2006年07月17日

 瀬織津姫を祀る社 旧八頭郡

 瀬織津姫は他国と比べると因幡、特に八上の地(旧八頭郡)で多く祭られている神様のようです。あらためてわかっている範囲でまとめてみます。
麻生神社   八頭町私都 麻生
野町神社   八頭町私都 野町
美幣沼神社  八頭町私都 篠波
花原神社   八頭町私都 花原

隼神社    八頭町船岡 隼 (八上)
日月宮    鳥取市河原町北村(八上)

旧八頭郡(八上郡であったと推定しうる地域)
東井神社   鳥取市用瀬町用瀬
白坪神社   智頭町西谷
虫井神社   智頭町大呂
上市場神社  智頭町智頭
 因幡国内 瀬織津姫を祭る神社総数は上記10社以外に3社 計13社
鳥取県内全体で計18社
 つまり 八上に瀬織津姫を祀る神社が集中していることが特徴としてはっきり現われています。
隣の兵庫県が8社、京都府が8社、大阪府が2社、島根が隠岐に1社、島根半島に1社で計2社、岡山が14社、広島が8社、山口が2社であること、全国最多の岩手県30社に次ぐ2番目に多い数であることを考慮するとなお際立っていることがわかりますね。瀬織津媛は祓戸の神です。常に清浄さを保つのに大切な神様です。
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2006年06月28日

八上 船岡の「波にウサギ」

 「イナバノシロウサギの総合研究」の著者石破洋教授はその後も研究を進められ、本年金沢大学「国語国文」誌上で「『イナバノシロウサギ神話』の周辺」と題する論文を出されました。そこにはなんと、旧船岡町の数箇所の波ウサギについて紹介されています。ちょうど筆者も調べていたこととも重なるところがあり、偶然の一致です。
 特に驚いたのは赤倉神社、そこの本殿にも見事な波ウサギの彫刻が施されていることです。他では見られないスタイルの波ウサギです。1719年社を再興した林権少輔神主はやはりまちがいなく八上の歴史、なかんづく伊勢神宮祭神と白兎の関係を見出していたのだと思います。因みに赤倉神社の宮司さんと、宮谷の賀茂神社の宮司さんとは親戚の関係で何か深い縁を感じます。
 そのほかにも船岡町内の民家の土蔵にある波ウサギの鏝絵(こてえ)や西橋寺の数種の波ウサギも紹介されています。波は防火を意味するものであり、兎は神(特に月の神)の使いとして豊穣や多産の象徴であるようです。しかしながら、地元の人は意外にもこんな身近に波ウサギがあることを知らないようです。赤倉神社の氏子さんですらほとんど知らないようでした。もう少し、歴史的遺産について顕彰し、間違っても消滅させることのないような働きかけがあったほうがよいと思います。せめてこの波ウサギは由緒書きに写真入りで紹介してほしいものです。 
 とはいえ船岡の地は密かに高度な文化を保持し続けてきたもう一つの八上の中心といえるでしょう。


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2006年06月21日

白兎神社の北にある福本70号墳跡地

 写真正面の藪の手前の平地に八角形の古墳があり、そこから1994年、日本でほとんど出土例のない、大陸との関係を示すといわれる銅製の匙やつば付きの鉄剣が出てきました。
 この古墳はちょうど白兎神社の北に位置し、また賀茂神社の御旅所=胞衣塚の真西に位置しています。(胞衣塚の真東には偶然にも曹洞宗の天祐寺があります。)やはり、この福本70号墳は白兎・賀茂両社の関連を意識して場所が選定されたように思えます。ただし、この古墳は7世紀中葉のものであり、白兎神社や賀茂神社の創建ないし、祭神の事跡の時代よりはるかに後のものであるだろうと思います。
 


福本70号墳跡地
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2006年06月15日

白兎東西ライン上の燈籠

 平成18年8月17日一部改定
 宮谷の賀茂神社の燈籠は本社地よりかなり離れた場所に古くから設置されています。その位置がなんと賀茂神社の真西、即ち白兎神社との中継点なのです。加茂太神宮と刻まれていることや、御旅所まであったことを考え合わせると昔から崇敬が厚かったようです。 賀茂神社は延喜式神名帳には名が挙がっていませんが、奈良時代以前よりあったのは確かです。福本の白兎神社も延喜式以前よりの古社です。こうしてみると式内社の選定基準というものが一体どういうものだったのかと思いたくなります。延喜式は、927年、藤原忠平によって、作成されました。特定の一族の利害関係が反映されているものと見たほうが妥当であると思います。祭神は当初より変えられた社も多いのですが、ひとつ言える事は、意外にも天照大神を祀る社の多くが式内社からはずされていることです。そういう意味で、神社が式内社であるか否かはほとんど意味を成さない、ただ式内社と呼ばれる社は、はっきりと927年時点に既に存在していたことを示し、そして当時の一部の勢力にとって問題のない祭神である、ということを示しているに過ぎないでしょう。
 筆者の恩師の調査によると、旧郡家町の神社の祭神で最も多く祭られているのは、やはり素盞嗚命だそうです。庶民の間で人気が高かったようです。

郡家駅近くの賀茂神社燈籠
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2006年06月07日

土師百井廃寺塔礎石

 慈住寺は白鳳期に建立された壮大な伽藍を持つ寺院でした。三重塔の跡地に燈籠が立っていますが、さりげなく地元の人によって花が捧げられており大切にされています。
 白兎ラインを考慮すると、この場所に白兎神社があったのではないかと思います。


土師百井廃寺
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2006年05月28日

青龍寺と白兎

  平成19年1月7日一部改定
 門尾の青龍寺に伝わる城光寺縁起は、霊石山南麓の最勝寺縁起・慈住寺縁起(記録)と記述が一致しているところがあります。もっとも青龍寺・最勝寺・慈住寺は相互に関連する寺院です。
 しかし相違する所もあります。最勝寺縁起のみは天照大神=大日霊尊を案内したのは猿田彦命とされています。猿田彦命は道案内をする神としても有名です。ですから因幡の地においても、とも考えられますが、因幡なら地元の神が案内をしたことでしょう。
 慈住寺縁起・城光寺縁起では、案内したのは「白兎」と記されているようです。これは地元に古くから伝わる話を基にしているからこそ、そう記しているのではないかと、石破洋教授も『イナバノシロウサギの総合研究』で指摘しておられますが、筆者も全く同意見です。
 それに加えて、筆者の直観ですが、最勝寺縁起にあるもう一つのイワクラ「皇居石」も城光寺縁起にあるように「皇后石」とも呼ばれた可能性があるようにも思えます。伊勢が平にはイワクラが2つあり、一方を皇后岩と呼んでいたのかもしれません。瀬織津媛と私都の存在を考え合わせるとその可能性もぬぐえません。
 そもそも、本来神社に伝わるべき日本の神の伝承が神社に一切残されていないところに歴史の荒波にもまれてきた形跡が示されています。地元の筆者の恩師の話によると、旧郡家町のありとあらゆる所には寺院があったことを示す地名が残っているそうです。
 青龍寺は現在、福本の白兎神社の本殿を預かっています。本来ならば廃社となった神社の社殿は取り壊されたのでしょうが、当時の青龍寺住職のご英断により保存されることになったのは本当にありがたいことです。しかも、ちゃんと本堂の中に安置されて、風雨にさらされず大切に保管されてきたのです。
 門尾が白兎神社の氏子集落であることも背景にあるのでしょう。白兎神社の燈篭も門尾集落に2箇所設置されています。公民館の庭先にある燈篭は比較的新しく、門尾の上にある燈篭はかなり古い時代のものです。
 土師百井、池田、福本にそれぞれ白兎神社があるのですが、門尾にはなかったのでしょうか。ある時代までは大兎明神を祀る神社があったのではないでしょうか。神社合祀前は村の社としては応神天皇を祀っていましたが、応神天皇が霊石山に行宮されたことが由来でしょう。現在は宮谷の賀茂神社に合祀されています。八上のほんの小さな社や遺跡、地名にも重要な史実や意味が込められているように感じられ、決して見過ごせないところだということが最近になってよくわかってきました。 
 また、縁起の記述によれば天照大神が白兎神に出会う前、霊石山における最初の行宮の地は三本松のある上門尾あたりと推測されます。「かみかどお」は八音の祝詞「トホ(オ)カミヱミ(ヒ)タメ」を連想させる感がしないでもありません。この祝詞は、平安時代より明治維新期まで八百年以上にわたり皇室の祭祀を司っていた白川家の伯家神道に伝わるものです。
実際は国府、つまり官へ通ずる街道「官の道」からカドオ門尾になったという説らしいです。門尾は全国に一つしかない珍しい地名のようです。
 青龍寺は古事記の成立するほんの2年前710年和銅3年、元明天皇の勅願の寺として、行基によって開基されました。青龍寺は地元のみならず隠岐などの漁業に従事している方々も信者さんで、厚く信仰されています。青龍寺は内陸で、海からはかなり遠いのですが、本尊の不動明王が波切地蔵としての功徳を持っていることからだそうです。
 
 波兎は江戸時代に全国で流行したそうです。(筆者も和歌山の玉津島神社で見たことがあります。白波があたかも兎が走っているように見えることが由来である、ということも聞いたことがあります。)
 旧船岡町の西橋寺には左甚五郎作と伝えられる波兎の彫刻が残り、また時代は新しいのですが、旧八東町日田のとある民家にも、漆喰で作られた波兎があったりします。同じく八東町安井宿の民家にもあるそうです。因幡・八上の地全体で「白兎」を大切にしてきたようです。
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2006年05月14日

因幡の白兎 福本が本拠か?

 因幡の白兎の舞台と比定されるとこ造は数箇所あります。最も有名なとこ造が白兎海岸とそのすぐ近造の白兎神社で、そこには神話の内容の裏付造になりそうな他所がい造つもそ造っています。蒲の穂が植わっていたり、不増不存の池があったり、大己貴命が八上比売に会いに孫ったとするその途上の他所も布袋や円通寺などの・名として残っています。(しかし、白兎の予存は当たりましたが、その後の八上姫の運命が悲しい結末となっているのは、無念です。白兎神ならその先も存通せたはずです。フィクション性を・分に匂わせるお話です。)
 族の深い掘り下げもな造れ造このような伝承の各・がそのまま神話の舞台として理解されるのは、造造し当然です。
 石破洋其授によれ造、それらの伝承・のい造つかは、比較的新しい時代に尊られたものではないかとされます。詳細は『イナバノシロウサギの総合研究』を参照して造造さい。
また、他し話はずれますが司馬遼太郎氏の「街・を孫造 因幡・伯耆の造ち」(朝日文庫)によれ造、氏も八上の・心は旧郡家町あたりと、断定しているあたりはさすが、という感じがします。また、因幡は古い・名を・造残している、昔からのものを大切にしているということも指摘していました。
 郡家町誌によれ造、社伝があるようで、それには「人皇五十五代仁明天皇(833臓850)の朝、叙位、奉幣等あり。」と記されているようです。また、・理的な位置や他の重要遺跡・重要拠点、古い伝承等との卒連を考慮すると、やはり福本が本拠であ造うと推測できます。 
 一・、存尊精力的に研究を進造ている・元の郷土史家の新 誠(あたらしまこと)さんの話によれ造福本の白兎神社の額の古風な遜体から、その・緒の古さが示されているそうです。また、福本には伊勢神宮との深い結造つきを示すものがあることも聞いています。
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2006年05月01日

因幡 八上 伊勢

 因幡の中央の山、霊石山(れいせきざん)は天照大神が行宮された山です。大日霊尊=天照大神ゆかりの御冠石=御子石みこいし(別名烏帽子石)が山腹にあることから霊石山と呼ばれているのです。ずっと昔は霊石山一帯を「伊勢」と呼ばれていたという人もいます。 
 八上の里は現在の八頭町・若桜町と鳥取市の一部(河原町)です。因幡は神話時代より伊勢神宮や皇室、政治家、著名な文人との縁が深いところです。
 八頭町と鳥取市にまたがる霊石山(れいせきざん)には天照大神が行幸されたという極めて珍しい伝承が、地元の三箇所の寺の縁起に記されています。山腹には伊勢が平(いせがなる)という地名や、皇居石(皇后石)・御冠石などのイワクラが残っているのです。伊勢が平の真東に白兎神社そして宮谷の賀茂神社があります。もとは伊勢が平にあった天照大神の社は、その後、東麓の現八頭町米岡(よねおか)に社殿を移して祀っています。霊石山東麓、八頭町門尾(かどお)の青龍寺に伝わる城光寺縁起や土師百井の慈住寺記録によると「白兎が天照大神を案内した、白兎は月読命である」とあります。
 また、縁起によれば若桜町の氷ノ山(日枝の山)は天照大神がその景色の美しさに感動されて命名された山で、大神はその山(実際は赤倉山)を越えてお帰りになったということです。筆者の知る限り、天照大神の具体的な(御現身おうつしみの)伝承が残っているのは、全国に数ある天の岩戸伝承を除けば、天照大神ご誕生の折、胞衣(エナ)を埋めたとする伝説の残る恵那山(岐阜)、ご行幸の伝説がある島根の隠岐と、この八上の地くらいのものです。(他にもあるかもしれませんのでご存知の方はお知らせください。)
 男神か女神かがしばしば取り沙汰される天照大神のお后といわれる瀬織津姫が旧八頭郡なかでも八頭町私都(きさいち)を中心に多く祀られているのも、このことと関連してのことでしょうか。瀬織津媛を祀る社は、全国にそれほど多くありません。それにしてもこれらの社がほとんど式内社でないことも何か深い意味がありそうです。
 私都(きさいち)は非常に珍しい地名でその名は大阪の交野と京都の綾部そして武蔵七党の私市党として残っているくらいでしょう。私都はもともと私部(きさいべ)で后のための農耕や身の回りの世話をする人たちです。ここにその地名が残るのは、かつて皇后ないし高貴な后が近くにいらっしゃったのでしょう。それは八上比売かあるいは瀬織津媛、または他のだれかなのでしょうか。
 安徳天皇の伝承のある八頭町姫路も珍しい地名です。八頭町篠波の式内社美幣沼(みてくらぬ)神社や日本三薬師といわれる八頭町峰寺の薬師堂も当時の皇室誓願の社寺だったようで、天皇とたいへん関連のあるところのようです。
 因幡は天穂日命と縁の深いところです。天穂日命は高草郡(現鳥取市)にしばらく本拠を構えていたように思えます。天穂日命の御子達を祀る神社も付近にあるからです。天穂日命は天照大神の御子神です。(それにしても秀吉の鳥取城攻略の際に相当多数の社寺が焼き討ちされて、歴史をかき消されたのは非常に残念です。)
 天穂日命は、出雲国造・出雲大社宮司家の始祖であるとされ、同時に土師氏のルーツですが、その子孫、相撲の祖、埴輪作りの祖野見宿禰も本拠は高草(現鳥取市)だったように思えます。(野見宿禰を祀る社で大野見宿禰命神社ほどの規模の社は出雲にはないようです。)また土師氏は歴史的に有名な大江氏や菅原氏のルーツです。
 天穂日命を主祭神とする神社はそれほど多くはありませんが、兵庫県芦屋市の芦屋神社は天穂日命を主祭神として祀る社です。六甲山には天穂日命を祀るイワクラがあるというのも興味深いことです。かなり古い時代の祭祀であろうことが想像されるからです。芦屋神社は因幡・出雲方面よリ移住してきた人たちがこの地に祖神を祀った事が縁起であるようです。芦屋神社の神職の方の話によると現在の芦有(ろゆう)道路が山陰からの街道であったそうで、在原行平等、因幡と芦屋を結ぶ人物がいたのもその証です。芦屋・西宮のあたりは明治期まで菟(兎)原郡(うはらぐん)と呼ばれ、その西隣現神戸市は八部(やたべ)郡と、関連・類似した名前で呼ばれていたのもこのことと関連するのでしょうか。
 八上に戻ります。旧郡家町の八頭高校の隣には万代寺遺跡 「八上郡衙」の跡がありますが、これは現在全国で確認されている郡衙跡のなかで最大規模であることが判明しています。遺跡からは縄文時代の遺物も出てきたようで、歴史の古さを感じさせます。すぐ近くの慈住寺=土師百井(はじももい)廃寺も白鳳期の壮大な寺院があったことを示しています。また、土師氏の拠点であることから、やはり窯跡が数多く残っています。運動場造成に伴って今は消滅した八上姫陵墓とも目される八頭町の福本70号墳が隣の国府町梶山古墳と同様、八角形であることも有力な豪族が存在していたことを物語っています。
 ところで八という数字は、神道ではよくお目にかかる数字ですが、実は天照大神にも関連する数字です。伊勢内宮正殿の鰹木は元は八本だったらしいこと、ご神体とされる鏡は八咫の鏡(ヤタノカガミ)と呼ばれていること、皇室では宮中八神を祭祀していること、また、古墳時代には天照大神を祖神とする天皇家の陵墓として八角形の古墳が多く作られたこと、に示されています。
 天照大神との縁でこの里が八上と呼ばれるようになったといえるのではないでしょうか。(あるいは八柱の神々を祀っていたのかも知れません。)南方熊楠(みなかたくまぐす)のおかげで保存されることになった熊野古道は、現在世界遺産に指定されていますが、そこに八上神社(王子)があり、天照大神を主祭神として祀っていること、近くに稲葉根王子があることなどを考え合わせるとなおその可能性が高まります。いずれにせよヤカミは神と関連する名です。また、当初はヤタノカガミのヤタの漢字は八頭であったようで、八頭町との奇しき縁を感じさせます。偶然は必然、かも知れません。
 土師氏をルーツとする八頭町(旧船岡町)の橋本(土師元)には因幡二宮ともいわれるくらいの格を持つ式内大江神社三座(大己貴命・天穂日命、三穂津姫命)同じく旧船岡町塩上には式内塩野上神社二座(塩土翁命・彦火々出見命)と、因幡の郡の中で最も多い十九座もの式内社を擁する八上郡の祭祀拠点があったようです。隣の智頭町の虫井神社の再興・神事・運営にもここの大江氏が関わっており、かなりの影響力を発揮していたようです。大江神社の地は財原(さいばら)と呼ばれています。ここに大己貴命がおいでになり農耕技術を人々に教えられ、村が富むようになったことからこの名がついたという伝承が残っているのも大変貴重です。これは古事記の「稲羽の素兎」のプロットの一つなのだろうと思います。
 大江谷の一番奥にある赤倉神社では、創始年代や元の祭神・社名の由来は不明ですが、(元)伊勢参りの盛んになった江戸時代に天照大神を勧請して祀っています。東方に位置する若桜の赤倉山と関係があるのでしょう。実は赤倉山は因幡の側から氷ノ山とも呼ばれた山です。丹後の大江町(現福知山市)の元伊勢参りが流行したとき氷ノ山越えで通過する折の峠の山です。天照大神がお通りになり「日枝の山」と感激された場所なので、これから伊勢に向かう西国の人たちがわざわざ遠回りをしてでもこの峠を越えて行ったというくらい有名な場所でした。それほどに象徴的な所だったから、伊勢から勧請した神主林権少輔が社にこの名を付けたのかもしれません。ともあれ八上のいにしえの伝承をよく知っての上での勧請であるには違いありません。加えて、大江という地名の共通性にも注目すべきことと思います。
 また旧船岡町上野に野々宮神社があるのも不思議です。伊勢の斎宮、斎王のための社であり地方にあまり勧請されていないからです。この地が亀トによって大嘗祭の「主貴田」として選ばれたからだそうです。後醍醐天皇との関連もあったのではないでしょうか。旧郡家町西御門は後醍醐天皇が行宮されたことから天皇によって名づけられた地名です。西御門とこの社は目と鼻の先なのです。式内和多理(ワタリ)神社も後醍醐天皇行宮の地です。筆者は、八上の地は天皇家にとって、歴史的に古いつながりがあるように思えます。八上は典型的な盆地で国見山があり、地政学的にも絶好の場所であったろうと思います。(もっとも、後醍醐天皇は隠岐を脱出されて追われる身であり、霊石山はあまりに有名なので長くはそこに行宮されずに、その近くの日理(ひつち=わたり)山=猫山のふもとを選ばれたのではないかと思います。)
 天照大神が行幸されたことと国の中央の国見の山であることを理由に霊石山を行宮の場所とされた応神天皇(和歌も伝わっています)、孝霊天皇、後醍醐天皇、旧河原町の都波只知上神社の景行天皇と日本武尊の賊退治の伝承などがあるのも興味深いことです。
 旧河原町曳田(ひけた)には八上という地名が残り、八上姫を祀るとされる賣沼(めぬま)神社もあります。(古くは「西の日天王」と呼ばれていましたが、郷土史家新 誠(あたらしまこと)さんによれば八上中心部より見たときの西方向だということが関連しての名前であろう、ということです。)八上比売は八上の中心地に居たのでしょうが、出身地がここだったのかもしれません。一方、曳田の地が八上と呼ばれていた時期はそれほど古くなかったことが石破洋教授の『イナバノシロウサギの総合研究』に記されています。
 ところで、この賣沼神社・八上郡内最大規模の簗瀬山の嶽古墳付近と米岡神社、土師百井廃寺、池田の天寺(あまてら)橋・池田の白兎神社、福本の白兎神社、賀茂神社胞衣塚と賀茂神社一の鳥居跡、そして稲荷集落の土師神社(祭神天穂日命)が、冬至の日の入り・夏至の日の出のほぼ同一線上に並んでいること、福本本社を中心として宮谷の賀茂神社が寸分の違いもなく真東に位置すること、霊石山山頂、伊勢が平、イワクラがやはり真西にあることは単なる偶然ではないといえます。さらに加えるならば、八上中心部は京都大江町の元伊勢の真西、記紀にはなぜか登場しない富士山の真西にあたります。古代の人が、何らかの方法によって方角や位置を正確に割り出し、特に同一の緯度や夏至・冬至ライン上に重要な拠点を置いていた痕跡は全国各地にあります。
 (八上姫の伝承は島根にもあります。)
 八上は版図が広かったようで、後に八上郡から八東郡が独立しました。旧船岡町隼郡家の隼神社はなんと武内宿禰(たけのうちのすくね)の居館跡で、ここを本拠に武内宿禰が活躍していたようです。因幡一宮の旧国府町(現鳥取市)宇倍神社も武内宿禰を主祭神としています。漢字の「稲葉」も武内宿禰の事跡によって「因幡」に改められたそうです。
 旧八東町の日高見神社は天照大神を祭神としています。珍しい社名で東北をイメージさせます。同じく旧八東町安井宿には祓えの神である神直毘神・大直毘神を祭神とする式内伊蘇乃佐只(いそのさき)神社があります。両社とも、かなりの格式の高さを感じさせます。
 
 ところで因幡の伊勢神宮とのつながりを示すものがもう一つあります。
 鳥取市卯垣(ぼうがき)にはかつて「古苗代(ふるなわしろ)」「大苗代」と呼ばれる田がありました。「古苗代」は稲葉大明神が当国においでになり、稲作を始められた半月形の水田で、明治の頃まで残っていたようです。(卯=兎と月の関連性も気になるところです。)現在は記念碑が一本建っているのみです。稲葉大明神がこの地を稲庭と命名し、稲場、稲羽、稲葉、因幡へと漢字表記は変遷するものの、現在までその名だけは残ってきたのです。これが因幡の名前の起源なのです。ではこの稲葉大明神とはどのような神でしょうか。
 実はこの「古苗代」と全く同じ伝承が、現京丹後市峰山町久次の元伊勢外宮、比沼麻奈為(ヒヌマナイ)神社の地にも伝わっているのです。ここは外宮祭神豊受大神の伝承や神蹟の集中しているところです。雄略二十二年(西暦478年)、豊受大神はこの地より伊勢山田へと遷宮されました。現在の伊勢外宮=豊受大神宮です。豊受大神は鎌倉期に起こった伊勢神道においては天御中主神、国常立命とご同体とされる神です。
 久次に隣接する苗代という場所には、「月の輪田」という半月形の水田があり、ここで御現身(おうつしみ)の豊受大神が稲作を始められた、という伝承が残っています。(近くには大神が籾種を浸したとされる白濁した湧き水の出る清水戸(せいすいど)がありますが、因みに霊石山にもこの米のとぎ汁のような湧き水が出るところがあります。)やはりこの故事から、田庭の地と命名され、後に田場、丹波になったということです。隣の但馬も稲作と関係する名前のようですし、豊岡は豊受大神のお名前が由来のようです。田庭(丹波)、但馬、稲庭(因幡)はいわば同一の文化圏といえるでしょう。
 また、「湖山長者」と全く同じ内容の峰山町久次「古当屋敷長者」の話、羽衣伝説、丹後と因幡で共通の地名があまりにも多く存在すること、方言の類似性などもそれを裏付けるものです。
 豊受大神は九という数字と深い関係があります。それは伊勢外宮正殿の鰹木は九本であり、元伊勢外宮のある丹波郡(現京丹後市峰山町・大宮町)で式内社が九座あることなどに示されています。
  因幡の地においても稲葉郷が九か村からなっていたこと、稲葉大明神を祀る稲葉神社の祭礼の日が古くは九月九日であったこと(現在は五月九日、その前後の土日を祭礼の日としている)、稲葉大明神は保食神であり、豊受大神と保食神とはしばしばご同体とされます。これらのことから稲葉大明神とは豊受大神と同じ神であるといえるでしょう。
 すると因幡は伊勢両宮と縁の深い全国的にもきわめて稀有な場所であるところだということになります。
  ご意見・ご感想・情報等お待ちしております。


古苗代の碑    

現在の月の輪田



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