2009年01月12日

外宮と内宮

 伊勢神宮は外宮と内宮および、関連する計125社からなっています。
 記紀に外宮の祭神についてほとんど記載がないこと、内宮の成立についても記述がないことから、内宮と外宮の祭神の関係についてはさまざまな論が展開されています。
 中には、少々行きすぎと思える主張もネット上で見かけます。
神々のことを論じるときに、神格を否定するのは言語道断ですが、あまりに冷徹でシニカルな論評をするのはどうかと思います。少し前までの日本人は、何かはわからなくとも、畏敬の念を持って古来より神仏や自然を崇拝してきたものです。「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」(西行です。)
 唯物主義的な学問的方法論が大学を中心に支配する中で、学究的に追究するあまり、信仰とはなれてしまっているのは残念な思いがします。(そのような傾向が長く続いている今日、東京大学において60年ぶりに神道を研究する会が発足したのは非常に意義のあることです。また、顧問である菅野覚明教授も、その著作『神道の逆襲』において、伊勢神道を、倫理的な観点から積極的に評価しながら、従来の神道五部書を全否定するかのようなステレオタイプ化された説にとらわれないで、独自に慎重に論じています。)
 また、神仏を論じるにあたって、神秘的な事象はほとんど無視されています。古い時代のものであればそれは受け入れられたりもしますが。
 外宮と内宮の関連は、記紀において意図的にわからなくされているものであることが、ホツマによって明確になります。(ホツマが真書であるとするなら本当に、今までの恣意的な解釈がほとんど吹き飛び、整合性を持った真相が顕在化します。)
 特に日本書紀がその意図を顕わにしています。雄略22年7月に丹後(当時は丹波)比沼の真奈井の比沼山頂(現久次岳)から、伊勢の宇治山田へと外宮祭神は遷座されるのですが、このことには一切触れられていません。そして同雄略22年7月、丹後伊根筒川から浦島太郎が竜宮城へ向かったことを大々的に日本書紀は取り上げているのです。同じ年の同じ月、ですから、これは明白です。
浦島太郎は300年後の淳和天皇の御世に竜宮から戻ってくるというものですが、史実としてありえそうにないこと、しかも、国家的レベルから考えても外宮の伊勢への遷座という一大事とは比較にならないことです。Wikipediaにその背景、執筆者と思われる人物についても記されています。
「『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた作品を本にしたものでありこの人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『壊風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。『雄略記』や『丹後国風土記』、『万葉集』「巻九」などに見られる8世紀の浦島物語の原話は伊預部馬養によって描かれた神仙伝奇小説であった可能性が大きい。」と説明されています。


 同時に、豊受大神の数々のご活躍の舞台であった比沼の里、真奈井では、風土記において、豊受大神があたかも羽衣天女の一人であるかのような「伝承創作」をした形跡が濃厚です。
(このような創作が、古事記のイナバノシロウサギ神話においてもなされていることは、石破洋教授が『イナバノシロウサギの総合研究』で解明されているとおりです。 
筆者は、古事記のイナバノシロウサギは、天照大神を導いた白兎が、その後、瑞祥の象徴となったことを押し隠そうとした意図があるものと見ています。
 全国各地の古い歴史を持ついくつかの神社で、兎が吉兆の象徴として大切にされていることの起源は、記紀では一切不明で、古事記では、逆にうそをついた、というレッテルを貼られてしまっているのです。)
 
 ホツマによって、天照大神と豊受大神の本当の関係や、丹後真奈井が、重要な政治拠点となっていたことを知る者にとって、おとぎ話それ自身は幻想的で興味深いことは否定しませんが、このような中国風の作り話で事実をファブリケイトされていることに、唖然としてしまいます。
 そのような意図が見え隠れしているにもかかわらず、主に記紀や風土記の叙述に頼って、他の面での検証抜きにして、天照大神と豊受大神の神格を誤って認識しているものが、アカデミズムの中で少なからず存するのは、由々しき問題ではないかと、筆者は感じています。
 他の面とは、例えば、京都の伊勢、日向大神宮の外宮祭神が天御中主神とニニギノミコトであること、天橋立、籠神社にも豊受大神が天御中主神、国常立命とご同体であるという所伝が独自にあること、大本教でも同様の解釈がなされていること、そしてホツマにも豊受大神は国常立命の転生された神であることが記されており、それぞれが相互に関連することなく、しかも伊勢神道とは無関係に存在していることです。
 加えて、藤原不比等、持統天皇のときに、内宮と外宮の社家に大きな変更が加えられ、その直後より天皇ですら伊勢神宮へ参宮できなくされるという緊張関係が生じていたことを、知ってか知らずか等閑視し、もともと内宮と外宮の両宮の社家であった渡会氏が、鎌倉時代になってやっと表に出すことのできた伊勢神道を、軽んじている主張が多いのには、ただただ驚くばかりです。
(天皇の参宮禁止は明治維新まで約1200年間続きました。外宮に関しては菅原道真公の生誕の際、祈祷がなされたくらいですから、平安初期から一般庶民の参宮は認められていたと思われます。
その後、鎌倉期からは内宮も、武家そして一般庶民の参宮を受け入れています。然し、皇室関係者に限っては斎王を除いて一切参宮された方がいないのです。
その一方で、戦国時代、後陽成天皇は丹後の元伊勢、比沼麻奈為神社へお越しになり、額を奉納されています。ですから皇室も本当は伊勢神宮祭神の直接祭祀を切望されていたと思われます。
さきの日向大神宮へは歴代の数名の天皇も参拝しておられるようです。宮中八神には伊勢の祭神は含まれていません。宮中においても天照大神を祭祀することはままならなかったようです。「私幣禁断」の真相は「皇室の参宮禁止」ととらえた方が妥当でしょう。)
 神道五部書に偽書の烙印を押した吉見幸和の主張がいかなるものであったか、非常に気になるところです。
社家の強引な変更も突然実行され、神宮にあった古文書も焚書された可能性もあるのではないかと思われます。また、一般民衆と皇室をも伊勢神宮から切り離してしまった「私幣禁断」の狙いは祭祀の担い手を伊勢神宮内宮神官のみに限定し、神宮を孤立させ、経済的にも困窮させて、ゆくゆくは廃絶しようとしたのではないかと思われます。
神宮の御杣(ミソマ)山も伊勢から遥か遠くの木曾へと、用材確保にも苦労しました。
 この御杣山で、遷宮のたびごとに1万本以上ものヒノキが切り出されるます。用材の中には、量は少ないのですが、樹齢600年を超える大きさのものも必要とされます。元は神宮の宮域から確保できていたそうですが、鎌倉期には、もはやすべて切り出してしまってなくなったという事実には注目すべきでしょう。

丹後の元伊勢は庶民に対してなんら奉幣の制限などありません。豊受大神が稲作をはじめられた月の輪田や籾種を浸された清水戸も昔から今に至るまで、庶民の生活の場に位置しており、「私幣禁断」などというしきたりとはまったく無縁です。
ホツマによれば、豊受大神が真奈井で天照大神に伝えた最後の教えでも、君主は民の親であり、庶民への愛を大切にすることを強調されました。この思想と「私幣禁断」には筆者は距離・違和感を感じます。
 おそらく他の古い伝統を持つ神社でも60年ごとの遷座は行われていました(おかげ参りも60年周期で爆発的にヒットしたそうです。出雲大社も昨年60年ぶりに修復がなされたようですし、京都府大江町の元伊勢豊受大神社においても平安時代より、ほぼ60年ごとの遷宮を行ってきていることが社家の河田家に伝わる古文書に記されています。おそらくここはトヨスキイリヒメが三輪より遷座したときに創建されたものではないかと筆者は思っています。)が、外部のサポートを一切絶たれた状況で神宮を20年ごとに遷座し続けることは神宮にとって大きな負担となったはずです。
 御師の登場、活躍がなければ、間違いなく神宮は消滅、ないしは大幅に規模を縮小せざるを得なかったと思われます。然し、パラドクシカルにいうならば、持統天皇の御世に定まったとされる20年毎の遷宮は、庶民の伊勢神宮への関心を喚起する機会を頻繁に与えることができるものとなっています。

 ホツマによれば、豊受大神はイザナミノミコトの父、即ち天照大神の祖父に当たる神で、天照大神のご誕生のために、宇宙の天御祖神に8000回に及ぶ祈祷をされ、ご誕生後は天照大神を東北の日高見で養育されたのです。
豊受大神は丹後真奈井で崩御される間際にも、天照大神を伊勢の伊雑宮からお呼びになって、最後の教えを説かれました。後に天照大御神もここ丹後の豊受大神の元でご永眠されることを望まれて、奥都城を丹後になされたのです。
それくらい縁の深いところであったがゆえに、崇神天皇の御世にトヨスキイリヒメが天照大御神の御霊代の遷座の地として、先ず第一番に丹後を選ばれたのです。その場所とは天照大御神の長期的な行在所、または奥都城であろうと思われます。それら関連の地が元伊勢として信仰の場とされてきたのです。
 最終的には、天照大御神の晩年のご住居である伊勢五十鈴川上流、現在の内宮の地に遷座されることになります。
 天照大神の崩御の後に瀬織津姫は、大神のご遺言どおりに五十鈴川の宮殿を後にして、ワカ姫とともに西宮の広田の地にお移りになったのです。
広田神社は瀬織津姫の別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)という名前で祀られている非常に珍しいお社です。
 ホツマの記述がいかに神社祭神や伝承と一致しているかが皆さんも次第に納得していただいていると思います。繰り返しますが、記紀では、これらの記述の数%にも満たないことしか記されていません。丹後の元伊勢伝承地は勿論、伊勢の内宮、外宮、伊雑宮の関連なども、さっぱり見当がつきません。

 
 伊勢神道においても不明な、豊受大神と天照大御神のご関係と、その関連の社とその位置関係、元伊勢遷座の意味などが、ほぼ全て理路整然と説明できるのは唯一、ホツマしかないのです。
 こうして比較検討してみると、記紀の執筆者の狙いは、日本の祖先神のご業績を踏みにじり、分からなくすることにあったといえるでしょう。
 

 また、豊受大神の最後の教えのご伝授の後、丹波の民に慰留を懇願されて、しばらく行宮された縁で、天照大神が、後に因幡・八上へ行宮されることになったのだと思われます。
 
 豊受大神は天照大神にとって、特別の神だったのです。これに関して、ネット上で、大変興味深いたとえをしているのを発見しました。非常にわかりやすいたとえです。
   
posted by yakamihakuto at 23:51| Comment(6) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日高見・・八上にある日高見神社は神秘的な空間です。是非、春にはお越しください。
Posted by かぎや at 2009年01月13日 21:14
かぎやさん、初コメントありがとうございます。八上ルーツ、因幡在住の方(fugichanさんもそうです)とやり取りできるのは、このブログにとって、誠に光栄なことです。今後ともよろしくお願いいたします。
 日高見神社も、なぜ、ここにその名前の神社があるのか、皆目検討がつきませんね。近くの伊蘇乃佐只神社や野々宮神社同様、非常に珍しい御社が八上にはありますね。
 
Posted by 白兎の小使い at 2009年01月14日 00:44
一昨年夏休み、家族旅行で天橋立へ一泊旅行しました。籠神社の向かいの岸にある民宿に泊まりまして、翌日朝、ケーブルカーで上がり雄大な絶景を眺めることができました。
その頃、元伊勢とか、籠神社の重要性を知らなかったので残念ながら参拝せずに帰ってしまいました。

その前の年の夏休みの家族旅行は、淡路島でした。
そこでは、たまたま伊弉諾神宮に寄ることができました。古事記の本を買ったり、毎日参拝しているという不思議なおばあさんに出会ったり、自分にとっては印象的な旅でした。

後で考えると、すごいところに知らず知らずに導かれていたような。もっと勉強してから行けば、もっと感動していたのだろうと思うと少し残念ですが。

今年は隠岐の島に行く予定です。
神社関係で何か見所があれば、教えてください。
Posted by funaoka/fukumoto at 2009年01月19日 11:04
 funaoka/hukumotoさん、初のコメントありがとうございます。八上・因幡ルーツの方から次第にコメントを頂戴する機会が増えて本当に喜んでおります。
 funaoka/hukumotoさんも、毎年のご家族での旅行先は不思議に、神話伝承の色濃く残るところが多いようで、神々とご縁が深いようですね。
 小泉八雲がもっともお気に入りだった隠岐へは、私はまだいっておりません。
 日本は世界の地形の縮図であるという説がありますが、それに基づけば、隠岐はちょうどイギリス、アイルランドに当たります。確かに風景も似ています。切り立った崖の向こうが海、という絶景もあります。
 天照大御神の伝承もありますので、ぜひ、その関連の地をお調べになってからお出かけください。
 八上とも縁のある隠岐です。智頭の焼火(たくひ)信仰、下門尾のルーツ、隠岐の漁民の青龍寺への信仰、そして隠岐から渡って来たかもしれないシロウサギ、八上の神の託宣によって脱出された後醍醐天皇など、密接な関連があります。武良郷中村の御客祭の的射神事も日月、兎とも関連します。
 そのほかにも隠岐にしかない珍しいものがたくさんあると思います。
 
Posted by 白兎の小使い at 2009年01月19日 13:34
ありがとうございました。
かつて大陸から渡来してきた人たちの中には隠岐の島経由の部族もあったことでしょう。
国の中心から離れたところに、古いものが残るということもあります。
八上との関連は興味深いですね。
夏の旅行が楽しみになりました。少し下調べをした方がいいですね。

Posted by funaoka/fukumoto at 2009年01月20日 00:01
 隠岐へは私もいつか行ってみたいと思っています。
 それと、イナバノシロウサギのことで、興味を持って動いていらっしゃる方の中には石破教授をはじめ、不思議に船岡ルーツの方が多いですね。私もそうですが。波兎も多いです。かつて、大江神社近くに国府があったと、何かに書いてあるのを見たことがあります。この研究を通じて、ルーツの地の奥深さがわかってきました。とても意義があります。
Posted by 白兎の小使い at 2009年01月21日 00:23
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