2006年05月28日

青龍寺と白兎

  平成19年1月7日一部改定
 門尾の青龍寺に伝わる城光寺縁起は、霊石山南麓の最勝寺縁起・慈住寺縁起(記録)と記述が一致しているところがあります。もっとも青龍寺・最勝寺・慈住寺は相互に関連する寺院です。
 しかし相違する所もあります。最勝寺縁起のみは天照大神=大日霊尊を案内したのは猿田彦命とされています。猿田彦命は道案内をする神としても有名です。ですから因幡の地においても、とも考えられますが、因幡なら地元の神が案内をしたことでしょう。
 慈住寺縁起・城光寺縁起では、案内したのは「白兎」と記されているようです。これは地元に古くから伝わる話を基にしているからこそ、そう記しているのではないかと、石破洋教授も『イナバノシロウサギの総合研究』で指摘しておられますが、筆者も全く同意見です。
 それに加えて、筆者の直観ですが、最勝寺縁起にあるもう一つのイワクラ「皇居石」も城光寺縁起にあるように「皇后石」とも呼ばれた可能性があるようにも思えます。伊勢が平にはイワクラが2つあり、一方を皇后岩と呼んでいたのかもしれません。瀬織津媛と私都の存在を考え合わせるとその可能性もぬぐえません。
 そもそも、本来神社に伝わるべき日本の神の伝承が神社に一切残されていないところに歴史の荒波にもまれてきた形跡が示されています。地元の筆者の恩師の話によると、旧郡家町のありとあらゆる所には寺院があったことを示す地名が残っているそうです。
 青龍寺は現在、福本の白兎神社の本殿を預かっています。本来ならば廃社となった神社の社殿は取り壊されたのでしょうが、当時の青龍寺住職のご英断により保存されることになったのは本当にありがたいことです。しかも、ちゃんと本堂の中に安置されて、風雨にさらされず大切に保管されてきたのです。
 門尾が白兎神社の氏子集落であることも背景にあるのでしょう。白兎神社の燈篭も門尾集落に2箇所設置されています。公民館の庭先にある燈篭は比較的新しく、門尾の上にある燈篭はかなり古い時代のものです。
 土師百井、池田、福本にそれぞれ白兎神社があるのですが、門尾にはなかったのでしょうか。ある時代までは大兎明神を祀る神社があったのではないでしょうか。神社合祀前は村の社としては応神天皇を祀っていましたが、応神天皇が霊石山に行宮されたことが由来でしょう。現在は宮谷の賀茂神社に合祀されています。八上のほんの小さな社や遺跡、地名にも重要な史実や意味が込められているように感じられ、決して見過ごせないところだということが最近になってよくわかってきました。 
 また、縁起の記述によれば天照大神が白兎神に出会う前、霊石山における最初の行宮の地は三本松のある上門尾あたりと推測されます。「かみかどお」は八音の祝詞「トホ(オ)カミヱミ(ヒ)タメ」を連想させる感がしないでもありません。この祝詞は、平安時代より明治維新期まで八百年以上にわたり皇室の祭祀を司っていた白川家の伯家神道に伝わるものです。
実際は国府、つまり官へ通ずる街道「官の道」からカドオ門尾になったという説らしいです。門尾は全国に一つしかない珍しい地名のようです。
 青龍寺は古事記の成立するほんの2年前710年和銅3年、元明天皇の勅願の寺として、行基によって開基されました。青龍寺は地元のみならず隠岐などの漁業に従事している方々も信者さんで、厚く信仰されています。青龍寺は内陸で、海からはかなり遠いのですが、本尊の不動明王が波切地蔵としての功徳を持っていることからだそうです。
 
 波兎は江戸時代に全国で流行したそうです。(筆者も和歌山の玉津島神社で見たことがあります。白波があたかも兎が走っているように見えることが由来である、ということも聞いたことがあります。)
 旧船岡町の西橋寺には左甚五郎作と伝えられる波兎の彫刻が残り、また時代は新しいのですが、旧八東町日田のとある民家にも、漆喰で作られた波兎があったりします。同じく八東町安井宿の民家にもあるそうです。因幡・八上の地全体で「白兎」を大切にしてきたようです。
posted by yakamihakuto at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上の遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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