2007年05月11日

伝 天照大神御製和歌

 あしひきのやまへはゆかじ
   しらかしの
    すえもたははに
     ゆきのふれしば



 『須賀の山雑記』に所収されている森岡明彦氏の『舂米神社 その伝説記』には、この歌は 
 「天照大神が大群を率いてこの地に至った時、朝陽に輝く樹氷を見て、よんだといわれる。」
 と記されています。(P173)
 八上の三ヶ寺に伝わる縁起の、白兎の導きによる天照大神の霊石山への行宮と、日枝の山をお通りになって感激されたという伝承、をさらに補完するものです。
 天照大神のお詠みになった歌が伝わっているのもたいへん貴重で、おそらく唯一のものではないでしょうか。2000年以上の時空を超えて伝わる天照大神御製の和歌、ネット史上初公開です。八上の地には神代からの多くの大切な遺産がひっそりと守られてきました。
 やはり書かれざる伝承を軽く見てはならないと思われます。全国津々浦々の伝承や神社祭神を調べていくと様々なことが判明するものと思われます。
この御製和歌の記念碑を建てて、観光の目玉としてはいかがでしょうか。
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2007年03月28日

伊勢信仰

智頭町西野の集落口にある伊勢神宮のための燈篭です。この地においても伊勢信仰が厚かったことを・語っています。

伊勢の燈篭臓西野
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2007年03月18日

「伊勢道」談話会

 本日の郡家図書館主催の「伊勢道」談話会に参加してきました。談話室に入りきれないほどで急遽、部屋の外に補助席が設けられるほどの盛況振りでした。しかも3月13日に日本海新聞に「今も残る道標 無言の案内人 若桜往来と伊勢道の拓本・写真展」と題して講師の加藤要治氏の紹介文が掲載されたということもあり、鳥取市や若桜町の方もいらっしゃっていたようです。また、江戸時代に3箇所の伊勢道の道標を作られた八東町皆原の半平さんの御子孫の方もおこしでした。
 加藤氏は、鳥取県内の道標をすべて細部にわたるまで調査され、なんと一冊の分厚い本としてその研究成果をまとめておられました。郷土にはこのような地道な研究をされている方が、本当に大勢いらっしゃいます。 
 加藤氏は目視確認ではなく、ちゃんと拓本を取って正確に何が刻まれているのかをつぶさに検証されています。研究とはかくあるべし、といった感じです。「鳥取は読書家が多いようだ」という趣旨のことを、スーパースター沢田研二氏が二十数年前の自著で指摘していましたが、確かにそのとおりだと思います。菅原氏と大江氏という、極めて優秀な文人の家系を生み出した土師氏の系統の色濃い土地柄だからでしょう、というのは持ち上げすぎかもしれませんが。
 講演であらためて確認されたこととして、伊勢道の道標および関連の刻印された石は、若桜町に5箇所(新町・渕見・舂米(つくよね)に2つ・氷ノ越え峠)、八東町に3箇所(安井宿・北山・島)、郡家町に1箇所(三本松)、現鳥取市に4箇所(鳥取市野坂・正蓮寺に2つ・中大路)あること、そして鳥取県内にはそれ以外は伊勢の道標はない、ということでした。
 このことからも、特に因幡において伊勢信仰が強かったことがわかります。先の加藤氏寄稿の日本海新聞記事にも、「薩摩の島津家久が天正年中、伊勢参宮の帰路に但馬から氷ノ山越えをした」ことが紹介されているとおり、遠国の人もわざわざ遠回りをしてでも天照大神のお通りになった街道をめざしたことが、記録に残っているのです。つまり日枝の山=氷ノ山=赤倉山の天照大神伝承は全国的に広く知られていたのです。
 伊勢信仰が因幡において特に盛んになった理由として、霊石山の白兎と天照大神の伝承、氷ノ山の名称由来が広く人々に知られていたことと、やはり、因幡の人々の遠祖が天照大神の御子神=天穂日命であり、自分たちの御親神としてたいへん身近な神であると思われたことによるものでしょう。
 
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2007年02月14日

伊勢道と三本松

 霊石山一帯を「伊勢」と呼んでいたらしい、というMAYSTORMさんの情報を1年前にネット検索で見つけて以降、筆者もこれが何に基づくものかを懸命に追ってきました。調べていくと、この情報が誤りでないことがよくわかってきました。
 やはり八上では、伊勢とのつながり、とりわけ京都府福知山市大江町の元伊勢内宮とのつながりが強いようです。地理的には非常に離れています。しかし、以前にも指摘したとおり、八上は京都府福知山市大江町の元伊勢の真西に位置しています。(筆者がこのようなことに全く気づかないうちから元伊勢に心惹かれていった理由がなんとなくわかったような気がします。やはり先祖のDNAを引き継いでいるのでしょう。)
 八上郡と法美郡の境にある峠、三本松にはかつてその名のとおり三本の松があり、そこには参宮記念の地蔵があります。弘化3年(1846年)と刻まれていることから、ほんの150年前まで伊勢参りが盛んだったことがうかがえます。この「参宮」とは、大江町の元伊勢への参宮を示すものでした。(ときに元伊勢を参拝した後、三重の伊勢に詣でる人もいたようです。)
鳥取市の若桜街道がその名のとおり、町の中心部から八上の若桜へ通じる街道であり、三本松はその途中の郡境で、八上に入ってからはその道は八東往来、若桜往来、「伊勢道」とも呼ばれていたそうです。特に若桜の中心部から氷ノ山越えまでの道が「伊勢道」と呼ばれていたようです。ゆえに、旧八東町(3箇所)や若桜町内(3箇所)の旧街道の分岐点に、伊勢道を示す道標が設置されていたのです。智頭・用瀬方面からの伊勢参宮者もおそらく綾木峠を越えて八東からこの往来へ合流したようです。以前紹介した西野神社のある智頭町山形地区にも伊勢参宮の燈篭があり、どうやら智頭方面の人たちも、氷ノ山越えで元伊勢を目指していたようです。智頭方面から三重の伊勢に行くならば当然、参勤交代にも使われていた岡山へ南下する因幡街道を使うはずであり、わざわざ氷ノ山越えで向かったのは元伊勢を目指したのにほかなりません。まさに「元伊勢道」です。
 城光寺縁起に基づけば、三本松近辺が天照大神と八上の白兎が出会ったところのようであり、天照大神が行宮の地として最初に設営しようとされたのは、門尾の山頂辺り、つまり、現在風力発電の風車が設置されている辺りではないかと思われます。(筆者の勝手な想像です。)そこよりも、もっと国を見渡せる行宮にふさわしい所があることを、八上の土地の神、白兎は天照大神に知らせようと、大神の御装束の裾を口に銜(くわ)えて、そこからさらに南西の伊勢ヶ平へと、福本、池田、土師百井、米岡を経由して、導いたのでしょう。私都(きさいち)=私部(きさいべ)の地名由来もそのころが起源かもしれません。
 そしてしばらく伊勢ヶ平に行宮された後、お帰りの道としてお通りになった船岡・八東・若桜・氷ノ山越えの道がそのままそっくり、後の伊勢参りのための伊勢道と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
 天照大神が八上においでになり、その時お通りになり、お帰りになった道をたどって元伊勢まで詣でることは伊勢参りの盛んだった頃、因幡の人にとって、この上ない楽しみだったのだろうと思われます。
先日ここを訪れたとき、地元の門尾の方が、この伊勢道について研究されていることを知りました。将来的にこのルートを「元伊勢街道」として整備されると良いでしょう。
 話が少しそれますが、実は福知山市大江町の元伊勢には地元の郷土史家の研究によれば、実在された天照大神の遺跡があるようです。稲葉の人々もここが数ある元伊勢の中でも、本当に由緒のあるところだということを、感じ取っていたに違いありません。
 ところでこの伊勢道、という名称は、法美郡(鳥取市)や兵庫の但馬方面にはあったのでしょうか。

三本松
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2007年01月05日

霊石山の「清水戸」

 1月24日増補
 筆者が小学生のとき一度この辺りを伊勢が平への登山コースとして、通ったことがあります。そのとき山の中腹に、米のとぎ汁のような湧き水が出ている井戸があるのをうっすらと記憶にとどめていました。なんとも不思議なことだと思いました。
 元の最勝寺のあったところで、今はお寺はもう少し麓の所に移転していますが、歴代住職の墓所と、その傍らのこの霊泉はそのままこの地に残っています。非常に神寂びた雰囲気の漂うなんともいえない趣のあるところで、時代を数百年タイムスリップしたような感覚になります。
 思っていたのよりも大きく、以前紹介したあの丹後元伊勢外宮の「清水戸」(せいすいど)よりも規模も大きく白濁したその色合いも濃いようです。このような湧き水が出る所はその他にもあるのでしょうか。こちらは天照大神と関連する地で、丹後は豊受大神に関連する地です。実に霊妙です。
 ところで、因幡船岡駅近くにある温泉は、「船岡美人温泉」とネーミングにもう一工夫ほしい感じがしますが、泉質はたいへん良いそうです。グーグルで検索するとその評判の高さがわかります。筆者は行ったことがないのですが、なんでもここの温泉も少し白濁しているということで、霊石山のこの聖泉と何らかの関連があったりするのかもしれません。霊石山とは少し距離はありますが、地下水脈は目に見えないものですから、あながち関連を否定できないのではないでしょうか。「八上の霊泉 白兎の湯」「白兎の霊泉 八上姫の湯」などと命名されれば、筆者はぜひとも行きたくなります。

霊石山の霊泉
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2007年01月04日

伊勢が平

 平成19年 新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。
 ブログをはじめて早くも8ヶ月がたち、記事も相当の量になりました。当初は記事がそれほど書けないと思い、短期間で締めくくりになるものと思っていたのですが、予想に反して年を越すことになりました。いつまで続くのかは筆者にも全くわかっておりませんが、記事が続くまでなにとぞお付き合いを宜しくお願いいたします。

 霊石山の伊勢が平へ登拝しました。筆者にとっては高校2年の遠足以来のことでした。山頂まで車で上って、そこから比較的近い所ですが、筆者は山頂方面から向かった経験はなく、さらにはもはやどの学校の遠足のコースとしてもハイカーの行楽コースにも設定されていないようで、伊勢ヶ平への道しるべはありません。確かにある意味では禁足地に値する神聖な場所です。車で山頂へ到着したとき、たまたま麓から徒歩で歩いて登ってこられた地元の84歳になる元気なご老人の方とお話して、伊勢が平への道と、ここより所要時間10分程度ということを確認して、出発しました。現在の所、案内看板はないので、事実上伊勢が平へは行けないようになっています。筆者は、小中高時代に郡家町方面からずっと徒歩で登った経験と、地図で山頂と伊勢が平との位置関係や方角を頭に入れていたため、感を生かして標識なき道、そして途中からは道なき道を進むことができました。確かに10分程度歩き続けて、懐かしの伊勢が平へと到着しました。見れば周りは木々に囲まれた中に草原が広がっています。昔と変わりはありません。ここに往古天照大神が行宮されたことを思うと、以前来た時とは全く異なる感慨がこみ上げてきました。2つの皇居岩=夫婦岩の所在はわかりませんでしたが、生い茂る枯れ草の中のどこかに埋もれているのでしょう。また、この地にかつて天照大神を祀る社もあったのです。現在、その社は麓の米岡に伊勢神社=米岡神社として、村ぐるみで大切に祭祀が継承されていることは以前紹介したとおりです。一度、伊勢ヶ平は専門家によって綿密に現地調査がなされる必要があると思います。そして、全国的に見てもきわめて希少な天照大神に関わる神蹟ですから、大切に保存、顕彰されるべき所です。八上の白兎は、門尾の三本松付近より、この伊勢が平まで天照大神を案内し、ここで姿を隠してしまいました。
 ここだけでもたいへん貴重な遺産ですが、八上にはほかにも様々な貴重な伝承や遺跡が残されています。
つい最近までその意義が理解されずに埋没させられてきた、というマイナス面もあるかもしれませんが、いやむしろ、乱開発されずに貴重な遺産が残されてきた、と積極的に評価したいものです。
 天照大神は皇室の祖神であり、同時に日本人の御親神でもあります。そして2千年以上にわたって尊ばれてきた神です。天照大神の風儀は、文献としてはおそらく聖徳太子の時代の焚書、および藤原不比等の時代の歴史書編纂によってほとんど消されたように思えますが、その後も日本人の生活様式、精神文化の中に生かされ続け、昨今の堕落してきたと評される現代の私たちの精神の根底にもかろうじて生き続けているように思います。すなわち、海外における聖書やコーラン等々のような教えの書がなくとも、すっかり神の教えが日本人の生活習慣の中に浸透していた、ということです。古くは「隋書倭国伝」「魏志倭人伝」に記されるごとく、中世以降のキリスト教宣教師ザビエルやエンゲルベルト・ケンペル、近代の小泉八雲、モース、シュリーマン(トロヤ遺跡発掘の考古学者)、イザベラ・バード、ヘンリー・ヒュースケンをはじめとする西欧の人たちが、日本人と接して、実に道徳的にすばらしい民族である、と驚嘆し、安倍総理の提唱する「美しい日本」にふれて感激していたのです。詳細は波田野毅氏著「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰」を参照してください。特に小泉八雲は、日本人の宗教は日本人の心の中にある、とその本質を見事に見抜くことができた史上唯一の偉大な人物であることはどんなに強調してもし過ぎることはありません。「美しい日本」に焦点を当てるのであれば、小泉八雲の諸著作に触れるのが、もっともふさわしいでしょう。そこには近代以降忘れられつつある日本人の高度な精神文化がどのようであったかが正しく評価されています。その意味で、山陰は日本の心の大切な所を保持している、とは言いすぎでしょうか。小泉八雲は来日してわずか4年で「知られぬ日本の面影」を著し、杵築 の章で、英語で以下のように筆記しています。…the reality of Shinto lives not in books,nor in rites,nor in commandments,but,in the national heart ,of which it is the highest emotional religious expression,immortal and ever young.

 天照大神の伝承は、意外にもほとんど残っておらずわずかに全国の天の岩戸の比定地と、この八上の霊石山と赤倉山(氷ノ山)、島根の隠岐、岐阜の恵那山のみであり、稀有なものであることは以前から述べてきたとおりです。

伊勢が平
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2006年12月01日

稲葉神社

 因幡地名由来の稲葉神社です。由緒書きは簡素なものでしたが、ちゃんと「古苗代」のことについて書かれています。因幡国の人々全員の産土神です。筆者が思うに、宇倍神社と天穂日命神社とこの稲葉神社は因幡三社として同格に扱われるべきでしょう。

稲葉神社
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2006年11月15日

月の輪田 碑文 

 京丹後市の峰山町と大宮町の地区は町村合併の実施される本の数年前まで中郡と呼ばれていました。ここも「中(なか)」です。それ以前には丹波郡と呼ばれ、丹波(丹後)の中心でした。丹後と丹波に分国後も、丹後国に丹波という名が残っていたのです。現に今も丹波の地名が現京丹後市峰山町に残っています。
 京丹後市峰山町二箇にある月の輪田は以前にも紹介しましたが、ほぼここが丹波の地名由来、ではないかと思われます。しかし、昭和の圃場整備によりあっけなくその古来よりの姿は消え去ってしまいました。現在の月の輪田は元の地より移動・縮小されています。その脇に建てられた碑にはその由来が記されています。
「月の輪田は三日月田とも云い、大昔豊受大神が苗代の清水戸に浸した籾をここに蒔き、とれた稲種を天照大神に奉ったという遺跡である 代々の領主は除地としてこれを保護し、二箇村の義右衛門は毎年身を清めて稲を作り、白米一斗三升を初穂として伊勢神宮に奉納し、藁は全部この田に入れて翌年の肥料に当てたという 昭和四十二年農業構造改革事業にともない、耕地整理のため、北接十米の二本松稲荷前に移し、柿の木地蔵も併せて合祀し、これを保存すると共に農業発祥の地の由来を記し、後世に伝えようとするものである      昭和四十二年十月建立 二箇区寄贈」
 以後、この神蹟を元通りにしようという動きはついぞ現われることなく現在に至っていますが、果たしてこれでいいのでしょうか。たとえば、由来のはっきりしない陵墓参考地などは、その可能性がある、というだけで、特別な保存のための措置が講じられています。それと比べて、如何にずさんな扱いを受けていることでしょう。月の輪田のことは、数年前に神宮司庁発行の「みずがき」にも記事が取り上げられたこともあるのですが…。
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2006年10月24日

伊勢が平と御冠岩

 霊石山山頂付近の伊勢ヶ平(いせがなる)へは、筆者も子供のころ、学校の遠足で幾度も行きました。平、といっても実際はなだらかな傾斜地です。かけっこをしたり、球技をしたり、地図を広げて見渡せる実際の地形と照合させたり、弁当やおやつを食べたりしました。しかし、天照大神や白兎の伝承は聞いたことがありませんでした。いや、ちゃんと先生の話を聞いてなかっただけかもしれません。
 八頭郡誌にはこうあります。
「伊勢が平(p148)
 米岡中山(霊石山)の頂上で方数十町の平原である。昔は樹木が密生した森林であったが、今は原野で影ひとつない。大日霊女尊が西征のとき行宮を営まれたところと云い、今もその礎石井戸などの跡がある。また皇居石二つある。夫婦石とも云い、駐輦(ちゅうれん)の跡とする。」
 ここには先に紹介した3つの縁起に記されていないようなことも載っており、伝承が縁起のみを元としているのではなく、その他地元の人たちの口碑等によって残ってきたものと思われます。筆者の記憶では確か、石が平原にあったように記憶します。陣取りの基地にした記憶があります。
 
 同じく八頭郡誌には御子岩のことも載っています。この項に伊勢ヶ平の皇居岩のことも記されています。
「神の御子岩(P185)
 片山の東北霊石山の中腹、最勝寺の北西五町にある。大日霊女尊ここに降臨し冠をこの石に残すという。高さタテ横とも一丈六尺余である。その際猿田彦命が先導したから猿田彦命を祭るという。藻塩草名寄に「いなばなる神の御子岩しるしあらば過行く秋の道しるべせよ」とある。
また寺東七丁の伊勢ヶ平に石二つある。一つは高さニ尺五寸周り七尺六寸ばかり、一つは高さ三尺周り一丈一尺五寸ばかりである。これを皇居岩といい、土俗夫婦岩という。大日霊女尊が皇居の跡である。この眺望極めてよろし。神の御子岩の歌に、「山風を谷間のすすに音たてて雲の神ぬる神のみこいし」」
 この文章の内容は、ちょうど最勝寺縁起と、城光寺縁起・慈住寺記録を上手に合成したもののようで執筆者の工夫の跡がうかがえます。以前紹介した御子岩前の看板の文面(7月11日の記事)とも異なります。あらためて現地看板の文面を確認すると、実に上手に書かれていることに気づきました。どういうことかというと、冠を置かれた主が天照大神なのか猿田彦命か判断がつかないように書かれているのです。
 御子岩(御冠岩)は、かなり遠くの平地からも確認できます。写真の山腹の中の白い点が看板でその右隣が御冠岩です。道の駅「清流茶屋かわはら」からも何とか確認できます。

御冠岩 遠景
 

 
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2006年10月20日

稲葉地名発祥の「古苗代」

10月26日改定
『岩美郡誌』P267 明治45年楢柴竹造著
「古苗代、稲葉村大字卯垣村尺山ノ西南狭間ト言ウ所ニ五畝歩許ノ田地アリ。半月形ヲナセリ。之レヲ古苗代ト言ウ、口碑ニ曰ク。太古、稲葉大明神当国ニ来リ給ヒシヨリ、古苗代ノ名アリ。乃チ、当国ニ稲ヲ植ヘシ元祖ナルヲ以テ、イナバ(稲葉)ノ国ノ名起コリシ所以ナリト。」
 地元郷土史家の小谷卓夫氏のお話によりますと、古苗代とは「太古の苗代田」の呼び名であり地名ではないそうです。「大苗代」もあったのですがどこにあったのかはもはや不明だそうです。それは、立川村の氏神、稲葉神社と密接な関係がありますが、これらはすべて口伝承によるものだそうです。神社創立は、11代垂仁天皇〜13代成務天皇の時代と云われているそうです。もしそのとおりならば、稲葉神社は伊勢神宮内宮創建とほぼ時を同じくする古社ということになります。本来ならば、一宮クラスの扱いを受けるべき因幡を代表する大切な社です。そして、惜しくも稲葉の地名発祥「古苗代」は、山陰線の敷設、戦後の宅地造成等によりその姿を消してしまいました。五畝はおよそ5アールに相当するのでかなり大きい遺跡だったようです。どなたか、在りし日の古苗代の写真をお持ちではないでしょうか。
 場所はほぼ特定できそうですので、将来復元されて、古苗代で収穫された稲穂を伊勢両宮に奉納されるようになれば良いと思います。(ただし、このような神道・神社に関わり、なお広域での協力が求められるような場合は、有志が数名で陣頭指揮を執って、県神社庁の応援なども受けながら各地区の氏子さんの力で推進していくのが現実的ではないでしょうか。あるいは行政の側が、大切な文化財をなくした、として土地を買い取って元通りに復元し、その後の運営は地元の氏子さんに委任するというのがもっとも理想でしょう。)
 そういえば、今年の新嘗祭に奉納される稲穂は八頭町からのものもあるようです。
 この場所は但馬方面からだと蒲生峠を越えて砂丘の南側に鳥取市街地方面へと辿れる道があり、山道を抜けると爵山(尺山)山麓そして広大な鳥取平野の入り口です。その位置から判断して、稲葉大明神は但馬方面の陸路から当国へいらっしゃったのだと思います。そして、但馬の東となりの丹後の元伊勢外宮=比沼麻奈為神社の地にも、半月形の「月の輪田」があることは、以前にも紹介したとおりです。この「月の輪田」あたりが丹波の稲作発祥の地と考えられ、そこから田庭・田場・丹波へと漢字・呼び名が変遷したのであり、こちらも国名の由来といえるので意義深いものがあります。古苗代に関しては、『鳥取県の歴史散歩』で初めて知りましたが、この両者の関連については、未だに論及されていないようです。
 少なくとも因幡に関していえば、稲作の起源はここに求めることが妥当であり、丹波(現在の丹後:和銅6年=713年に勢力分割のためと思われる分国がなされ、丹波と丹後になりました。)から伝わったものといえるのではないでしょうか。
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2006年08月28日

祇園祭の天照大神ご神像

 筆者の知人からの情報によれば、京都祇園(ぎおん)祭の岩戸山に祭られている三神は、イザナギノミコト、手力男命(たぢからおのみこと)、そして天照大神です。そして、岩戸山にはそのご神像か飾られているのですが、なんと天照大神は鏡と芍(シャク)を携えた男神のお姿なのです。江戸時代に活躍した円空(えんくう)も天照大神の像を作っていますが、これも男神であるのはあまりにも有名な話です。
 天照大神は男神としても女神としても現れているようです。神様ですから、さまざまに化身されるのかもしれません。或いは襲名により、複数の天照大神がいらっしゃったのかもしれません。
 京都府福知山市大江町の元伊勢内宮に奉納されている絵には天照大神は女神として描かれています。
一方、平安時代の大江匡房(おおえまさふさ)は兵家でもありますが、彼は伊勢神宮奉納用の装束一式から天照大神は男神である、としています。
 霊石山の伝承においては、男神の天照大神だったのではないか、とも思われるのですが。御冠=烏帽子は天照大神のものだったのではないでしょうか。
あと気になる点として、伊勢神宮への参拝を歴代の天皇がほとんどなされていなかったことがあります。崇神天皇のときにそれまで宮中に祀っていた皇祖神を宮廷外で祀るようになりやがて今から約2000年前とされる垂仁天皇の御世に倭姫(やまとひめ)によって伊勢神宮創始、となるわけですが、これ以後明治天皇より前には女帝持統天皇を除いて伊勢へ向われた天皇はいらっしゃらないのです。熊野詣を生涯に34回繰り返された後白河上皇のことを考え合わせると、伊勢行幸がなかったのは何らかの理由があったのでしょうか。後醍醐天皇の御代まで続いた斎王制度がそれに代わるものでしたが、室町以降はそれも廃絶し、応仁の乱にいたっては20年毎の遷宮も100年にわたって中断しています。(ちなみに旧船岡町の上野に野々宮神社があるのは、当地で病没された後醍醐天皇の内親王が斎王として役を果たすための潔斎の場として使われていたのであろうと想像します。)江戸時代に至っても天皇が伊勢神宮へ行幸されないのは幕府の圧力があったのでしょうか。なんらかの深い緊張関係が背景にあったのかもしれませんが、これに関しても即断は禁物です。
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2006年08月26日

赤倉山=氷ノ山

 舂米(つくよね)神社前からの赤倉山。この山が因幡の人たちが長年「氷ノ山(ひょうのせん)」と呼んできた山で、天照大神がその美しさに日枝(ひえ)の山、と命名された山です。現在の氷ノ山はこの山の南側=右手(須賀の山、写真には写っていません。)の山です。一番稜線の低くなっているところが峠です。
 歴史的経緯からしても、こちらが本当の「氷ノ山」なのです。
 

赤倉山
 















 舂米(つくよね)神社
 境内のご神木から、社の古さがうかがえます。かなり格式ある神社です。

舂米神社
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2006年08月23日

複数の神話の舞台

 謎が謎を呼ぶ。同じ内容の神話の舞台として、複数の場所が比定されることはあります。
 古事記の稲羽の素兔の伝承地も、白兎海岸か長尾鼻(ながおばな)か候補地があります。また石破教授の『イナバノシロウサギの総合研究』牧野出版によれば、本居宣長は、後で撤回しますが伯耆国中山町の白兎伝承が古事記のそれではないか、と考えたりもしました。
 「天の岩戸」などは、全国にいくらでもあります。実は、蒜山(ヒルゼン)にも伝承が伝わり、ここの主な社はすべて天照大神を祀っています。ヒルとはオオヒルメ=大日霊女命が由来であるとも言われています。ある研究家の調査によると、蒜山と京都府福知山市の元伊勢のある大江町では、対応する共通の地名が十箇所くらいあるようです。また、伯耆国旧大栄町には「高千穂」という地名も残っています。伯耆国には式内社がたったの6社しかないのに比して、天照大神を祀る社が比較的多いというのも不思議です。式内社か式外社かで社の重要性を判断することが如何に危ういものであるかがわかります。式内社の選定の政治的背景、これに関しても諸説紛々、即断はしないほうがよいでしょう。すぐに解答の出せるようなことではありません。謎が多いので興味はつきません。
 イザナミノミコトを葬ったとする地も、出雲・伯耆・広島にあり、三重県の花の窟(はなのいわや)も有名です。また、おそらく本命ではないかと思われる滋賀県の多賀大社(たがたいしゃ)近くの男鬼山の比婆(ひば)神社もそこへ実際に行ってみると黄泉比良坂(よもつひらさか)にぴったりの場所だと思えるような所もあります。非常に神寂びた場所です。
 確かに、神話の事ですから、いくつかその場所があってもよいのかもしれません。あるいは、時の有力者によって、自分の勢力圏にそのような神話の舞台をそろえて、あたかもそこが本命の地であるかのように装ったのかもしれません。あるいは大切なところなので、あえて本当の地を隠すために複数作られた、とも考えられなくもありません。まさに、真相は神のみぞ知る、ということになるのでしょう。
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2006年08月21日

霊石山麓集落と伊勢祭神

 霊石山東麓、私都(きさいち)川沿いの白兎神社氏子集落は、すべて、伊勢祭神とつながりがあるように思えます。あらためて、整理してみます。
◎稲荷(いなり) 白兎神社氏子集落ではありませんが、土師郷の集落で関連があります。ここには『苗代』(なわしろ)という地名(字名)があり、近くにその関連と思われる祠(ほこら)があったようです。因幡大明神との関連濃厚で、すなわち外宮祭神と関係がありそうです。氏神の土師神社の祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、天照大神の御子神です。

◎上門尾(かみかどお) かつて大日如来を本尊とする大日堂があったそうです。仏教では大日如来は、天照大神の本地とされています。八上の白兎と天照大神が出会ったところではないか、と推定します。
◎下門尾(しもかどお) 天照大神を祭神とする隠岐(おき)の焼火権現(たくひごんげん)祭祀が続けられています。
◎福本(ふくもと) かつてあった白兎神社本殿には菊御紋の彫刻が施されています。
◎池田(いけだ) 地名(字名)に天寺(アマテラ)があり、天寺橋が私都川にかかっており、ずばり天照大神との関連をうかがわせます。
◎土師百井(はじももい) もと白兎神社の鳥居は神明鳥居です。「もと」とはひょっとすると、ここが一番元の白兎神社だということを示すものでしょうか。
 
 そして、白兎神社の氏子集落ではありませんが、
◎米岡(よねおか) 元は霊石山(れいせきざん)山頂、伊勢が平(いせがなる)にあった伊勢神社を集落内に遷宮し米岡神社として奉祭しています。白兎ライン(夏至・冬至の日の出日の入りの方角の線)上に位置しています。
 おそらく天照大神の御現身(おうつしみ)の伝承に基づく神社は天の岩戸を除けば、全国的にみても唯一ここだけだと思われます。

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2006年07月20日

氷ノ山 須賀の山と赤倉山

 須賀の山は、スサノオノミコトの降臨伝承があり、かつて須賀神宮が山頂にあり、計58もの宮がこの山にあったとされる信仰の山です。山頂の宮はかつて因幡・但馬・播磨・美作の総社でしたが、現在、兵庫県に数箇所と若桜町舂米(つくよね)神社として残っています。四ヶ国もの総社であったこと、かつては皇室が管理されていたらしいことなどから、社格が相当高かったことがうかがえます。祭神は天御中主神・高御皇産霊神・神皇産霊神の造化三神です。この社の存在と天照大神がおこしになったこととは大いに関連があるように思えます。ここに、造化三神を祀る社があったからおこしになった、あるいは、ここに造化三神を祀るためにおいでになったのではないかと推測します。四カ国の総社でしかも皇室管理下であったことが、ここまで大胆な推論をした根拠です。それにしてもこのような複数の国の総社であった社などほかにあるのでしょうか。ご存知の方はお知らせください。これもまことに稀有なものと直感します。一方石破教授も指摘しておられますが、かつて皇室や藩の直轄・管理していた神社は、その後氏子の不在のために、管理がされなくなり、荒廃していったものも多いようです。
 因幡方面からの(元)伊勢参りの道として主要幹線だった氷ノ山の道は今は登山客のみのさびしい通りですが、天照大神がお通りになり、赤倉山を旭日に輝く日枝の山と名づけられた場所です。また須賀の山はスサノオノミコトが降臨された、という由緒も伝わる地なのです。
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2006年07月11日

天照大神行臨伝承

 全国どこにでもありそうな名所案内ですが、そこには驚愕の内容が記されています。名勝・遺跡の案内に「天照大神行臨」などと記した場所は他にありません。『古事記』の「稲羽の素兎」とは、八上の素兎と天照大神の大切な伝承をかき消すために創作されたものではないか、とも勘ぐりたくなるくらいです。石破教授の指摘のとおり、古事記の作者は因幡に来たことがない可能性大、と見るべきでしょう。
 案内には最勝寺縁起にのっとって御子岩を猿田彦命のイワクラとしていますが、これは今後周辺の伝承や神社祭神等をさらに調査して検討したいと思います。
 繰り返しますが、天照大神の御行幸の伝承の残る地はここ八上の霊石山と氷ノ山、そして隠岐くらいのものです。
 隠岐の地名由来には天照大神が40余丈もある大きな木をご覧になり感動されて命名された、という説があります。筆者は隠岐のことを写真でしか知りませんが、どことなくアイルランド=ケルトを髣髴とさせるところのような気がします。
 ギリシア人の母とアイルランド人の父を持つ異国の人でありながら、日本人以上に日本文化の神髄をすばやく的確に見抜いた小泉八雲もいたく気に入られた山陰、島根。中でも隠岐は特にお気に入りのようでした。ケルトと日本、とりわけ山陰とのアナロジーに八雲は気づいていたようですし、八雲の曾孫にあたる小泉凡氏(島根県立女子短期大学助教授)も同様の問題意識を持っていらっしゃるようです。
 八雲も八上の地においでになったら、ここもお気に入りの一つに加わったことでしょう。なんといっても八雲の存命中には福本の白兎神社はちゃんとあったのですから。出雲でも現在八雲が愛した城山稲荷の復元を目指して会の方が活動されているようです。
 八雲には竜宮・浦島伝承の丹後にも行ってもらいたかったと思います。
 小泉八雲といえば『怪談』ばかりが有名でこれもたいへん意義深いのですが、道徳観念の弱った今日の状況において『日本 一つの試論』冒頭の「珍しさと魅力」は中学・高校の国語教科書にぜひ載せてほしい内容だと思います。現在入手困難のようです。この章だけでもリーフレットにして普及版にされると良いと思いますが。あわせてモースの『日本その日その日』やザビエルの所感も紹介してほしいものです。フランシスコ・ザビエルは戦国時代に来日した有名な宣教師ですが、彼は世界各地を回って、日本人ほどすばらしく道徳的な民族はいない、と感激しています。ザビエルは内心、日本人にはキリスト教を布教する必要がない、と思ったのではないでしょうか。
 また、日本人のルーツは何か、といったことも非常に関心がもたれていますが、元の出自がどこであろうと、日本に定住し、日本の風土や慣習になれ、日本語を使いこなし、特定の他国への帰属意識のない人は、日本人といえるでしょう。その点で、日本語が決定的な因子であるとする角田忠信氏の『日本人の脳』はあれこれ意見もあるようですが、画期的な見解だと思います。 
 話戻って。御冠石の近くに駐車場があればゆっくり見ることができたでしょうに。草ぼうぼうで案内板を見落とし、案内板から現地までの30メートルほどの歩き道も見当をつけながらでした。

御子岩 案内
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2006年07月09日

赤倉神社と日月宮

 鳥取市(旧河原町)北村の北村神社=日月宮の創立は1500年代で比較的新しい社と、由緒書きには記されています。祭神は前述したように、極めて珍しい日月大明神です。この神が土地の元の神であり、現在の社創建年以前より祀られていたのではないでしょうか。なぜならば北村の菩提寺である観音寺は1000年近くの歴史があり、明治以前は日月山の号を冠していたからです。そして日の神と月の神の象徴として天照大神、月夜見命を祭るようになったのが「創建」と呼ばれているのではないでしょうか。その後明治以降に稲生の神=保食の神と三滝にあった社の瀬織津姫を合祀したようです。
 またこの北村には伊勢谷(いせだん)と呼ばれる地名があり、高山神社の鳥居も簡素な神明鳥居であるなど、これらも八上と伊勢神宮との関連を示すものではないかと思われます。北村は地元の人によって開設されているHPでよくわかりますが、本当に神仏を大切にしています。先日、米岡神社の集落の方ともお話しましたが、ここも神社への崇敬が厚いことを知り、深く感銘しました。
 1700年代に再興された赤倉神社も天照大神、月夜見命、保食神を祀っていますが、元の祭神は不詳だそうです。日月宮と共通しているように思えるのですが。
 ところで氷ノ山頂上の看板によれば、なんと若桜の赤倉山は実は因幡の側からは、氷ノ山すなわち日枝の山、と呼ばれていたようです。そして、氷ノ山を須賀の山と呼び、そこには素佐ノ男命の伝承があったようです。なんと驚くべきことに、かつてこの須賀の山の神社は因幡・但馬・播磨・美作の総社で皇室が管理していた、とあるそうです。但馬のほうからは須賀の山を氷ノ山と呼び、この呼び名が定着したようですが、正しくは因幡側の主張のとおり、須賀の山と氷ノ山(日枝の山 赤倉山)とすべきでしょう。つまり天照大神が日枝の美しい山、と感激されたのは実は赤倉山だったということです。これで赤倉神社の社名の由来がはっきりしてきました。
 そして、瀬織津姫が八上のあちらこちらと用瀬町、智頭町で祭られているのには驚きです。虫井神社は瀬織津姫を主祭神とする珍しい神社ですが、ほぼ赤倉神社の真南に位置しています。かつて大江氏がかかわりを持つ神社であり、大江氏は、天照大神と瀬織津姫を祀る神社を意識的に関連する位置関係の神社に配して祭祀をしていたのではないでしょうか。
 石破教授も指摘しておられましたが、八上は古くは智頭郡をも含む地域、つまりほんの数年前までの八頭郡全域(郡家・船岡・八東・若桜・河原・用瀬・佐治・智頭)が八上郡だったのではないかと思います。
 写真は 北村神社=日月宮です。

日月宮
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御子岩=御冠岩

 霊石山山腹の御子岩=御冠岩(みこいわ)は想像していたより以上の大きさと迫力でした。神々しさを感じさせるイワクラは、八上の地をじっと見守っているようです。なるほど、これが山の名称由来だ、とはっきりわかります。由来は大日霊命を案内した猿田彦命、となっていますが、筆者は霊石山という名前から、本当は大日霊命=天照大神の神霊を祀るイワクラではないのかなとも思えます。天照大神が稲葉八上においでになったという重大な歴史的事件を記念するモニュメントとするほうがぴったりくるように思えるのですが。猿田彦命のほうが大きくクローズアップされていることに少し不自然さを感じてしまいます。
 すぐ近くの源範頼の墓所と伝えられる所はもちろんこの由緒ある御子岩を意識したものでしょう。
 ところでふもとの案内図には八上姫がハンググライダーで飛んでいる姿が描かれたりしていますが、これは史実とは違うものでしょう。でもなかなかユニークで、思わず笑ってしまいます。その脇に御子石の由来が書かれています。
 「たて・よこ4.8メートル余り、伝説によると天照大神がこの山に降りられたとき、道案内の神として猿田彦命に先導され、この石に「かんむり」を置かれたといい、この命の霊をまつっています。そして古来より道往く人々の道しるべとなっていました。また頂上にある二つの石を皇居石、夫婦石といい、むかし天照大神が、この山に降りられたゆえに伊勢が平といいます。」
 霊石山東麓に伝わる伝承に基づくならば、門尾の三本松辺りで大兎=白兎神が現われて、福本、池田を通り、土師百井のアマテラ橋を渡って、霊石山の亀石で国見をされ、伊勢が平とこの御子岩まで白兎神が案内したのでしょう。同時に随伴の猿田彦命は霊石山の真南の三角山頂上に拠点を置き、行宮の安全を確保していたのではないでしょうか。そしてどれくらいの期間かは不明ですが、伊勢が平にしばらく行宮を営まれました。そのとき私都と米岡とその周辺の方も行宮に協力されたのだと思います。それから船岡・八東を経由して須賀の山と氷ノ山(赤倉山)へ向かわれたのでしょう。そこで祭祀を執り行なわれたのかもしれません。
 
御子岩









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2006年07月06日

神明鳥居 伊勢との関連

 土師百井の慈住寺境内地にある土師百井神社=もと白兎神社の鳥居は、神明鳥居です。これも伊勢神宮との関連を示すものといえるのではないでしょうか。全国至る所に神明社、即ち伊勢神宮祭神を祀る社はありますが、神明鳥居であればその社が伊勢神宮系であることが一目瞭然なのです。勿論、神明鳥居でなく明神鳥居であっても伊勢の祭神を祀っていることはありますが、逆は極めてまれです。天皇陵にも神明鳥居は使われています。(但し、国のために亡くなった人のための鎮魂の社にも神明鳥居が使われている場合もあります。)
 古くから伝わる様式が今日にまで継承されてきたものと思われます。八上・因幡の他の社で神明鳥居を見たことはあまりありませんが、ご存知の方はお知らせください。旧河原町の北村地区にも一つ神明鳥居の社があるようです。
 ところで慈住寺ともと白兎神社が移転後も同一の境内にあるというのはかつての位置関係を物語っているのでしょう。

神明鳥居 白兎
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2006年06月05日

天照大御神行宮ゆかりの米岡神社

 私都川に沿う米岡神社は、元は伊勢が平に鎮座していた天照大神を祀る伊勢宮を天文年中(1532〜1554)に移設したものです。今から約500年前ですが現社地が白兎ライン上にあることから、その当時の人たちも古くから伝わる位置の設定方法を知っていたに違いありません。あるいは本社と遥拝所ということで、伊勢が平の本社とセットで、当初より米岡に社があった可能性もあるでしょう。
 こじんまりとした社ですが、天照大神のダイレクトな伝承を伝える神明社は全国ありとあらゆる所を見渡しても、果たしてどれくらいあるのでしょうか。神明社の総数は全国に5000とも10000以上とも言われています。天岩戸に比定されるところは複数あり、それぞれ伝承を持っていますが、どれが本当の場所なのかはなはだあいまいです。(筆者なりにここが本命では、と思うところもありますが。)この天岩戸を除くと、天照大神の伝承を伝える場所は先にも記しましたがほとんどありません。実はそれくらい貴重な遺産がひっそりと残されているところがこの八上なのです。
 ここにあるということは、米岡の先祖の方が天照大神をもてなしたのかもしれません。
 現在は、地元の人たちが祭礼のとき麒麟獅子舞を奉納しているようです。麒麟獅子舞は因幡各地の神社で催されています。
 また、地元の方の話によるとこの社は西方1キロほどの坂根集落の国英(くにふさ)神社の摂社となっているようです。こちらの祭神は行宮された応神天皇に因んで八幡の神を祭っています。
 「坂根」という名前には深い意味があるというふうにとらえている人もいるようで、ネット上で検索すると出てきます。


米岡神社
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