2009年01月25日

神蹟 豊受大神社

 京都市福知山市大江町には、元伊勢内宮と、元伊勢外宮があります。元伊勢外宮は豊受大神社が正式名称です。
 筆者はこれまでこの豊受大神社についてほとんど記していませんでした。
 実際のところ、判然としないことが多かったためです。
 この正月に初詣で久しぶりに元伊勢内宮とともに参拝した折、河田宮司家の方にお話をお聞きし、その後、宮司家に伝わる古文書からの資料を頂戴して、やはり重要なお社であることを確信しました。
 これまで、筆者は十数年来、丹後にある複数の元伊勢を参拝し、その折に少しずつ調査を進めてまいりました。

 その結果、雄略22年に伊勢山田へ向かったそのときの元伊勢外宮(ホツマでいう朝日宮:アサヒミヤ=豊受大神の奥都城)は京丹後市峰山町久次の山頂から山腹にあったと思われます。遷座の後にも祭祀は続けられやがて里に神殿が移築されたものと思われます。現在の比沼麻奈為神社ですが、戦国時代以前は、境内はもう少し手前に位置していたようです。
 久次、および隣接の苗代、二箇(にか)、五箇(ごか)、鱒留(ますどめ)にかけて特に豊受大神の神蹟や伝承が集中しています。
 ところで、大江町の元伊勢内宮の北方、真井野(まいの)にも真名井があり、豊受大神の伝承が伝わっています。
 丹後の元伊勢でもっとも有名な籠神社の摂社、真名井神社は久次岳山頂、山腹のオオミアエ石、比沼麻奈為神社社殿、大宮賣神社の真東に位置しています。、防衛上の観点から、海岸近くのここが元宮(奥都城)であったとは考えにくく、おそらくその位置関係より、元宮への遥拝の重要祭祀拠点であったと思われます。豊受大神が丹後を拠点に日本海沿岸各地に足を延ばされた形跡もあります。その一つがすでに紹介したように因幡における因幡大明神の稲作伝授であると思われます。
 それに加えて、北陸方面にも、神明社として天照大神が祀られているのではなく、豊受大神が祭られている社が多いそうです。 おそらく、そのあたりまで豊受大神がお越しになり、民の生活を助けられたことが神社の起源だと思います。
 摂津の国の宝塚、または三田市にも豊受大神がお越しになったことが、摂津国風土記に記されています。 (話はそれますが、摂津という地名は瀬織津姫の御神縁でついた名前ではないかと思っています。もちろん、摂津はずっと後の世につけられた名前なのですが、八頭のように、何らかの見えざる計らいが働いたものではないかと思います。摂津には瀬織津姫が晩年過ごされた広田神社があり、奥都城もその近くにあるかもしれないからです。あるいは天照大神の奥都城の近くかもしれません。)

 豊受大神はかなり広範でにご活躍されていましたが、特に丹後を拠点にされていたので、その関連の神社が多いのでしょう。ですから、元伊勢の本命はもちろんあるのですが、数ある元伊勢の多くが豊受大神の御現身のときの神蹟ととらえたほうがよいでしょう。現代人の文献中心の研究のみで、信仰とは無関係にあれこれ論議したところで、無意味です。
 
 そして、豊受(とゆけ)大神社です。とゆけ、と呼ばれていることはホツマの表記に近い事にも注目すべきでしょう。ここは、筆者は、久次岳から伊勢へ御遷座の際にお泊りになったところではないかと思っていました。確かにその可能性もあります。兵庫県市島町や、亀岡市に、その御遷座の跡とされるところが残っています。しかし、規模があまりに違いすぎるのです。ここは元伊勢内宮とまではいかなくとも、境内には相当格式のある社殿があります。河田氏のお話によると、周りを囲む39の摂社はそれほど古い歴史を持っているものではないそうです。しかし、中心の本殿や脇殿は昔からのものと思われます。
 河田宮司家の文書を拝見してここの重要性を確信しました。
 元からの祭神はなんと比沼麻奈為神社本殿祭神とまったく同じです。
 
 祭神 豊受大神 相殿 ニニギノミコト、天児屋根命、天太玉命

 平安時代から現在に至るまで、河田家が一貫して宮司を務めてきたこの豊受大神社は、ほぼ60年ごとの遷座の伝統を守っておられます。 
 ここの真西に位置する出雲大社においても60年ごとの遷宮の伝統を守っています。その期間がぴたりと符合しています。
 では、このお社の起源をいつごろと見るのが良いかということですが、筆者は雄略22年よりはるかに古い時代、トヨスキイリヒメが大和から第一番に天照大神の御霊代を丹後に遷座された時、と思います。 
 もちろん、その遷座地は元伊勢内宮です。トヨスキイリヒメがここにおいでになったときに、豊受大神が天降られたことが記録に残っています。ずばりこの場所が豊受大神社だったと思われます。
 元伊勢外宮はその後、ずっと祭祀が続けられたかどうかは定かではありません。
 というのも、元伊勢外宮の山、舟岡山(ふなおかやま:ここも船岡です。久次にも船岡(ふなおか)があり、そこは丹波道主命の府の岡でした。ふと八上の船岡の語源は何なのでしょうと思いました。)は前方後円墳ではないかという説もあるくらいです。
 その真偽のほどはさておき、少なくとも記録に残っている限りでは昌泰3年(西暦900年)には存していたことがわかります。
 おそらく、トヨスキイリヒメがここに4年間いらっしゃった間に豊受大神の御神霊が出現され、大きな瑞祥として、その地に格式のある社殿が創建されたのでしょう。
 


 

posted by yakamihakuto at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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