2009年05月12日

豊受大神の伝承

 前回のブログ記事で、天照大神伝承が極めてまれであることを述べましたが、記紀がほとんど抹消した、豊受大神のご業績、ご活躍の舞台についても、同様です。
 「豊受大神 伝承」 で検索して出てくるのはやはりホツマ関連と丹後地方がほとんどです。それに関連して、このブログも引っかかってきます。
 丹後はその点で貴重な伝承を残してきている大切なところです。以前にも記したとおり、羽衣伝承や浦島伝説で豊受大神のご業績や伝承を覆い隠す、あるいは捻じ曲げようとした形跡が読み取れます。
 この点から、意外にも今まで誰も指摘してこなかったことが判明します。即ち日本書紀を編纂した時点で、すでに外宮は低く扱われていた、ということです。そして日本書紀の記述のとおり、書紀に出てくるどの一書にも雄略22年の外宮遷宮のことが記されていないとするならば、その時代はもう少し古くなるかもしれません。つまり最も古くて雄略22年となります。この時点以降より、外宮祭神を低めようとするなんらかの勢力による動きがあったといえるように思えます。

 これは、因幡においても同様である、と筆者は思っています。
 天照大神の八上行宮、とそれに関わる白兎神の伝承は、古事記の稲羽の素菟神話で見事に覆い隠されたといえると思います。
 もちろん、大己貴命が因幡へお越しになったときに白兎が現れたことでしょう。
 しかし、白兎がワニを騙して云々は後世の古事記執筆者の作り話です。
 
 京丹後市峰山町と網野町にまたがる風土記に記された羽衣伝説とは、男神、豊受大神を女神に仕立て上げるためのもの、しかも、天御中主神、国常立命の転生、即ち根源神であることを否定して神格を低めようとする意図を持って、奈良時代以降に新たにファブリケートされたおとぎ話にすぎないものと思われます。
 以前記したとおりですが、浦島伝承も雄略22年7月に竜宮へ出発、とはちょうど同じ年の同じ月に丹後の元伊勢から伊勢山田へと豊受大神の遷宮が開始されたタイミングに合わせており、しかも日本書紀には、この遷宮の事実を一切無視して、浦島伝承を記しているのです。
 このことからも日本書紀の執筆者が伊勢祭神をいかに低く扱おうとしているかが、よくわかります。
 記紀・風土記のこのような意図を見抜くことが大切です。
posted by yakamihakuto at 10:06| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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