・違和感を感じます。
 おそらく他の古い伝統を持つ神社でも60年ごとの遷座は行われていました(おかげ参りも60年周期で爆発的にヒットしたそうです。出雲大社も昨年60年ぶりに修復がなされたようですし、京都府大江町の元伊勢豊受大神社においても平安時代より、ほぼ60年ごとの遷宮を行ってきていることが社家の河田家に伝わる古文書に記されています。おそらくここはトヨスキイリヒメが三輪より遷座したときに創建されたものではないかと筆者は思っています。)が、外部のサポートを一切絶たれた状況で神宮を20年ごとに遷座し続けることは神宮にとって大きな負担となったはずです。
 御師の登場、活躍がなければ、間違いなく神宮は消滅、ないしは大幅に規模を縮小せざるを得なかったと思われます。然し、パラドクシカルにいうならば、持統天皇の御世に定まったとされる20年毎の遷宮は、庶民の伊勢神宮への関心を喚起する機会を頻繁に与えることができるものとなっています。

 ホツマによれば、豊受大神はイザナミノミコトの父、即ち天照大神の祖父に当たる神で、天照大神のご誕生のために、宇宙の天御祖神に8000回に及ぶ祈祷をされ、ご誕生後は天照大神を東北の日高見で養育されたのです。
豊受大神は丹後真奈井で崩御される間際にも、天照大神を伊勢の伊雑宮からお呼びになって、最後の教えを説かれました。後に天照大御神もここ丹後の豊受大神の元でご永眠されることを望まれて、奥都城を丹後になされたのです。
それくらい縁の深いところであったがゆえに、崇神天皇の御世にトヨスキイリヒメが天照大御神の御霊代の遷座の地として、先ず第一番に丹後を選ばれたのです。その場所とは天照大御神の長期的な行在所、または奥都城であろうと思われます。それら関連の地が元伊勢として信仰の場とされてきたのです。
 最終的には、天照大御神の晩年のご住居である伊勢五十鈴川上流、現在の内宮の地に遷座されることになります。
 天照大神の崩御の後に瀬織津姫は、大神のご遺言どおりに五十鈴川の宮殿を後にして、ワカ姫とともに西宮の広田の地にお移りになったのです。
広田神社は瀬織津姫の別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)という名前で祀られている非常に珍しいお社です。
 ホツマの記述がいかに神社祭神や伝承と一致しているかが皆さんも次第に納得していただいていると思います。繰り返しますが、記紀では、これらの記述の数%にも満たないことしか記されていません。丹後の元伊勢伝承地は勿論、伊勢の内宮、外宮、伊雑宮の関連なども、さっぱり見当がつきません。

 
 伊勢神道においても不明な、豊受大神と天照大御神のご関係と、その関連の社とその位置関係、元伊勢遷座の意味などが、ほぼ全て理路整然と説明できるのは唯一、ホツマしかないのです。
 こうして比較検討してみると、記紀の執筆者の狙いは、日本の祖先神のご業績を踏みにじり、分からなくすることにあったといえるでしょう。
 

 また、豊受大神の最後の教えのご伝授の後、丹波の民に慰留を懇願されて、しばらく行宮された縁で、天照大神が、後に因幡・八上へ行宮されることになったのだと思われます。
 
 豊受大神は天照大神にとって、特別の神だったのです。これに関して、ネット上で、大変興味深いたとえをしているのを発見しました。非常にわかりやすいたとえです。
   
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2009年01月04日

鯰絵の天照大御神

 今朝ニューギニアで大きな地震が起こったそうです。大きな被害が出ないことを祈ります。
 
 ところで、江戸時代には地震からのお守りとして、鯰絵(なまずえ)というものが流行したそうですが、その中には天照大御神が男神として描かれているものもあるようです。
 実に ユニークな構図で、地震を引き起こした鯰が鹿島神宮に連れ出されて、天照大御神の前で、詫びの証文を書いている様子が描かれています。
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2009年01月03日

姫路神社 鳥取市気高町

 元日の日本海新聞第4部には鳥取市気高町にある姫路神社と丑の関連についての記事がありました。
 それによると、ここには、牛の舌祭りという行事が続けられているそうです。祭りの起源は16世紀ということですが、「祭神スサノヲノミコトが出雲の国でヤマタノオロチを退治した後、疲れて帰ったことで慰労のための「御忌みさん」に入ると伝えられている。その帰ってきた日が丑の日の丑の刻、起きたのが申(さる)の日の丑の刻。申の日の午前中に牛の舌をかたどった餅を奉納する」そうです。
 このように、神社の伝承を検証していくと、それぞれの神様の御現身(おうつしみ)のときの足跡が浮かび上がってきます。
 ヤマタノオロチ伝承は出雲の斐川上流とされていますが、日野郡や八頭郡も比定地としうるところです。スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治した後、「帰ってきた」と表現されるということは、ここも、あの国境付近に当たる気多の崎の近くであり、スサノヲノミコトが拠点としていたところは因幡であった可能性が出てくるのかもしれません。
 その意味では、因幡の白兎神話と同様、ヤマタノオロチ退治の神話も出雲から因幡へと広範囲にわたるストーリーとしてとらえていった方がよいと思われます。
 それにしても、なぜ姫路という名が冠せられているのでしょうか。
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「参宮・遷宮・伊勢神宮」展

 なんと、元日から3月1日の2ヶ月にわたって、因幡の地、鳥取市歴史博物館(やまびこ館)において、「参宮・遷宮・伊勢神宮」展が催されています。
主催は、霞会館と鳥取市歴史博物館です。主に神宮文庫、神宮司庁、神宮徴古館からの特別展示物と県内の博物館所蔵の展示物で構成され、その展示物一覧の写真と詳細は『参宮・遷宮・伊勢神宮』と題された1冊の書籍として、展示会場で販売もされています。
 その中には、霞会館学芸員の論文のほか、地元の博物館学芸員の詳細な研究成果も記されています。
 特に、伊勢神宮と庶民を結びつけた御師(おし・おんし)に関する詳細な研究や、因幡・八上の伊勢道に関する写真や論文も紹介されており、大変貴重です。 展示物の中に智頭町の檀家に残されていた藁苞(わらづと)が紹介されていました。これは、毎年、新しいお札をもらったあと、古いお札をトンド焼きで焼くのではなく、ずっとその藁筒に保管し、それを天井裏に置いておくと雷除けになるということで、大切にされてきたものだそうです。
 その中に記録されたことを詳細に研究していくと、さらに伊勢信仰や御師の活躍ぶりが明らかになるものと思われます。
 ぜひ、皆様もこの特別展示をご覧になってください。
 
posted by yakamihakuto at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 鳥取市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

山陰文化観光圏

 新年明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 帰省中に地元の日本海新聞を読みました。筆者にとってはすべての新聞の中で、最も読みごたえのある新聞です。
 元旦の朝刊第2部には「山陰観光文化圏」が特集されていました。新聞によれば、2泊3日以上の滞在型の観光観光地作りを国が進めており、その候補地16地域の中に中海・宍道湖・大山を中心とした山陰文化観光圏が選ばれたそうです。今年から本格的に取り組みがスタートされるそうです。
 その中に荒神谷博物館長藤岡大拙氏のインタビュー記事が掲載されていました。
 藤岡氏は鳥取島根両県をまたぐこの文化観光圏のキーワードの一つは「神話」で、その中でも因幡の白兎について、斐川町には八上姫と大国主命の間にできた御子神、御井の神を祀った御井神社や大国主命が八十神に襲われた伝承の残る赤猪岩(あかいいわ)神社があることから、因幡の白兎神話を出雲にまで広げることで、「因幡の白兎は壮大なコースができあがる」と指摘されています。
 神話でつながる山陰、筆者も同感です。
 山陰の魅力は豊富な神話とその舞台を大いに活かすことで、さらに引き立ってきます。
posted by yakamihakuto at 17:43| Comment(2) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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