2008年04月13日

天照大神の山陰行幸

 天照大神の山陰行幸については、古事記・日本書紀には、もちろん一切記されていません。山陰地方には隠岐と八上に、それぞれ天照大神行幸伝承が残っていることはすでに紹介したとおりです。
 ところで、『ホツマツタヱ』にはこの天照大神の山陰地方行幸に関わることが記されています。
 鳥居礼氏の『完訳秀真伝』には五七調の本文が、漢字かな交じり文で記載され、さらに本文の詳細な現代語訳と補注が記されています。ホツマのもともとの原文はヲシテ文字という独自の神代文字で記されています。 
 豊受大神の丹後真名井でのご危篤と崩御、天照大神への最後の奥義の伝授の様子、その崩御の地に朝日宮が建立されたこと(京丹後市峰山町久次の比沼麻奈為神社がもっとも有力比定地と思われます)、その後、天照大神がしばらく宮津、真名井におとどまりになったのち、千足(チタル)国、即ち山陰地方を御巡守されたことが記されているのです。
 「宮津より 早雉(ハヤキジ)飛べば 天日神(アマヒカミ:天照大神) 急ぎ真名井に 行幸(みゆき)なる 時に玉杵命(タマキネ:豊受大神の忌名)相い語り 「昔道奥(みちのく) 尽くさねば ここに待つ」とて 授けまし 「諸神たちも しかと聞け 君は 幾世の 御親なり これ国常立(とこたち)の勅(ことのり)」と 洞お閉ざして 隠れます その上に建つ 朝日宮 君懇(ねんご)ろに 祭りして のち帰まさん 御てぐるま 留(とど)むる民お 憐れみて 自ら 政り 聞こし召す 趣き告げる 雉子(きぎす)にて 向津姫(ムカツヒメ:瀬織津姫)より 勅(ことのり)し 日高見(たかみ)に祭る 豊受(トヨケ)神 持子(モチコ)の典侍(すけ)と早子内侍(ハヤコウチ)味子姫(アジコ)と三人(みたり) 早行きて 真名井の原の宮仕ゑ 勅あれば 門出して 宮津の宮にあるときに君の御狩に千足(チタル)国 道お定めて 治むのち 八十杵尊(ヤソキネ)の弟(オト)...。
以上、秀真伝御機の六(ホツマツタヱミハタノム) 日の神十二后の紋(ヒノカミソフキサキノアヤ)の一部を紹介しました。
 ホツマの本文はネット上 でも参照できます。
 現代語訳と英語訳版・仏語訳版もあります。
 神代文字については、アカデミズムでは、忌部氏の『古語拾遺』でわざわざ、その存在が否定されていることを踏襲し、1953年、山田孝雄氏の「所謂神代文字の論」で神代文字の存在が完全に否定されたことを追認しているだけのことのようです。 
 日本の歴史学では、ほんの一個人が定説化した学説がその後も長らく正当な説として、後代の学者に無批判に受け継がれているようなことが少なからずあるように思えます。1953年から半世紀以上が経つ現在、再度この点についても見直しがなされるべきでしょう。
 実は、忌部氏の子孫、忌部正道は『神代巻口訣』で神代文字の存在を肯定しています。大江匡房は『箱崎宮記』で神代文字の存在は否定しているものの、ひらがなは応神朝のころから使われていたことを記しているそうです。『弘仁私記』(813年)、『承平私記』(936年)にも漢字が流入する以前に固有の文字の存在が肯定されており、『扶桑略記』(1094年頃)にはカナの「日本書紀」があった事が示されています。この「弘仁私記」「承平私記」「釈日本紀」は、いずれも「日本書紀」の解説書です。このことから筆者は、(内容をすべて見ていないので決め付けるのはよくありませんが、)これらの書物は、不比等によって消され捏造されてきた真実を、ひそかに書き留めたものではないかと思います。
 ホツマ文字=ヲシテ文字をはじめ、全国各地の古い神社には、様々な種類の神代文字が伝わっている所もあります。
『ホツマ』が仮に江戸時代の偽書であるにせよ、江戸時代に記された一大叙事詩として、アカデミズムで研究してもおかしくないくらいのものだと思うのですが。今のところ、そういった視点からも一切とりあげられません。
 例えば、滝沢馬琴の幻の小説などが出てきたとしたら、おそらくこれは研究の対象になることでしょう。百歩譲って、作者不明であっても、江戸時代の古文書で日本神話をモチーフにしている、というだけで、その物語の価値は大いにあると思うのですが。大学の国文学科で研究対象として取り上げられてもおかしくないのですが...。そういう面からも、アカデミズムによって一切かたくなに無視されることの背景にはもっと重大な意味があるように思えてきます。
 本居宣長は神代文字を否定しましたが、古事記を中心に研究をして、懸命に倭心を追い求めていました。漢心(からごころ)の混在していないやまとことばで記された『ホツマ』はまさしく宣長の求めていた至宝といえるのではないでしょうか。
 記紀では神話のストーリーがぶつ切りにされていることに、記紀の神話とホツマを合わせ読んだ人なら例外なく誰でも気づきます。神話の舞台も全国的ではありません。ホツマは、ストーリーが一貫してつながっており、ほぼ日本全国が舞台となっています。また、伊勢神宮の祭神、天照大神と豊受大神の関係も、ホツマではじめて判明します。和歌についての記述も多く、和歌ということば自身が、実は大和言葉であることや、枕詞の意味も記されています。天照大神の御代に全国的に起こった動乱、それと関連して、何故狐が伏見稲荷の使いとなったのか、中臣祝詞に登場する白人、胡久美の意味もホツマでない限り、解明できません。
 花形隆一郎氏はその著作『実在した人間 天照大神』で、西洋の政治思想の発展史を踏まえて、思想史的な観点からも、ホツマが後世に捏造された偽書では無い、と結論付けています。
 ところで話を八上の天照大神行幸の伝承に戻します。 もし、このホツマに記されていることが地元の伝承と重なるのであれば、このような流れの話になるかも知れません。(以下は筆者の想像です。)
 天照大神は、豊受大神の崩御の後も、しばらく丹後に留まられました。ミヤツとは、現在の京都府宮津市ですが、その南方の山間に大江町の元伊勢内宮があります。行宮の地はそこだったのかもしれませんし、あるいは天橋立をはさんで、南には元伊勢跡地ともいわれる文殊堂、北には、籠神社の末社、真名井神社があり、そこであったのかもしれません。この真名井神社は、実は、内陸の久次岳山頂、久次岳山中の大饗石(おおみあえいし)、比沼麻奈為神社および、大宮賣神社を結ぶ東西ライン上に位置しています。または、真奈井が原の地、大宮賣神社か、その付近だったのかもしれません。天照大神は、丹後のいずれかの場所にしばらく行宮されました。これが、丹後に外宮と内宮の元伊勢がそろってあることの根拠です。
 その後、山陰地方への行幸を計画されました。因幡の国、岩美の御湯神社は、天照大神御一行が山陰へ行幸されたときの行在所になったものと思われます。ここは伊勢宮とも呼ばれています。(ちなみに天照大神が因幡へ行幸される以前、豊受大神はその名をお伏せになって、稲葉山の麓で稲作の技術をお伝えになりました。このときの神蹟が古苗代であると推測します。稲作を教えられた豊受大神を稲葉大明神として、鳥取市卯垣の稲葉神社で祭っています。)
 そして、陸路または海路で隠岐へ渡られます。そこで、天までとどくような大木をごらんになって大きな樹、オキという地名由来の御言葉を発せられたのでしょう。
 しかる後、陸路または海路で、因幡へ到着され、内陸の八上へと歩を進められました。郡境である三本松付近で、八上の土地の神、八上姫の化身である白兎と出会い、白兎の導きによって、そこから遥か南西方向へ中山の麓道をたどりながら、霊石山山頂近くの平原(伊勢が平)にたどり着かれました。そこで白兎は身を隠してしまいます。天照大神御一行は、しばらくそこで行宮を営まれました。瀬織津姫も豊受大神崩御の後、高天原で政務を担当され、ひと段落したところで、丹後の天照大神ご一行にに合流され、行動をともにされていたのだと推測します。八上の行宮の折には、主に私都の民が瀬織津姫のお世話をされたのでしょう。あるいは私都のいずれかの場所にしばらくいらっしゃったのかも知れません。神社祭神の分布状況から、このような想像が自然にわきあがってきます。
 最勝寺の元の境内地には白濁した清水の湧き出る井戸がありますが、天照大神の行宮の折に掘り出されたものかもしれません。霊石山の御冠岩に天照大神は山陰地方の平安を願って冠を安置し、国見をされました。
 同行の猿田彦命は霊石山の南方の三角山に布陣して、防衛の任にあたったのでしょう。
 八上のあちらこちらに出向かれ、いよいよお帰りになるときには八上の南東に位置する国境、現在の氷ノ越えの峠をお通りになる際、大雪の降り積もったあと、旭日に輝く樹氷をご覧になってその美しさに感動されて、和歌を詠まれました。
 
 あしひきのやまへはゆかじ
    しらかしのすえもたははに
           ゆきのふれしば 
 
 須賀の山に暮らす須佐之男命、稲田姫夫妻と再会されたあと、八上、因幡の国を離れられたのでしょう。そして、丹後の元伊勢にお戻りになった後に、中央の高天原に御帰還されたのではないでしょうか。
  再度お断りしておきますが、以上はホツマに記されていることと地元の伝承を筆者が想像を交えて結び合わせたものです。 記紀ではこのようなストーリーは決してできませんが、丹後・山陰の神蹟・伝承とホツマには整合性があるようで、自然につなぐことができました。このことは注目すべきです。
 そして、もう一つ、指摘しておくべきことがあります。ホツマの記述によれば、豊受大神はイザナミノミコトの父親であり、天照大神の祖父に当たります。そして、幼少期の天照大神への教育を東北の日高見でほどこしました。天照大神はウヒルキと呼ばれていたそうです。漢字を当てると大日霊貴となります。秋田県にはその名もずばり、大日霊貴神社があります。豊受大神は天照大神の御餞津神と称され、伊勢外宮豊受大神は一般的に内宮より格が下であるととらえられていますが、ホツマによれば、天照大神の指導者的立場にあった偉大な神なのです。
 すると、ここで思い出されるのは伊勢神道です。伊勢神道では、豊受大神は天御中主神であり、国常常立命であるとされています。実はホツマにおいても豊受大神は国常立命が輪廻転生されたと、はっきりと記されています。しかもここでは輪廻転生が肯定的にとらえられています。伊勢神道は、外宮神官が外宮の格を上げるために仕組んだものであり、ゆえに神道五部書は信頼のおけない偽書である、と烙印を押されています。しかし、伊勢神道とは全く別の系統ともいえるホツマの記述によって豊受大神と天照大神の関係が明確に判明し、それが伊勢神道において主張されていることと一致することを確認するとき、今まで、偽書扱いされていた神道五部書の内容が俄然、脚光を浴びてきます。筆者は以前にも述べましたが、直感的に、伊勢神道はもともとの伊勢神宮に伝わる教えを、即ち藤原氏=中臣氏によって簒奪されたそれ以前の伊勢に伝わる正しい由緒をや教えを、一部仏教や儒教的な表現を借りながらも再構築して、世に出したものであると思われます。ですから外宮神官渡会氏の私的利害によって新たな見解を世に出そうとしたものではないと確信します。であるがゆえに、神宮の祭式においても外宮先祭といわれるように、外宮が重視されているのです。
 ホツマが、明確に本来の神話時代の事実を示すものである、と認識されていなかった時代において、依拠すべき神典は古事記と日本書紀、および先代旧事本紀であったため、そこからは、外宮と内宮との本当の関係がわからなかったのは無理もありません。
 そして、瀬織津姫。記紀には一切登場していないものの、大祓祝詞にその名が掲げられているため、神道関係者の間でも謎の神とされてきました。その事績は一切不明であるため、本居宣長は禍津神(マガツカミ)と定義してしまいました。ホツマでは、天照大神の第一の后として登場します。伊勢神道の神道五部書においても登場する、伊勢神宮内宮荒祭宮の神、瀬織津姫、別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)その名の由来も判明します。 天照大神には、東西南北それぞれの局に三人の宮仕えを配していました。
 「東西南北(きつさね)の 局は替り 宮仕ゑ その中一人 素直なる 瀬織津姫の ミヤビには 君も階(きざはし) 踏み降りて 天下がる日に 向津姫 つひに入れます内宮に...」「その中でも特に素直な南の典侍(すけ)の瀬織津姫の慈愛に満ちた美しいお姿に、大君(天照大神)も強く御心を引かれ、ついに内つ宮(中宮)にされたのでした。その瀬織津姫は天下がる日に向津姫と称え名を賜りました。瀬織津姫が内つ宮に召しかかえられたので...」(鳥居礼氏『完訳秀真伝』より)
 瀬織津姫はあの八上姫の評判とも似通っているように思えます。
 この記述から、伊勢神宮や兵庫県西宮市広田神社の祭神が、天照大神の中宮、瀬織津姫であることが明確になります。
 この事実からも伊勢神道が外宮神官の私的な利害によって唱えられたものではないことがわかります。(神道五部書が偽りの書であると批判している学者の中に荒祭宮の祭神名が別名瀬織津姫とされていることを問題としたものはあるのでしょうか。また、渡会氏の利害とどう関わってくるか、その関係を果たして説明できるのでしょうか。荒祭宮祭神名の件に関して、渡会氏が社家の格を上げるためにわざわざ主張しなくてはならないことではありえないでしょう。
 ホツマは、今まで神道学者が見落としてきた重大な事柄についての疑問がいくつも解消されるような内容を有しているといえるのです。

 
 ホツマの内容検討によって、偽書であるか否かを明確にして、もし記紀より信頼できる書物であると判明したのならば、これまでの定説をすべて見直していく必要が出てくるのではないでしょうか。
  
posted by yakamihakuto at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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