2006年09月28日

八上 白兎地図

 恥ずかしながらとりあえず試作品ができました。ブログトップページの右上の図をクリックしてください。石破洋教授の発案で作成しました。今後さらに内容を充実させて改善したいと思います。
 案内の看板等がその近くに設置されないと、わかりにくいところもあります。そのときは、通りがかりの人に尋ねましょう。車でいらっしゃるときは、置き場所など十分注意しましょう。
 

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2006年09月03日

白兎海岸の白兎神社

 夏の海水浴シーズンも過ぎ、ひっそりとした白兎海岸でした。白兎神社への参拝客はちらほら、という感じでした。神社本殿の南東側と西側には何かを建設中です。大きい拝殿の奥に本殿があります。といっても、兎年の初詣のときにはこの拝殿も狭くて、行列ができてしまいますが。こじんまりとした古い本殿は歴史を感じさせますが、これは明治になってから建て替えられたもののようです。
 おそらく方角は西を向いているように思います。現在の神社はたいてい東向きか南向きに立てられるのが多いのですが、出雲との関係からでしょうか。
 白兎神社の前には道の駅が本年4月にオープンし、賑わいを見せています。
 全国的に見ても、いや世界的に見ても兎を祭る神殿、というのは珍しいもので、もっとこの意義を踏まえたほうがよいでしょう。八百万と形容するように、人格神ばかりでなく自然界のあらゆるものや、歴史的に偉大な功績を残した人々や、動物にまで神性を見出す感性を持っているのが日本人です。
 白兎関連のグッズの充実も良いですが、因幡国に10箇所にも満たない所にしか祀られていない大兎明神(おおとみょうじん)、素兎(しろうさぎ)の神に関連する社寺を誇りに思って大切にしましょう。

鳥取白兎本殿





















 9月3日朝のTBSの関口宏さん司会のテレビ番組ではドイツの大きな兎が紹介されていました。普通の兎の5倍以上の大きさで毛並みは茶色でした。因幡の素兎も大兎明神といわれるように、こんな大きさだったかもしれません。
巨大ウサギ






     







 白兎海岸 道の駅にある白兎の像です。

うさぎ 白兎海岸

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2006年08月10日

福本白兎神社の古い額

ちゃぶちさん提供
 文政7年(1824年)の作です。 鳥居は、安永5年(1776年)と記されています。関係はありませんがアメリカ建国記念の年です。

旧い額
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2006年07月25日

3つの社で聖地を表現

 上・中・下の社を持つ奈良吉野の丹生川上社、滋賀の伊吹山の3つのイブキ神社等、ある重要拠点を三つの社で表している例は少なからずあるように思えます。三つではありませんが、丹後元伊勢の丹波郡(現京丹後市の一部)は全式内社九座がすべて豊受大神を祀っていることもその典型的な例です。つまり聖域が広いほど同系列の社寺が複数建てられています。
 白兎神社も三社で霊石山麓の重要拠点の所在を示しているようです。はるか昔にはひょっとすると霊石山山中に鎮座していたかもしれません。そして白兎神社創建より時代は新しいと思われますが、古事記の成立する直前、元明天皇の時代に行基によって開基された青龍寺・最勝寺、そしてそれより創建の古い慈住寺の三つの寺も霊石山麓に位置しています。以前にも記しましたが、大和から遠いこの八上の里には天皇勅願の寺社がいくつかあり、中央権力からも重要な場所と捉えられていたようです。その理由が少しわかってきたような気がします。
 白兎ラインの重要拠点は明らかに私都川で、しかも多くは流れの大きくカーブする場所に位置しているようです。意図的に改修されたのではないかと思われるくらい曲がりくねっている印象があります。
 私都川沿いではありませんが、曳田の賣沼神社も同様、曳田川の流れの急カーブするところに位置しています。これはどういうことでしょうか。筆者の勝手な思いつきですが、瀬織津姫と関係があるのでしょうか。セオリツ=瀬折津とも考えられるかも知れません。滋賀県の佐久奈度神社も元の社地は川沿いで、祓戸の神を祀っています。熊野本宮の元の社地も明治の初めごろまでは二つの川の合流点に位置していました。
 京都の賀茂川と高野川の流れは風水の考えに基づいて盆地の東部に改修され、合流地点も以前はずっと南であったのを北の現在地に変えたようです。加茂川の上流に神山、上賀茂神社、合流するところに糺の森(ただすのもり)、湯川秀樹も生前によく散歩していたその森の中に下鴨神社があります。下鴨神社には豊玉姫命の妹神、玉依姫命が祀られています。
 
 白兎神社は白兎海岸にもあります。現在は最も有名で、よく整備され、観光地としても申し分のない景勝の地にあります。しかし、古代においては立地条件として、少し不安な面があるように思えるのですが。ここは、太平洋側ならいざ知らず、日本海側でいつ何時、大陸から外敵が攻めてくるかわかりません。付近の青谷上寺地遺跡は弥生時代のものですが、そこから発掘された人骨には戦闘による傷跡があったようで、大陸との緊張関係を物語っています。(もっとも内戦であったかもしれません。)
 
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2006年07月03日

白兎海岸 内海の白兎神社

 鳥取市白兎海岸の内海にある白兎神社は兎年になると全国ニュースに取り上げられます。兎を祀る神社の中で最も有名な鳥取の白兎神社への初詣の取材は恒例行事となっています。
 戦国時代の武将の亀井氏が復興したとされる白兎神社は、再建前は長らくその社地すら不明の状態であったそうです。亀井氏が再興した神社の社地、果たしてそこに基壇跡が残っていたかどうかも不明です。
 石破教授の研究によると基壇のサイズが福本の白兎神社のそれと全く同じだそうです。神社建築の際、使われる用材の共通のサイズが、尺のスケールや木材の大きさの関係から用いられた可能性もあるでしょう。
 亀井氏は、福本の白兎神社のことを知っており神社再建の際に参考にしたのでしょう。実際、農業用の二十数キロに及ぶ井出を建設するとき八上の里に足を運んでいるのは確かですから、そのときに亀井氏は白兎神社とその伝承を詳しく知り、そして自らの勢力圏内にこの伝承を反映させるものをそろえたかったのだろうと筆者は推測します。
 福本の社の基壇は結構古いようですが、どれくらい古いかはわかりません。
 郷土史家新さんの話によれば、福本の社地は昔からずっと現在の場所のままだったということです。ある時期、洪水などの原因あるいは社の再建の際の一時的な移転はあったかもしれませんが、白兎ラインや東西ラインを考慮すると福本の白兎神社の基本的な位置は、やはり現在の地であったのではないかと思われます。
 それにしても鳥取市内海、白兎神社社殿の六つの基壇礎石に二十八弁の菊花紋が使われているのは、いったいだれの発案によるものでしょう。亀井氏の大胆な考えに基づくものでしょうか。皇室では十六弁の菊御紋が使用されています。
 筆者は八上・霊石山伝承等から、白兎神社の伊勢神宮・皇室との深い関連性を感じています。亀井氏もこのあたりのことを踏まえて天皇家との関係性を示そうとしたのではないでしょうか。
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2006年06月28日

白兎の里 白兎ライン


八上地図 部分
















1福本 白兎神社本社
2池田 稲荷神社(白兎神社)
3土師百井廃寺跡 隣の宮田という場所が土師百井もと白兎神社の元の地と筆者推定
4米岡 米岡神社 天照大神の神社
5賣沼神社・嶽古墳辺り
6賀茂神社胞衣塚跡・御旅所
7賀茂神社一の鳥居跡
8稲荷 土師神社(祭神天穂日命)

 2と3の間に天寺(アマテラ)橋があります。
 夏至・冬至ラインは八頭町福本地元郷土史家 新 誠(あたらしまこと)さんにご教示いただきました。
夏至・冬至ラインと東西ラインの交点が福本の白兎神社です。
 月の光サイトにもいつの間にか紹介されていました。 
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2006年06月21日

白兎神社境内

 平成19年1月7日一部改定 
 この白兎神社境内の傍らには私都川がカーブを描いて流れ、またその先にはJR線があり、毎日そこをあの智頭急行「スーパーはくと」が頻繁に行き来しています。列車の車窓からも見えますが、殆ど誰もこの小祠を白兎神社だとは知りません。そして確かに八頭町には、白兎神社が表向きは存しないようになっているのです。よほど意識して探し出そうとしない限り、白兎神社は見えてこないのです。常時白兎神社の名を示すものは、福本白兎神社の鳥居の額と土師百井白兎神社の灯篭に刻まれた文字、門尾の白兎神社燈籠2基、宮谷賀茂神社境内鳥居前の白兎大明神の燈籠2基、そして祭礼のときだけ出現する池田の白兎神社の幟です。ですから、旧郡家町に白兎神社がある、しかも3つもある、などということは、大半の地元住民ですら全く知らないという状態だったのです。
 3つといえば偶然にも霊石山山麓の寺も3つです。何か関連がありそうな気がします。
 全国的に見ても極めて珍しい白兎神社、そして伊勢神宮との濃密な関わり、これらをちゃんと顕彰し、後世に残していくべき貴重な歴史的遺産としていくべきでしょう。とりあえず賽銭箱が設置してあればと、参拝のたびに思います。



白兎神社境内
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2006年06月08日

三つの白兎神社と私都川

 八上の中央、天照大神由来の霊石山東麓を流れる私都川という皇后由来の川沿いに、三つの白兎神社があり、しかも意図して、夏至冬至ライン上に並べられている、なんとも見事な構図が現われました。(ただし土師百井の白兎神社は社地移転のために現在は少しそれています。)私都川は白兎の川でもあります。私都川は霊石山東麓に沿って流れ、国中平野をかすめ、霊石山南麓で八東川と千代川と合流します。石破洋教授は、川の合流する地点の山や平地は聖なる地とされてきた、と「イナバノシロウサギの総合研究」の中で指摘されています。たしかに、筆者も奈良吉野の丹生川上神社中社へ参拝した折、近くに二つの清流の出合う夢淵という所があり、その美しさに感銘しました。合流する地点の麓には社がありました。
 兎は月と関わりをもち、月は作物の成長や漁業に大きな影響があることは、昔の人によく知られていました。このため今でも太陰暦が活用されていると聞きます。日=太陽の恩恵ばかりが強調されるのに対し、月=太陰の恵みも忘れてはならないということを示しているようです。陰と陽のバランスを上手に保つことはあらゆることにおいて大切です。物事なんでも偏るとトラブルを引き起こしやすいものです。
 兎は豊穣の象徴ともされます。豊穣の神、大兎明神に、水害その他の被害から田畑の作物や村々を守ってもらうという意味があるのではないでしょうか。また兎は月の満ち欠けのように、不老不死や若返りの象徴でもあったようです。
 また、因幡は薬草栽培の盛んなところだったようで、京の都には因幡薬師があります。
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2006年06月06日

白兎の夏至・冬至ラインに並ぶ遺跡

 少し前、皇太子ご夫妻もおいでになった郡家ふれあいドーム、育英小学校跡地付近にある賀茂神社の一の鳥居跡と、賀茂神社の御旅所でもあった胞衣塚跡はほぼ白兎神社の夏至・冬至ライン上に位置しています。
 胞衣塚の由来は京都から賀茂別雷神を勧請して戻ってきた折の御休処、とされていますが、本当でしょうか。全国各地に胞衣を埋める習慣があったようですが。これも今後の課題です。


一の鳥居跡




胞衣塚

















胞衣塚案内
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2006年06月05日

池田の白兎神社と天寺橋

 平成18年8月17日一部改定
 私都川に沿う池田の白兎神社は、稲荷神社とも弁天様とも、池田神社とも呼ばれていますが、年に一度の春の祭礼の日にはちゃんと白兎神社・稲荷神社連名の大きな幟が立てられます。祭神は市杵島姫命、倉稲玉命、ミズハノメノ命で、ここも表向きは大兎明神は祀られていません。いつごろから、そしていかなる理由によるものでしょう。なぞです。しかし、地元で一番お社について詳しい方にお聞きすると、向かって右側の祠が白兎神社で、現在も白兎神を祀っており、社地はずっとこの位置のままだそうです。向かって左側の権現造り風の祠が稲荷神社で、元は集落の西端にありましたが、集落内の道路拡張のためにこの地に移転し、現在は同じ境内で祀っているようです。
 私都川に架かる天寺橋は名前も驚きですが、位置も見事に白兎神社の夏至・冬至ライン上にあり深い意味が込められているようです。郡家町の旧地名の記録書を参照すると、ちょうど橋のかかっている近くの田地の字が天寺となっていることからつけられた名前のようです。そこは今のところ未調査です。
 尼寺跡の可能性もあるのではないかと思われますが、現在の所不明です。隣の土師百井には史跡指定の慈住寺跡がありますが10000uの面積で法起寺式伽藍だったそうです。
 天寺は本来は天照(あまてらす、もしくはあまてる)であった可能性はないのでしょうか。


池田 白兎神社



















天寺橋看板
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2006年05月24日

八頭町宮谷 賀茂神社

19年1月7日一部改定
地元の人たちの崇敬厚い賀茂神社
鳥居は県内一の大きさ
 主祭神は瓊瓊杵命と木花咲耶姫命の夫婦神 彦火火出見命と豊玉姫命の夫婦神 別雷神です。
 合祀神は、素兎神、須佐之男尊 天児屋根尊 
天穂日尊 猿田彦尊 ミズハノメ尊 倉稲魂尊 誉田別尊 市杵島姫尊 です。
 瓊瓊杵命は天照大神の孫にあたります。彦火火出見命は瓊瓊杵命の子にあたります。別雷命は奈良時代の大飢饉の折、託宣によって京都の上賀茂神社から勧請されました。元は現社地よりさらに山の手に上賀茂社を構えていました。宮谷のあたりは土地が高く、ずっと昔は少しでも日照りが続くと作物は台無しになってしまったそうです。そこで堤を幾つも作って水不足を解消しています。この方法は祭神の瓊瓊杵命と関連があるようです。瓊瓊杵命の御事跡は記紀には記されていませんが、全国各地で農業の神様として称えられているようです。この八上にもおいでになったのではないでしょうか。(祭神については、慎重に検討する必要があります。全国どこへ行っても祀られているポピュラーな祭神もあれば、その地域独自の祭神や唯一の神社があったりします。これらは、やはり何らかの史実・伝承を反映しているものであるととらえるべきでしょう。)また、江戸時代には、安藤伊右衛門が用水を作り、今でもそれは利用されています。また、育英小学校跡地近くの胞衣塚跡とされる所はかつての賀茂神社の御旅所だったようです。遠方からの参詣者も多かったことを示すものです。
 明治大正期の行政による神社合祀により、近郷の神社祭神を合祀しています。素兎神は大正3年2月に福本白兎神社より合祀され、併せて燈篭2基も賀茂神社鳥居前に移設されました。
 郡家盆地の東、宮谷の山と西の霊石山の山頂を結ぶ一直線の東西線上に賀茂神社、賀茂神社燈篭(郡家駅近くの旧道沿い)、白兎神社、亀石、伊勢が平、イワクラが並んでいるのも単なる偶然ではないでしょう。賀茂神社と鳥居を結ぶ線が青龍寺へとつながるのも意図されたものかもしれません。古代の人たちは独自の仕方で、正確な方角を割り出して、重要な施設の位置を決めていたようです。特に神社はその場所の選定に当たり、土地の良し悪しと並び、他の社や重要拠点との関係で、社地が決定されている場合が多いようです。八上の地で、その見事な配列がなされていることが浮かび上がってきました。
 あと一点気になるのは、白兎海岸の白兎神社では豊玉姫命も祭られていること(これは大正元年に気多前の川下神社祭神を合祀していることによるのでしょう。)、豊玉姫命は鰐の化身であると古事記に描かれています。鰐を舟に見立てたのか、または亀甲船ならぬワニ舟またはカモ船に乗る豊玉姫を鰐と比定したものでしょうか。豊玉姫が到着したのは若狭だったように思いますが、実はここに上陸された、という伝承も、鳥取白兎神社の由緒書きに記されています。。若狭の豊玉姫と関連する若狭井の水は春の到来を告げる東大寺二月堂のお水取りで松明と同様に主役となっています。卯は方角では東、季節では春を示します。東の音読みはトウで漢字では兎・卯となるのも偶然ではないでしょう。(そこまで行くと深読みでしょうか。)
 いずれにせよ、賀茂神社と白兎神社との位置の関係性は留意しておいたほうがよいでしょう。


賀茂神社
宮谷賀茂神社 鳥居


 

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2006年05月22日

土師百井の白兎神社

 平成18年8月18日一部改定
 土師百井 慈住寺境内のもと白兎神社
 境内で草刈りをしている人に尋ねるとこの社は「もと白兎神社」だそうです。
 このたび土師百井在住の郷土史家で長年にわたり教職の仕事の傍ら、地元遺跡の発掘にも関わってこられた三木薫氏にお話を伺いました。白兎神社のもとの社地は私都川に沿う内畑という地に約80年前ごろまであったようです。その場所には現在も大きな木が立っています。神社合祀を契機に廃社扱いされ消滅の運命にあったものを慈住寺境内に移してかろうじて守られたのだと推測します。もっと以前には塔の礎石の残る場所の東隣の地名が宮田となっており、この地にあったのではないでしょうか。
 町誌の神社一覧を見ても白兎神社とは記されず土師百井神社として紹介されています。写真の石燈篭にはっきりと名前が刻まれているのにどうしてでしょう。祭神は向かって右側の灯篭に刻まれる荒神=素盞鳴尊となっています。当然ある時代までは大兎明神を祀っていたに違いありません。つまり、明治以降の神社合祀より前に、表向きには大兎明神が祀られなくなったようです。燈篭に天保十二年と記されていることから、少なくともその時期までは正式な白兎神社であったはずです。
 では、なぜ? 
 

もと白兎神社土師百井



もと白兎神社燈籠
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2006年05月11日

八上 福本の白兎神社現社殿

 私都川の流れの大きく変わる地点に位置する白兎神社本社です。かつては立派な社殿がここにありました。現在は、表向きは廃社となっているためか、どの地図にも掲載されていませんし、地元の観光名所としても、一切取り上げられていません。
 近い将来に元通りに祀られるようになることを願います。このサイトもそういう思いで公開しています。
 神社名は白兎(はくと)神社で、祭神名は大兎(おおと)明神、素兎の神とも呼ばれます。保食の神も祀られています。白が告白の白だとすれば白す兎(まおすうさぎ)、白が「しろ」ならばしろ(治)しめす兎、の可能性も出てきます。実際、天照大神を道案内した、あるいは大己貴命と対話できたことから、そのことは言えるかもしれません。また、稲葉の国を治める神であることから、しろ(治)しめす神と解釈できるかもしれません。石破教授も指摘していますが、兎のカラーについては、古事記には一切記されておらず、問題にもされていないことから、「しろ」という意味を「白」以外に求めるほうが妥当でしょう。
「ト」は兎を意味するだけでしょうか。筆者は別の意味を内包している可能性もあるのでは、と思っています。ハクト=八九十とも置き換えられるのが日本語の柔軟なところです。数字の十は神を示すといわれています。八に関連する天照大神、九と関連する豊受大神などと、勝手な想像はしないほうがいいかもしれません。
 

白兎現社殿
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2006年05月01日

福本 白兎神社


波ウサギ



















福本 白兎神社

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