2008年04月26日

虫井神社

 八上の南方、大江谷の南方に智頭町大呂というところがあります。ここには虫井神社があります。虫井神社の由緒書きから紹介します。
 「御祭神
 瀬織津姫 左
 須佐之男命 中
 速秋津比賣命 右
 天御中主命
 大山祇命
 宇賀魂命
 
 荒海大明神  右殿
 里人大明神  中殿
 都都良麻大明神 左殿
 
 当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命(武内宿禰)によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...
 国内最古級の歴史書、「三代実録」巻の四十四に「元慶七年(八八三)十二月二十八日因幡国正六位上、虫井神従五位下を授く」と記されている。
 そして正中元年(一三二四)には、御社殿を改築し遷座するなど朝野の尊崇も深かった。その後移り変わる歴史の狭間で、中世古代以来幾度の兵火にあい廃朽を余儀なくされていたが、嘉慶元年(一三八七)上古よりの名社であることから、大江美濃介師貞によって六〜七丁下の字ハセツコウに移転再興された。更に江戸時代、正徳四年(一七一四)に妙見社・三瀧蔵王権現・荒海大明神の三社を改築遷座した。
 大正十年...社殿を山麓の現在地に移し、本殿・幣殿・拝殿を新築、荘重なる御社殿のもと盛儀をこらして遷宮が斎行された。
 なお旧社地は現社殿より百四十m程高い尾根に在り。深緑連なる木立の中わずかに安永九年(一七八〇)の石製手水鉢が往時を偲ばせる
 また当社は虫井の社名に因むものか、往古より虫の守護神として崇拝され幼児の疳の虫、或いは田畑山林などの五穀成就、病害虫の駆除、風雨順時などに霊験著しく、植え付けより収穫まで、およそ年間を通じて地元はもとより遠く岡山、兵庫の両県より多数の参拝があり広く虫に関わる信仰を集めていた。
 いずれにしても景行天皇の御代より相伝えて実に悠久二千年に垂れんとする県下でも屈指の社歴を有する古社である。」
 虫井神社の虫という文字の上にはハネがついており、兎の文字と少し似ています。
 略記によれば、元々は、荒海兄弟という地元の氏族の拠点だったようです。その氏族が、あの河原町の多加牟久神社の武牟口命によって平定されたということなのでしょうか。その辺りの詳細はよく読み取れません。
 現在の祭神の筆頭は瀬織津姫です。その元になるのは左社の三瀧神であるようです。滝の神、水の神ともされる瀬織津姫、実はホツマにおいてはその最初の紋(章)で稲の害虫駆除との関連で登場します。このことが、社名の由来と関連するのかもしれません。
 虫井神社では毎年十月に花籠祭が催されます。
太陽に見立てて造った花籠を神社に奉納するそうです。江戸時代に始まる行事で、無形民俗文化財として県指定されているそうです。
以前にも述べましたが、この虫井神社と天照大神を祭る八上の赤倉神社はほぼ南北のライン上に位置しています。
ホツマツタエミハタノハツ 東西の名と穂虫去る紋(キツノナトホムシサルアヤ)
 「...和歌姫(天照大神の姉神)が天照大神の伊雑の宮においでになるとき、紀志伊の国の稲田が蝗(イナゴ)の大群に襲われてしまいました。途方にくれた農民たちは、稲の被害を伊雑の宮に告げたのですが、あいにく天照神は丹後の天真名井に坐す豊受神のもとへ行幸されていたのでした。そこで内つ宮(中宮)の向津姫(瀬織津姫)は和歌姫を伴い、急ぎ紀志伊の国に行かれたのです。紀志伊にお着きになった和歌姫は田の東方にお立ちになり、玄草(おしくさ)をもって扇ぎながら歌をお詠みになってお祓いをされると、蝗がとびさったので、向津姫は左右に三十人に侍女を立たせ、一斉にこの歌を歌われました。これが稲虫を祓う和歌の呪い(まじない)です。
 種果たね 生むすき盛め 無病素目らのゾロ葉も葉芽ぞ虫もみなシム
(タネハタネ ウムスキサカメ マメスメラノ ゾロハモハメゾ ムシモミナシム
 と繰り返して三百六十回歌い、あたりにどよませると、蝗の大群は西の海のかなたへざらりざらりと去っていったのでした。こうして烏羽玉(ぬばたま)のような闇夜となった人々の心は、糧を得て再び明るさを取り戻しました。喜びにあふれた紀志伊の国の人々は、日の前向津姫と和歌姫のために、それぞれ天日の前宮(あひのまえみや)と玉津の宮を造営し、それを献上申し上げました。向津姫のご滞在になった天日の前宮は国懸の宮(くにかけのみや)と讃えられ、和歌姫は玉津の宮がたいそう気に入られました。紀志伊の国は和歌の力により、もとのように若返ったことから、和歌の国(若の国)と讃えられました。...」
以上鳥居礼氏『完訳秀真伝』より。
 また、日本翻訳センターの現代語訳も大いに役立ちます。
 このように、虫井神社の社名と祭神の瀬織津姫がどのように関連があるのかは、もはや地元の伝承でもその由来が途絶えてしまい、記紀を通じても全く手がかりはないのですが、ここでもあの偽書扱いされているホツマによって、関連性が伺えるのです。もしかすると瀬織津姫はここにおいでになって、稲虫の祓いをされたのかもしれません。そのときに行われた呪い(まじない)としての催しは長い年月の間でとぎれてしまったのでしょうが、近代以降に地元住民たちの潜在意識の奥深くに残っていた遠い過去の記憶から、それに近い催しが花籠祭として蘇ったのかも知れません。
 智頭町には式内社はありませんが、天照大神を主祭神とする社や、瀬織津姫を祭る神社が比較的多いこと、中でも虫井神社において瀬織津姫を主祭神としていることなどから、藤原氏への対抗勢力が強い所であったのかもしれません。(筆者の都合の良い想像です。)
 
 ホツマには、和歌山の地名由来はもとより、和歌の語源、日の前国懸神宮や玉津島神社の由緒、広田神社の名前の由来も明確に記されています。これらのことも記紀では一切手がかりを得られません。
 筆者はホツマの存在を知ってかれこれ15年近くになりますが、確かに、中には現代の私たちには受け容れられないような記述や、不思議なことも多く盛られており、最初は眉唾物として距離を置きつつ、少しずつ触れていますが、知れば知るほど、これは真実の書ではないかという思いを強くしています。
 より多くの方がホツマの原文や様々な解説書などに触れていかれ、ご自身の感覚によってご判断していただくことを願います。 
 たいした内容検討も無いままに、一般的に偽書扱いされているからという理由で、この書物を避けてしまうことのほうがより大きな損失であるように思えます。
 つい先日、出版された菊池展明氏『円空と瀬織津姫』上(風琳堂)p377には、全国の瀬織津姫を祭る神社が紹介されていますが、鳥取県は全国3番目に多い25社の神社で祭られています。その中でも因幡で18社、旧八頭郡では13社と、集中していることがわかります。実は少し前に鳥取県神社誌に掲載されていた瀬織津姫を祭神とする神社を紹介しましたが、菊池氏の著書に記載されていない2社を含めると、その数は県内で27社となります。都道府県の面積のことを考慮すれば、密度でいえば総数全国1の岩手を抜いて、全国1位になります。
 また上記書には、円空は、出自が藤原氏系でありながら、自らの先祖が犯した罪への贖罪として、消された瀬織津姫のために数多くの彫刻を作成したのではないかと考察されています。円空はあの中将姫と同様の使命を持ってこの世に生まれ出てきたのでしょう。 
 


posted by yakamihakuto at 22:54| Comment(1) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by ferragamo 横浜 at 2013年08月17日 21:30
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