2009年04月27日

早池峰で波乗り兎発見!!

  あの、瀬織津姫を祀る神社が全国一の岩手県、その中でも総本山とも言うべき、早池峰神社の神楽に用いられている鳥兜の両脇の垂れている部分に大きく、波乗り兎が描かれています!よく見ると、波兎の背景は大きな太陽です。
波が瀬織津姫、太陽が天照大神を表わすとしたら、どうでしょう。鳥兜というくらいで、冠の一番上には鳥がのっかています。鳥取と縁があります!
 この神楽は山伏が西方から伝えた、という説もあるそうですが、山伏というと修験道の厳しいイメージがあり、本当にそうなのかな、と思います。元々から伝わっていたものなのではないかと思いたくなります。

 今まで、筆者は、定説を受けて、波ウサギは江戸時代ごろに全国的に爆発的にヒットした絵柄である、と思っていました。
 ところが、古い伝統を重んじる早池峰の神楽に用いられる装束に波ウサギが描かれている、ということは、これは相当古くから波ウサギがデザイン化されていたものであるものと思えます。

 筆者は、約12年位前に伊勢神宮外宮の下御井神社で、この早池峰神社やオシラ様を研究する住吉様という方と偶然出会いました。
 外宮の上御井神社または下御井神社とは、別名天の真名井、天の忍穂井と呼ばれ、瀬織津姫が天忍穂耳命をご出産されたところです。
 そして、その数年後、9年前ですが、筆者の職場のお客様で、早池峰神社の巫女または、神楽をしている家の出身の方がお見えになりました。
 そのことを外宮で知り合った住吉様にお伝えし、そのお客様の岩手のご実家(オシラ様を祀る)まで、ご縁を取り結ばさせていただいたこともあります。実に不思議な経験をしたものです。
 また、一昨年秋から本年春にかけて、またまた岩手の方が突然のご転勤で、筆者の職場のお客様になられたことも実に不思議なことでした。(それまでは、岩手県といえば、千昌夫と新沼謙治しか知らなかったのですが。また、ほぼ時を重ねて、因幡・八上ルーツの方もお客様としてお見えになっていたことも実に不思議なシンクロです。)
 ということで、因幡八上ルーツの筆者は、なんとなく、岩手の方ともご縁があるのです。なぜでしょう。
とにかく、瀬織津姫と兎神にはなんらかの関係がありそうです。
 筆者は想像します。
「天照大神が因幡、八上にお越しになったときに土地の神、白兎神に行宮にふさわしいところへと案内されます。その後、または同時に瀬織津姫も八上にお越しになります。
 そこで天照大神と瀬織津姫の間に美しい姫がお生まれになります。八上姫です。その姫のご誕生の際に、兎神の魂も姫に宿ります。お生まれになったところが、あの白兎夏至冬至ライン上の、賀茂神社の胞衣塚付近と思われます。つまりこの胞衣塚とは八上姫の胞衣というわけです。
 天照大神、瀬織津姫ご一行は、八上姫を土地の方にお預けして、八東谷、若桜経由で大江町の元伊勢内宮へお帰りになります。(ちなみにホツマではイサナギ、イサナミの子、ワカ姫は西宮の広田の地でヒロわれタ、て(ヒロタの語源)住吉神=カナサキノミコトに養育されますし、天照大神も東北、日高見で豊受大神に養育されます。
 忍穂耳命も天照大神、瀬織津姫の元をはなれて、滋賀の野洲川付近でワカ姫とオモイカネノ命に養育されています。)

 おそらくその後、八上姫は私都(きさいち)の人たちに大切に養育されます。私都の奥にある八上姫を祀る須賀神社の存在、姫路という地名を考えると、つながってきます。私都には、八上姫は祀られていませんが、瀬織津姫および関連する神を祀る密度が八頭郡の中でも最も高いのです。
 八上姫はその御一生の中で、宮の位置を幾度か遷られたことも考えられます。
 そして神上がられて、胞衣塚の南西、夏至冬至ライン上に位置する河原曳田の簗瀬山(賣沼神社)に、その美しいお姿と御魂の復活・再生を願ってご埋葬されました。」筆者の想像はあながち外れていないかもしれません。 

posted by yakamihakuto at 10:30| 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月24日

波折神社の不思議

 瀬織津姫を祭る神社、波折神社は不思議な神社です。
 なんとそこには、波乗り兎の像があるのです。
 波乗りと波折、瀬織津姫も瀬折津姫と表記されてもいます。 
 兎と瀬織津姫、やはり何か関係があるのではないでしょうか。
posted by yakamihakuto at 08:56| 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

再度、因幡 瀬織津姫を祭る神社

 この間の調査で、町村合併でわかりにくかった点があることに気付きました。
 改めて、瀬織津姫を祭る神社を掲載しました。
すると、因幡の中でも、ほんの4年前までの旧八頭郡に圧倒的に集中していることがわかります。これは石破洋教授や江戸時代の安陪恭庵に指摘されているようにいにしえの八上郡であった可能性があるエリアです。
 ◎印は瀬織津姫の祭神名で祭る神社、□印は市杵嶋姫、またはミズハノメノ神の名で祭る神社です。
 賣沼神社のみ高龗神タカオカミ、闇龗神クラオカミという名で祭られている点は要注目です。しかも、ここには明治の合祀以降、熊野神社も鎮座しています。古くから近くに祭られていたのです。
 福地神社と野町神社は記されている書物によって異なるのですが、筆者はどちらの社にもまつられているものと思います。すると私都谷にはなんと5社の瀬織津姫を祭る神社があるということです。しかも、私都市場の市場神社はコノハナサクヤ姫を祭っており、瀬織津姫との関連もありえます。また、谷の一番奥には姫路、という地名があり、ここは後世、安徳天皇隠棲の地とも伝わる由緒ある土地柄なのです。姫路の北方には八上姫の宮殿があったかもしれない酒賀神社、姫路の南方にはスサノヲノ命の宮殿があったとされる須賀の山が位置しています。

◎白坪神社 八頭郡智頭町
◎虫井神社 八頭郡智頭町
◎上市場神社 八頭郡智頭町
◎諏訪神社  八頭郡智頭町

◎東井神社  旧八頭郡用瀬町(現鳥取市)
◎日月宮   旧八頭郡河原町 (現鳥取市)
◎湯谷神社  旧八頭郡河原町 (現鳥取市)
□賣沼神社  旧八頭郡河原町 (現鳥取市) 

□赤倉神社   八頭郡旧船岡町 (現八頭町)
◎大江神社   八頭郡旧船岡町 (現八頭町)
◎隼神社    八頭郡旧船岡町 (現八頭町)

□賀茂神社   八頭郡旧郡家町 (現八頭町)

◎麻生神社  八頭郡旧郡家町私都     (現八頭町)
◎野町神社  八頭郡旧郡家町私都     (現八頭町)
◎福地神社  八頭郡旧郡家町私都      (現八頭町)
◎美幣沼神社 八頭郡旧郡家町私都     (現八頭町)
◎花原神社 八頭郡旧郡家町私都      (現八頭町)



◎舂米神社 八頭郡若桜町 
◎池田神社 八頭郡若桜町
□若桜神社 八頭郡若桜町
□江嶋神社 八頭郡若桜町
 旧八頭郡計21社


◎水戸神社 賀露神社境内 鳥取市
◎利川神社 鳥取市青谷町

◎越路神社 鳥取市越路

◎桜谷神社 鳥取市桜谷
◎立川神社 鳥取市
 計5社
因幡全体で総計26社
posted by yakamihakuto at 10:14| 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月04日

八上姫と瀬織津姫 白兎ライン

 筆者は瀬織津姫と八上姫・因幡の白兎の関係について、以前より何かあると思っていました。因幡参拝旅行で、その思いはさらに強くなりました。瀬織津姫の祭られている神社にも兎神が祭られていたり、波兎が存在する例があるのです。
 瀬織津姫と八上姫は相似たところがあることはすでに述べました。
 もう一点類似点があることに気がつきました。
 ホツマによれば、瀬織津姫が天照大神との間にお産みになったオシホミミノミコトは、その名が現在の伊勢神宮外宮にある忍穂井(おしほい)、つまり上御井神社(または下御井神社)付近でお生まれになったからつけられた名前です。
 忍穂井とは天の真名井の別名です。
 一方、八上姫は大己貴命との間に御子神をもうけますが、その名も御井の神です。島根県の三井神社がそのお生まれになった場所です。どちらも清水の湧き出る聖なる地に基づいてつけられたお名前です。この点も一致します。不思議です。
 
 白兎夏至冬至ラインをもう一度確認してみます。
 するとラインの一番北には天穂日命が祭られています。天穂日命は天照大神の御子神です。一番南には八上姫を祭る賣沼神社があります。筆者の仮説によれば、八上姫は天照大神と瀬織津姫の御子神です。
 
 そして、育英小学校跡地付近に胞衣塚があります。
この胞衣塚とは八上を代表する尊い祖先神の胞衣を祭ったものではないかと思われます。ここで誕生された尊い神とは即ち八上姫ではないでしょうか。胞衣塚とは、八上姫の出生に大いに関わるものであるように思えてくるのです。
 賣沼神社横の嶽古墳は、地元の人には八上姫の墳墓ではないかともいわれています。
 実際、この白兎ライン上に、ご誕生に関わる胞衣塚、そして、葬礼に関わる墳墓がある事には重要な意味があると思います。また、変形八角形の福本70号墳もこの胞衣塚の真西に位置してるのです。これらは八上姫と大いに関連するのではないでしょうか。
 というのは、天照大神のご生誕の際に埋設された胞衣塚がある恵那山が、同じく天照大神の崩御の地と思われる丹後の大江町氷室岳と同一の緯度に位置しているのです。東のご誕生の地と西の崩御の地、東からのぼり、西に沈む太陽の復活にあやかって、適切な埋葬の地が設定された可能性があります。
 八上においても、北東から南西に伸びるライン上の北東の地に胞衣塚、南西の地に嶽古墳が位置しているのも単なる偶然とはいえないかもしれません。とにかく、古代の人々は、現代人よりも方角に対する感覚は敏感でしたし、復活・再生を願う呪術的な考え方には、現代人よりもはるかに重きを置かれていたと思われます。古代エジプトにおいてもそのような考え方が非常に強かったことは、吉村作治氏の研究によって明らかにされつつあります。
 八上姫を祭る神社は、因幡国に数箇所ありますが、その分布を見ると、八上郡と一致しません。大己貴命と八上姫の宮殿ではなかったかと思われる、兵庫県境に近い酒賀神社も八上郡ではないのです。あるいは八上姫ファミリーがすべてそろう御湯神社も八上ではありません。
ただし、八頭町大江の大江神社も八上姫ファミリーがそろっています。ここは瀬織津姫も祀られています。
 その位置関係から、むしろ八上姫信仰は因幡国全体で見たほうが良いように思えることも、以前指摘したとおりです。それは白兎が「因幡の」と形容されていることと一致します。
 石破教授も指摘されていたとおり、白兎は八上姫の化身ととらえられるかもしれません。もっとも、天照大神が八上へお越しになったときには八上姫はまだ成人されていませんが。 
 やはり八上姫は因幡の白兎と同様、因幡全体の守護神だといえます。
 ですから、八上姫、因幡の白兎、天照大神の行幸伝承、瀬織津姫祭祀の色濃く残る点、大己貴命伝承、スサノヲノミコトを祭る神社の異常なまでの多さなど、因幡に秘められた神々の謎は、現在の行政区画で縦割りで考察すると、何も見えてこなくなります。

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2009年04月02日

若桜神社

 このたびの参拝で初めて参拝した神社の中で、その格式の高さに驚いたのが若桜神社です。

 境内地の大きさはもちろん、境内の雰囲気があの有名な玉置神社に似ていました。奈良の玉置神社は国常立命を祭る神社で、非常に格式の高い神社です。
縄文時代の杉が立ち並ぶ、歴史的には相当古いお社なのです。
 若桜神社境内にも樹齢1000年近い杉の巨木がそびえていました。長い長い石段を息を切らせながら登り詰めると、広い境内があります。その境内にさらに石垣があり、その上に拝殿そして本殿が鎮座しています。
 その光景があの玉置神社を彷彿とさせました。
 おそらくこの社も主祭神国常立命を祭る玉置神社を意識して同じような構造にしたのではないでしょうか。
 とにかくその荘厳さに圧倒されました。
 若桜神社のことは以前、県民局の方からもすばらしい神社であるとは聞いていました。しかし、実際に行ってみなければそれは実感できません。
 若桜の人たちの信仰心の強さを実感しました。

 以下は鳥取県神社誌から編集しました。

「祭神 国常立命 
合祀 天照大御神 ホンダワケ尊 素佐乃男尊、天御降産尊 保食神 倉稲魂神 菅原道真命 大己貴命 豊受神 ミズハノメの神 オオヤマズミの神 カグツチノ神 イザナミノミコト
 創立年代明らかならず。往古より松上大明神と称し、郡中の大社なり。当社始め若桜郷鶴尾山字八平谷に鎮座せられ、古来武将の崇敬篤し。…元弘三年五月後醍醐天皇隠岐より御還幸の途、名和長年鋒を奉り…

 これほどの規模の神社が式内社になっていないことも注目すべきことです。
 八頭郡の観光地の目玉となるべき神社であることには間違いありません。因幡でもっとも荘厳なお社の一つです。ぜひ行ってみてください。行かなきゃわからないことはあまりに多いのです。

posted by yakamihakuto at 00:13| 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

無事参拝成就!

 28,29、30と、私め白兎の小使いは、因幡全土の瀬織津姫を祭る神社ほとんどすべてと、兵庫県西宮市の地名由来(世間では西宮神社と思われていますが、西宮神社は広田神社の摂社でした。)の瀬織津姫を祭る神社、広田神社の参拝をしてきました。
以下は参拝先 そして立ち寄った名所です。
◎印は瀬織津姫を祭る神社、□印は瀬織津姫と思われる神を祭る神社です。
 
初日
◎白坪神社 八頭郡智頭町
◎虫井神社 八頭郡智頭町
◎上市場神社 八頭郡智頭町
◎諏訪神社  八頭郡智頭町
◎東井神社  旧八頭郡用瀬町
◎日月宮   旧八頭郡河原町
◎湯谷神社  旧八頭郡河原町

清流茶屋かわはら 旧八頭郡河原町

□賣沼神社  旧八頭郡河原町
 米岡神社  八頭郡旧郡家町
 御冠石   旧八頭郡河原町
 白兎神社 福本 八頭郡旧郡家町
□赤倉神社   八頭郡旧船岡町
◎大江神社   八頭郡旧船岡町
□賀茂神社   八頭郡旧郡家町

ラダック 鳥取市 懇親会場

二日目

◎水戸神社 賀露神社境内 鳥取市
白兎神社  鳥取市白兎海岸
◎利川神社 鳥取市青谷町
不動山 湯原滝 鳥取市青谷町
青谷上寺地遺跡展示館 鳥取市青谷町
青谷ようこそ館 のうみそせんべい発見

移動中に不思議現象あり(後日報告)

鳥取砂丘  鳥取市
多鯰ヶ池(たねがいけ)弁天神社 鳥取市

ラダック  昼食

◎越路神社 鳥取市越路

◎麻生神社  八頭郡私都
◎野町神社  八頭郡私都
福地神社  八頭郡私都
◎美幣奴神社 八頭郡私都

こおげ農業開発センター 八頭郡私都
(名所ではありませんが、要所でした。トイレ休憩アンド拙著の献本)

◎花原神社 八頭郡私都
◎隼神社  八頭郡旧船岡町

道の駅 わかさ 八頭郡若桜町

◎舂米神社 八頭郡若桜町
不動院岩屋堂 八頭郡若桜町
岩屋神社  八頭郡若桜町
◎池田神社 八頭郡若桜町
意非神社 八頭郡若桜町
□若桜神社 八頭郡若桜町
□江嶋神社 八頭郡若桜町
 
 以上、瀬織津姫を祭る神社18社、瀬織津姫と思われる神を祭る神社5社を合わせて23社を無事参拝することができました。
 鳥取市の立川神社、桜谷神社と合わせると計25社、因幡に瀬織津姫の関連の神社があります。
  ここで、瀬織津姫と思われる神について説明しておきます。

 まず、ミズハノメノ神は水の神ですが、瀬織津姫の名の代わりに使われている可能性があります。
今回参拝した神社では、赤倉神社と賀茂神社です。(ミズハノメノカミの御神像は奈良の丹生川上中社本殿に鎮座しています。社務所で写真を拝見したことがあります。)

 熊野神社は、和歌山の熊野那智の神社で、滝神、瀬織津姫を祭る神社です。八上姫で有名な賣沼(めぬま)神社にあります。(ちなみに元伊勢内宮の本殿脇にも熊野神社があります。)
 タカオカミ、クラオカミの2神も瀬織津姫の名の代わりに用いられた可能性があります。賣沼神社に祭られています。(奈良の丹生川上下社、京都の貴船神社に も祭られています。)
筆者は、このたび賣沼神社を訪れて初めて、瀬織津姫との関連を強く思いました。この神社が、かつて祭神名を伏せなくてはならない時代があったこととも関連してくるようです。今まで、祭神名が伏せられなくてはならない事情については、誰も何も言及することはありませんでした。
 八上姫の御親神は天照大神と瀬織津姫ではないか、という、以前から抱いていた筆者の大胆な発想にすこし根拠を持つことができました。賣沼神社は白兎ライン終点上にあり、その隣はというと、天照大神を祀る米岡神社です。この位置関係も絶妙であることが今回明確に浮かび上がってきた、ともいえるのです。

 市杵嶋姫は、広島県の宮島であまりに有名で、弁天さんとも言われる神ですが、瀬織津姫の可能性があります。今回の参拝では賀茂神社、若桜の江嶋神社です。また、旧郡家町池田の白兎神社にも祀られています。こちらも白兎ライン上です。賀茂神社、若桜の弁天さんどちらのお社も、由緒書きから、奇跡的なことが起こった神社であることが分かります。
 賀茂神社での筆者の間接的な不思議体験は、以前紹介したとおりで、13年前の夏、筆者が帰省して賀茂神社参拝の折、偶然ある老女と出会いました。その方には市杵嶋姫と思われる神が、はっきりとそのお姿を現されたようです。
 「あちらにいらっしゃいますよ。見えませんか。」と、言われて筆者も懸命に探し出して見ても、何も見えませんでしたが…。(昨年末、滋賀県高島市の田中神社に参拝したときも、同行の方には明確に見える神のお姿が社殿上方にあったそうですが、筆者には何も見えませんでした。同行の方は理系の科学技術専門の方でしたので、無理して見えないものを、「見える」と主張されているのではないだろうとは思いました。真相はわかりません。)
 イチキシマ姫とミズハノメノ神はホツマにも登場するので瀬織津姫イコールとはいえないかもしれません。
 しかし、たとえば伊勢外宮祭神、豊受大神がしばしば、保食神、稲生神(稲荷神)と同一視されることと事情が似ているように思われます。その意味ではすべてのイチキシマ姫を祭る神社、およびすべてのミズハノメノカミを祭る神社がイコール瀬織津姫ではないといえるでしょうが、逆にイチキシマ姫、ミズハノメノカミを祭る神社の中に瀬織津姫を祭っているお社があることは間違いないといってよいでしょう。それがどの社なのかは、外宮祭神の場合と同じく明確に分けることは難しいように思えます。
 一方高龗神タカオカミ、闇龗神クラオカミはホツマに登場しない中国由来と思える神名なので、こちらは祭神瀬織津姫の代わりに祭られた可能性がありそうです。
 



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2009年02月11日

瀬織津姫と八上

  すでにわかりきったことではあったのですが、あらためて菊池展明氏の、瀬織津姫を祀る全国神社分布図をみて、たしかにこれはすごいことだと思い直しました。
 菊池氏の調査によると、現在判明している全国の瀬織津姫を祀る神社総数は454社です。
 全国47都道府県で単純に割って、1都道府県に約10社という数になります。
 菊池氏の調査された資料(これを作成されるのには大変な労力を要したことと推察します。)から、10社を超えるのは20都府県で、そのうち20社を超えるのははわずかに6府県なのです。沖縄、熊本、佐賀は0で、九州全体で計26社ですから、鳥取にいかに集中しているかがよくわかります。
 最多は岩手の36社、続いて静岡の32社、鳥取は岡山と同数の25社です。
 以前にも記しましたが、鳥取県内でも因幡に18社、そのうち13社が2006年までの旧八頭郡(=郡家、船岡、河原、八東、若桜、用瀬、佐治、智頭。いにしえの八上郡と推定される)ですから、この全国の分布状況と比較しても、驚きの数値です。菊池氏の調査にはもれてしまった大江神社と舂米神社を合わせると15社となります。
 
 近代の行政区画、都道府県で判断するよりも、古代の国、あるいは郡単位でみていくことで因幡、八上の特徴が浮かび上がってくるのです。
 八上はもっと瀬織津姫を顕彰・応援していくべき土地柄であることがよくわかります。
八上に多く祀られている、あるいは、八上に固有に祀られている神様をあげるとこのようになるのでしょうか。

スサノヲノミコト (八上で祀る最多の神 八上にある神社の約半数の神社で祀られている。 筆者推定、ダントツに多く祀られている。おそらく1郡部での数は全国一でしょう。)
八上姫
大兎明神
瀬織津姫 (分布状況で八上は全国一の密度)
天穂日命 (土師氏の祖神 八上・因幡には土師氏の末裔が極めて多い つまり因幡の民はさかのぼれば、天照大神とつながる、ということです。筆者はこの事実をもっと因幡の方、因幡出身の方に強く意識していただきたいと思っています。)
神直日神 (きわめて珍しい祭神)
大直日神 (きわめて珍しい祭神)
日月神  (きわめて珍しい祭神)
天照大神(伝承に基づく点できわめて異例)
大己貴命(伝承に基づく点で)

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2008年10月30日

瀬織津姫と木花咲耶姫の御実家

 三島大社です。ホツマによれば、コノハナサクヤヒメと瀬織津姫は同じサクラウチの家系に当たり、どうやら、この三島大社のある場所が、その御住居だったようです。
 それにしても、静岡にある著名な神社はすべて徳川家の厚い信仰により、どれもすばらしい整備がなされています。神様もお喜びのことと思います。
 
三島大社
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2008年10月26日

瀬織戸神社

 静岡県三保の松原にある折戸(おりど)という所に鎮座売する瀬織戸神社の由緒書きによれば、「瀬織津姫は天照大神の第二王女である」とされています。瀬織津姫が天照大神の第二「皇女」(つまり天照大神の御子神)という意味で記されたとするのならば、由緒書きにもあるように弁天様と同じ神となります。
 しかし、天照大神の御子神は五男三女で、弁天様は本来イチキシマ姫のことを示します。
 瀬織津姫がいかなる神かがかき消されてしまい、記紀にものっていないことから、イチキシマ姫、と誤って認識されるようになったのであると思われます。
 それにしても、瀬織津姫の名にちなむ地名が残っているのは珍しいこと、すばらしいことです。


瀬織戸神社2



















瀬織戸由緒
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2008年08月08日

源氏物語の瀬織津姫

 今年は源氏物語が世に出て1000年目に当たります。筆者は、源氏物語など、高校時代には一切関心がなく、惜しくも先日亡くなった赤塚不二夫の漫画版の源氏物語(光源氏をあのシェー、のイヤミが、桐壺帝はバカボンのパパが演じるなど、赤塚漫画のキャラクター総動員の超豪華キャストで、華麗なる王朝絵巻が描かれています。)を手にして、少しストーリーの概要がわかってきた程度のものだったのですが、ここへきて、瀬織津姫が橋姫として登場していることを知り、もう少し深く内容を知りたくなったところです。
 光源氏亡き後の、宇治十帖(第45帖)の「橋姫」では橋姫にちなむ和歌が登場します。橋姫とは、宇治橋の西側に祀られている橋姫神社に因みますが、祭神は瀬織津姫です。源氏物語にはもちろんこの神名は記されていません。宇治はもともと菟道という漢字が当てられており、兎とも関連のある地です。藤原氏がこの地に別荘を建てて以降は藤原氏の拠点のようになったところです。
 ウィキペディアによれば源氏物語の橋姫以外に、嵯峨天皇の時代、すなわち、源氏物語が書かれる200年位前には、「橋姫は夫に裏切られて憎悪と殺意に駆られるあまり宇治川に身を浸し、生きながらにして鬼と化し、願いを成就させたと伝えられる女性。 丑の刻参り参照。 「宇治の橋姫」とも。  能面のひとつ。復讐に燃える怨霊の女の形相を象ったもの。」と、なにやらマイナスイメージを持たされてしまう存在として描かれているのです。
 しかし、源氏では 薫が詠んだ和歌「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」が紹介され、橋姫へのマイナスイメージは微塵もありません。これはいったいどうしたことでしょう。竹取物語にせよ、伊勢物語にせよ、藤原氏を暗に批判する箇所が秘められているのはつとに有名で、源氏物語も藤原氏を批判したものではないか、という説もあります。「大鏡」などは藤原氏を揶揄した痛快な歴史物語としてあまりにも有名です。いずれの書も、実際の執筆者が明確にはされていないのも共通しています。

 紫式部もどのような人物であったかは実はあまり良く分かっていないそうです。
ただ、紫式部の墓所は、京都市上京区の紫野、島津製作所の隣にあります。そこに、反藤原で知られる小野篁(タカムラ)の墓と並んでいるのです。小野篁と紫式部では、生きていた時代が150〜200年近く離れていることも不思議です。生まれ変わり=輪廻転生思想とも関連するのでしょうか。「これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。」という説もあります。
 しかし、筆者はむしろ、これまでのさまざまな考察から推察して、おそらく藤原氏によって作り上げられた、橋姫への恐怖のイメージを払拭した功労者、と評価します。
 紫式部は、宇治十帖に、何等かの意図を持って、瀬織津姫=橋姫を登場させたのでしょう。紫式部は、汚名を着せられた橋姫の名誉復権のために一筆書き上げたように思えてきます。
 また、筆者は中臣氏と藤原氏では瀬織津姫に対する扱いが異なるように思います。
 以下は筆者の推論です。藤原氏は、徹底して、瀬織津姫を悪の権化、にしようとしたのではないでしょうか。藤原氏の本拠であった宇治におけるこの橋姫の話はあまりにむごい内容です。一方で、中臣氏は昨年8月の記事「広田神社」でも紹介したように、大祓祝詞に瀬織津姫を登場させています。
 このことからも筆者は、藤原氏の系統と、それに服従させられていた中臣氏とは明確に区別した方が良いように思われます。

 

 橋姫の帖には、単なる偶然かもしれませんが、八の宮という、光源氏の腹違いの兄弟が登場します。(3の倍数ではなく?)八、という数字に敏感になっている筆者には、すぐに天照大神との関連が思い浮かびます。単なる偶然でしょうか。桐壺帝の皇子は全部で十名ですが、主な人物は光源氏と朱雀帝、蛍兵部卿宮と八の宮なのです。しかも、この八の宮は橋姫の帖にしか登場しません。実にみごとに符合しています。
 紫式部の描く平安貴族の世界観では、神道の力ではもはや力が弱く、仏教に帰依することなくして、日本の神々も含めて、安寧は得られないという考えが主流となっていました。それゆえか、京の都(京都市)には、宮中も含め、天照大神を祭る神社はほとんどありません。その意味では先日紹介した祇園祭の岩戸山は貴重な存在、といえるのではないでしょうか。(三条蹴上近くの日ノ岡に京の伊勢神宮とも言われる古いお社=日向大神宮がありますが、ここでは、伊勢外宮の神として、天御中主神が祀られているのも特筆すべきことと思われます。伊勢神道との関連もあるのではないかと思われますが、詳細は今のところわかりません。しかもその位置は、伊勢と丹後の元伊勢を結ぶライン上です。)
 源氏物語には野宮の斎王のことも登場します。仏教的世界観が支配する平安の世において、伊勢神宮や神道にかかわる行事が描かれていることは非常に重要です。何しろ平安貴族の世界観では、仏教に帰依しなければ、来世はないものと思われていたのですから。
 長谷寺詣でのことも描かれていますが、この長谷寺には今年4月に紹介したように、天照大神の降臨伝承が伝わり、天照大神の男神像が鎮座しているところです。このように源氏物語では、神道の重要なことがらについて、ちゃんと要所要所に描かれているのは非常に意図されたものではないかと思われます。
 本地垂迹という説が、法華経または、天台宗あたりから発生して、福井の気比神宮や若狭彦神社に藤原氏が神宮寺を建立したことから、全国各地の著名な神社のそばに神宮寺が建立され、時代のイデオロギーとして、その後日本社会に根付いていきました。
 鎌倉時代に伊勢外宮から伊勢神道が発生したのも、このような背景があり、それに抗する意図が当然あったものと思われます。

 思い出しました!そういえば、八上ー因幡と非常に縁のある大スター、沢田研二が源氏物語の光源氏の役をしたことがあります。
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2008年07月15日

祇園祭の天照大神と瀬織津姫命

 祇園祭 四条烏丸西入る 岩戸山の御神体、天照大神です。
 (偶然にもこの岩戸山のすぐ東に因幡由来の因幡堂があり、大江町という地名もあります。因幡ルーツの人たちが多くいたところなのでしょうか。)
 岩戸山保存会の方にお聞きしたところ、現在の像は、天明の大火で消失後、作られたものだそうです。おそらく当時の人たちも、それ以前より伝わるお姿で作られたのだと思います。

 祭りで男性ばかりだから、天照大神を男性にしたものだという説もあるようですが、太陽神は世界的にも多くは男性の神として認識されており、保存会の方も男神か女神かに疑問をお持ちでした。
 祇園祭の、特に山や鉾は地元の人々によって維持されてきたもので、民の祭りであるといえます。
 
天照大神御神像

















こちらは、明治期に、この岩戸山の模型が作られたようで、天照大神は凛々しい男性のお姿をしておられます。

天照大神御神像2














 




烏丸三条上る 鈴鹿山の瀬織津姫命です。現在、保存会はわずか12軒だけで、周りの企業の方が持ち回りでお世話をされているようです。
 こうして、天照大神と瀬織津姫は、あたかも七夕伝説と同じようにこの祇園祭のときに密かにそのご関係を表わしているといえるかもしれません。烏丸通を一条おいて、位置する男神天照大神と、瀬織津姫、真の事実を知っていた人々が、祇園祭に意図して2つの山を取り入れたのではないでしょうか。

瀬織津姫












 


 同じく岩戸山のご祭神、イザナギノミコトが現実離れした肌の色や形相であるのは、保存会の方のお話によると、この世とあの世を結ぶ神であることの象徴であるのではないかということでした。御子神である天照大神とあまりにかけ離れたお顔はどうしてか、という疑問が少し解けたようにも思いました。 


イザナギノミコト


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2008年06月29日

元伊勢内宮 七十八社

 元伊勢内宮の大林宮司に末社についてうかがいました。あいにくの梅雨空でしたが、逆にこれが、神秘的で荘厳な雰囲気を更に色濃くしていました。薄霧に包まれた内宮境内と、霞たなびく日室岳はかえって好天のときよりも神々しさを強く感じます。
 大林宮司は元伊勢について深く調べておられ、祭神についても「元伊勢内宮境内社一覧」として纏められ、筆者はその写しを頂戴しました。これには、御前社や参道のお社、昭和にはいってから新たに祭られた社もすべて含め、全86社が掲載されています。
 まず一番気になるのは、やはり、内宮本殿の真北に位置する荒祭神社でしたが、大林宮司は、「一覧」の中で、明確に瀬織津姫(皇大神の荒魂)と記載しています。
 本年最初の記事でも述べましたが、これは、伊勢神宮の正殿と荒祭宮との位置関係と同一です。大林宮司もそのことはご存知でした。そして、この七十八の末社の基本的位置は昔から大きくは変ってないようだ、とのことです。
 内宮本殿西側にある、社殿跡らしき遺構についてもお聞きしましたが、そこには以前、遷宮時のためのものと思われる社が二つあったらしい、ということです。
 あわせて、内宮の例大祭の日についてお聞きしました。古来より毎年、四月二十六日に行われているそうです。そのため、その祭りに合わせて内宮神楽殿に奉納されている天照大神の像(明治四十五年)も、再建された七十八の末社の奉納日(昭和五十二年)も四月二十六日の日付が記されているのです。
 舞鶴の大川神社が四月二十三日、天橋立の籠神社が同二十四日、加悦谷の諸神社が同二十五日、そして皇大神社が同二十六日、というふうに、農業が諸産業の中でも中心であったかつての時代には祭日が連続して並んでいたそうですが、大川神社や加悦谷では現在は諸事情に合わせて、ゴールデンウィーク中の祭日に例大祭の日を変更しているそうです。
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2008年06月15日

久々の伊勢参宮

 久々に伊勢両宮へ参宮してきました。
 八上の天照大神伝承についての調査を進めて以降、初めての参宮でしたが、筆者はなんとなく以前参拝していたときとはまた違った観点から神宮に接しているように思いました。
 
 第62回伊勢神宮遷宮を5年後にひかえて、次第に準備が進みつつある神宮です。さすがに前回の遷宮から15年目で、神殿は神寂びた味わいを出しています。一部の神殿の茅葺の屋根には草も生えたりしていますが、神宮ではそれら一切に手を加えないようです。
天武天皇の詔によって、遷宮を20年ごとに行うことが決められ、戦乱の世などを経て、一時的に中断を余儀なくされたこともあったものの、現在に至るまで日々の祭祀はもちろん、遷宮という一大事業が継承されていることは奇跡的なことです。
 その周期が20年であることにもうなずけます。
 神宮で使われた古材は、その後、全国各地のお社などで再利用されており、また、用材を切った後に出る木材の断片も神宮大麻やその他の神具の製作に使われており、実に無駄のない使われ方が徹底されています。
 そのような在り方に、現在問題となっている、循環型の物資の活用の基本理念が示されています。日本では本来昔から実践されてきたことです。
 外宮 古殿地
 平成25年にこの地に新しい正殿が建てられます。

外宮 古殿地












 神道五部書では天照大神の荒御魂は別名瀬織津姫命であり、西宮地名のもともとの由来である広田神社、その祭神と同じ神が祭られています。
 熱心な団体が神殿の前でご祈祷されていました。

内宮 荒祭宮











  心が洗われる五十鈴川です。

五十鈴川















 天の真名井は別名天の忍穂井(おしほい)とも呼ばれ、高天原から地上に降ろされた神水の湧き出るところです。
 八上姫の御子も御井の神です。何か関連することはないのでしょうか。日本海側にはかつて真名井信仰があったということを丹後一ノ宮の籠神社の神職の方から聞いたことがあります。
 島根、鳥取、丹後半島、舞鶴にかけて、確かに真名井の名のつく地名や湧き水の出るところ、神社が複数あります。昔はきれいな水のあるところにしか人は集落を作ることができませんでした。農産物も育ちません。

下御井神社

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2008年04月26日

虫井神社

 八上の南方、大江谷の南方に智頭町大呂というところがあります。ここには虫井神社があります。虫井神社の由緒書きから紹介します。
 「御祭神
 瀬織津姫 左
 須佐之男命 中
 速秋津比賣命 右
 天御中主命
 大山祇命
 宇賀魂命
 
 荒海大明神  右殿
 里人大明神  中殿
 都都良麻大明神 左殿
 
 当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命(武内宿禰)によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...
 国内最古級の歴史書、「三代実録」巻の四十四に「元慶七年(八八三)十二月二十八日因幡国正六位上、虫井神従五位下を授く」と記されている。
 そして正中元年(一三二四)には、御社殿を改築し遷座するなど朝野の尊崇も深かった。その後移り変わる歴史の狭間で、中世古代以来幾度の兵火にあい廃朽を余儀なくされていたが、嘉慶元年(一三八七)上古よりの名社であることから、大江美濃介師貞によって六〜七丁下の字ハセツコウに移転再興された。更に江戸時代、正徳四年(一七一四)に妙見社・三瀧蔵王権現・荒海大明神の三社を改築遷座した。
 大正十年...社殿を山麓の現在地に移し、本殿・幣殿・拝殿を新築、荘重なる御社殿のもと盛儀をこらして遷宮が斎行された。
 なお旧社地は現社殿より百四十m程高い尾根に在り。深緑連なる木立の中わずかに安永九年(一七八〇)の石製手水鉢が往時を偲ばせる
 また当社は虫井の社名に因むものか、往古より虫の守護神として崇拝され幼児の疳の虫、或いは田畑山林などの五穀成就、病害虫の駆除、風雨順時などに霊験著しく、植え付けより収穫まで、およそ年間を通じて地元はもとより遠く岡山、兵庫の両県より多数の参拝があり広く虫に関わる信仰を集めていた。
 いずれにしても景行天皇の御代より相伝えて実に悠久二千年に垂れんとする県下でも屈指の社歴を有する古社である。」
 虫井神社の虫という文字の上にはハネがついており、兎の文字と少し似ています。
 略記によれば、元々は、荒海兄弟という地元の氏族の拠点だったようです。その氏族が、あの河原町の多加牟久神社の武牟口命によって平定されたということなのでしょうか。その辺りの詳細はよく読み取れません。
 現在の祭神の筆頭は瀬織津姫です。その元になるのは左社の三瀧神であるようです。滝の神、水の神ともされる瀬織津姫、実はホツマにおいてはその最初の紋(章)で稲の害虫駆除との関連で登場します。このことが、社名の由来と関連するのかもしれません。
 虫井神社では毎年十月に花籠祭が催されます。
太陽に見立てて造った花籠を神社に奉納するそうです。江戸時代に始まる行事で、無形民俗文化財として県指定されているそうです。
以前にも述べましたが、この虫井神社と天照大神を祭る八上の赤倉神社はほぼ南北のライン上に位置しています。
ホツマツタエミハタノハツ 東西の名と穂虫去る紋(キツノナトホムシサルアヤ)
 「...和歌姫(天照大神の姉神)が天照大神の伊雑の宮においでになるとき、紀志伊の国の稲田が蝗(イナゴ)の大群に襲われてしまいました。途方にくれた農民たちは、稲の被害を伊雑の宮に告げたのですが、あいにく天照神は丹後の天真名井に坐す豊受神のもとへ行幸されていたのでした。そこで内つ宮(中宮)の向津姫(瀬織津姫)は和歌姫を伴い、急ぎ紀志伊の国に行かれたのです。紀志伊にお着きになった和歌姫は田の東方にお立ちになり、玄草(おしくさ)をもって扇ぎながら歌をお詠みになってお祓いをされると、蝗がとびさったので、向津姫は左右に三十人に侍女を立たせ、一斉にこの歌を歌われました。これが稲虫を祓う和歌の呪い(まじない)です。
 種果たね 生むすき盛め 無病素目らのゾロ葉も葉芽ぞ虫もみなシム
(タネハタネ ウムスキサカメ マメスメラノ ゾロハモハメゾ ムシモミナシム
 と繰り返して三百六十回歌い、あたりにどよませると、蝗の大群は西の海のかなたへざらりざらりと去っていったのでした。こうして烏羽玉(ぬばたま)のような闇夜となった人々の心は、糧を得て再び明るさを取り戻しました。喜びにあふれた紀志伊の国の人々は、日の前向津姫と和歌姫のために、それぞれ天日の前宮(あひのまえみや)と玉津の宮を造営し、それを献上申し上げました。向津姫のご滞在になった天日の前宮は国懸の宮(くにかけのみや)と讃えられ、和歌姫は玉津の宮がたいそう気に入られました。紀志伊の国は和歌の力により、もとのように若返ったことから、和歌の国(若の国)と讃えられました。...」
以上鳥居礼氏『完訳秀真伝』より。
 また、日本翻訳センターの現代語訳も大いに役立ちます。
 このように、虫井神社の社名と祭神の瀬織津姫がどのように関連があるのかは、もはや地元の伝承でもその由来が途絶えてしまい、記紀を通じても全く手がかりはないのですが、ここでもあの偽書扱いされているホツマによって、関連性が伺えるのです。もしかすると瀬織津姫はここにおいでになって、稲虫の祓いをされたのかもしれません。そのときに行われた呪い(まじない)としての催しは長い年月の間でとぎれてしまったのでしょうが、近代以降に地元住民たちの潜在意識の奥深くに残っていた遠い過去の記憶から、それに近い催しが花籠祭として蘇ったのかも知れません。
 智頭町には式内社はありませんが、天照大神を主祭神とする社や、瀬織津姫を祭る神社が比較的多いこと、中でも虫井神社において瀬織津姫を主祭神としていることなどから、藤原氏への対抗勢力が強い所であったのかもしれません。(筆者の都合の良い想像です。)
 
 ホツマには、和歌山の地名由来はもとより、和歌の語源、日の前国懸神宮や玉津島神社の由緒、広田神社の名前の由来も明確に記されています。これらのことも記紀では一切手がかりを得られません。
 筆者はホツマの存在を知ってかれこれ15年近くになりますが、確かに、中には現代の私たちには受け容れられないような記述や、不思議なことも多く盛られており、最初は眉唾物として距離を置きつつ、少しずつ触れていますが、知れば知るほど、これは真実の書ではないかという思いを強くしています。
 より多くの方がホツマの原文や様々な解説書などに触れていかれ、ご自身の感覚によってご判断していただくことを願います。 
 たいした内容検討も無いままに、一般的に偽書扱いされているからという理由で、この書物を避けてしまうことのほうがより大きな損失であるように思えます。
 つい先日、出版された菊池展明氏『円空と瀬織津姫』上(風琳堂)p377には、全国の瀬織津姫を祭る神社が紹介されていますが、鳥取県は全国3番目に多い25社の神社で祭られています。その中でも因幡で18社、旧八頭郡では13社と、集中していることがわかります。実は少し前に鳥取県神社誌に掲載されていた瀬織津姫を祭神とする神社を紹介しましたが、菊池氏の著書に記載されていない2社を含めると、その数は県内で27社となります。都道府県の面積のことを考慮すれば、密度でいえば総数全国1の岩手を抜いて、全国1位になります。
 また上記書には、円空は、出自が藤原氏系でありながら、自らの先祖が犯した罪への贖罪として、消された瀬織津姫のために数多くの彫刻を作成したのではないかと考察されています。円空はあの中将姫と同様の使命を持ってこの世に生まれ出てきたのでしょう。 
 


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2008年04月13日

天照大神の山陰行幸

 天照大神の山陰行幸については、古事記・日本書紀には、もちろん一切記されていません。山陰地方には隠岐と八上に、それぞれ天照大神行幸伝承が残っていることはすでに紹介したとおりです。
 ところで、『ホツマツタヱ』にはこの天照大神の山陰地方行幸に関わることが記されています。
 鳥居礼氏の『完訳秀真伝』には五七調の本文が、漢字かな交じり文で記載され、さらに本文の詳細な現代語訳と補注が記されています。ホツマのもともとの原文はヲシテ文字という独自の神代文字で記されています。 
 豊受大神の丹後真名井でのご危篤と崩御、天照大神への最後の奥義の伝授の様子、その崩御の地に朝日宮が建立されたこと(京丹後市峰山町久次の比沼麻奈為神社がもっとも有力比定地と思われます)、その後、天照大神がしばらく宮津、真名井におとどまりになったのち、千足(チタル)国、即ち山陰地方を御巡守されたことが記されているのです。
 「宮津より 早雉(ハヤキジ)飛べば 天日神(アマヒカミ:天照大神) 急ぎ真名井に 行幸(みゆき)なる 時に玉杵命(タマキネ:豊受大神の忌名)相い語り 「昔道奥(みちのく) 尽くさねば ここに待つ」とて 授けまし 「諸神たちも しかと聞け 君は 幾世の 御親なり これ国常立(とこたち)の勅(ことのり)」と 洞お閉ざして 隠れます その上に建つ 朝日宮 君懇(ねんご)ろに 祭りして のち帰まさん 御てぐるま 留(とど)むる民お 憐れみて 自ら 政り 聞こし召す 趣き告げる 雉子(きぎす)にて 向津姫(ムカツヒメ:瀬織津姫)より 勅(ことのり)し 日高見(たかみ)に祭る 豊受(トヨケ)神 持子(モチコ)の典侍(すけ)と早子内侍(ハヤコウチ)味子姫(アジコ)と三人(みたり) 早行きて 真名井の原の宮仕ゑ 勅あれば 門出して 宮津の宮にあるときに君の御狩に千足(チタル)国 道お定めて 治むのち 八十杵尊(ヤソキネ)の弟(オト)...。
以上、秀真伝御機の六(ホツマツタヱミハタノム) 日の神十二后の紋(ヒノカミソフキサキノアヤ)の一部を紹介しました。
 ホツマの本文はネット上 でも参照できます。
 現代語訳と英語訳版・仏語訳版もあります。
 神代文字については、アカデミズムでは、忌部氏の『古語拾遺』でわざわざ、その存在が否定されていることを踏襲し、1953年、山田孝雄氏の「所謂神代文字の論」で神代文字の存在が完全に否定されたことを追認しているだけのことのようです。 
 日本の歴史学では、ほんの一個人が定説化した学説がその後も長らく正当な説として、後代の学者に無批判に受け継がれているようなことが少なからずあるように思えます。1953年から半世紀以上が経つ現在、再度この点についても見直しがなされるべきでしょう。
 実は、忌部氏の子孫、忌部正道は『神代巻口訣』で神代文字の存在を肯定しています。大江匡房は『箱崎宮記』で神代文字の存在は否定しているものの、ひらがなは応神朝のころから使われていたことを記しているそうです。『弘仁私記』(813年)、『承平私記』(936年)にも漢字が流入する以前に固有の文字の存在が肯定されており、『扶桑略記』(1094年頃)にはカナの「日本書紀」があった事が示されています。この「弘仁私記」「承平私記」「釈日本紀」は、いずれも「日本書紀」の解説書です。このことから筆者は、(内容をすべて見ていないので決め付けるのはよくありませんが、)これらの書物は、不比等によって消され捏造されてきた真実を、ひそかに書き留めたものではないかと思います。
 ホツマ文字=ヲシテ文字をはじめ、全国各地の古い神社には、様々な種類の神代文字が伝わっている所もあります。
『ホツマ』が仮に江戸時代の偽書であるにせよ、江戸時代に記された一大叙事詩として、アカデミズムで研究してもおかしくないくらいのものだと思うのですが。今のところ、そういった視点からも一切とりあげられません。
 例えば、滝沢馬琴の幻の小説などが出てきたとしたら、おそらくこれは研究の対象になることでしょう。百歩譲って、作者不明であっても、江戸時代の古文書で日本神話をモチーフにしている、というだけで、その物語の価値は大いにあると思うのですが。大学の国文学科で研究対象として取り上げられてもおかしくないのですが...。そういう面からも、アカデミズムによって一切かたくなに無視されることの背景にはもっと重大な意味があるように思えてきます。
 本居宣長は神代文字を否定しましたが、古事記を中心に研究をして、懸命に倭心を追い求めていました。漢心(からごころ)の混在していないやまとことばで記された『ホツマ』はまさしく宣長の求めていた至宝といえるのではないでしょうか。
 記紀では神話のストーリーがぶつ切りにされていることに、記紀の神話とホツマを合わせ読んだ人なら例外なく誰でも気づきます。神話の舞台も全国的ではありません。ホツマは、ストーリーが一貫してつながっており、ほぼ日本全国が舞台となっています。また、伊勢神宮の祭神、天照大神と豊受大神の関係も、ホツマではじめて判明します。和歌についての記述も多く、和歌ということば自身が、実は大和言葉であることや、枕詞の意味も記されています。天照大神の御代に全国的に起こった動乱、それと関連して、何故狐が伏見稲荷の使いとなったのか、中臣祝詞に登場する白人、胡久美の意味もホツマでない限り、解明できません。
 花形隆一郎氏はその著作『実在した人間 天照大神』で、西洋の政治思想の発展史を踏まえて、思想史的な観点からも、ホツマが後世に捏造された偽書では無い、と結論付けています。
 ところで話を八上の天照大神行幸の伝承に戻します。 もし、このホツマに記されていることが地元の伝承と重なるのであれば、このような流れの話になるかも知れません。(以下は筆者の想像です。)
 天照大神は、豊受大神の崩御の後も、しばらく丹後に留まられました。ミヤツとは、現在の京都府宮津市ですが、その南方の山間に大江町の元伊勢内宮があります。行宮の地はそこだったのかもしれませんし、あるいは天橋立をはさんで、南には元伊勢跡地ともいわれる文殊堂、北には、籠神社の末社、真名井神社があり、そこであったのかもしれません。この真名井神社は、実は、内陸の久次岳山頂、久次岳山中の大饗石(おおみあえいし)、比沼麻奈為神社および、大宮賣神社を結ぶ東西ライン上に位置しています。または、真奈井が原の地、大宮賣神社か、その付近だったのかもしれません。天照大神は、丹後のいずれかの場所にしばらく行宮されました。これが、丹後に外宮と内宮の元伊勢がそろってあることの根拠です。
 その後、山陰地方への行幸を計画されました。因幡の国、岩美の御湯神社は、天照大神御一行が山陰へ行幸されたときの行在所になったものと思われます。ここは伊勢宮とも呼ばれています。(ちなみに天照大神が因幡へ行幸される以前、豊受大神はその名をお伏せになって、稲葉山の麓で稲作の技術をお伝えになりました。このときの神蹟が古苗代であると推測します。稲作を教えられた豊受大神を稲葉大明神として、鳥取市卯垣の稲葉神社で祭っています。)
 そして、陸路または海路で隠岐へ渡られます。そこで、天までとどくような大木をごらんになって大きな樹、オキという地名由来の御言葉を発せられたのでしょう。
 しかる後、陸路または海路で、因幡へ到着され、内陸の八上へと歩を進められました。郡境である三本松付近で、八上の土地の神、八上姫の化身である白兎と出会い、白兎の導きによって、そこから遥か南西方向へ中山の麓道をたどりながら、霊石山山頂近くの平原(伊勢が平)にたどり着かれました。そこで白兎は身を隠してしまいます。天照大神御一行は、しばらくそこで行宮を営まれました。瀬織津姫も豊受大神崩御の後、高天原で政務を担当され、ひと段落したところで、丹後の天照大神ご一行にに合流され、行動をともにされていたのだと推測します。八上の行宮の折には、主に私都の民が瀬織津姫のお世話をされたのでしょう。あるいは私都のいずれかの場所にしばらくいらっしゃったのかも知れません。神社祭神の分布状況から、このような想像が自然にわきあがってきます。
 最勝寺の元の境内地には白濁した清水の湧き出る井戸がありますが、天照大神の行宮の折に掘り出されたものかもしれません。霊石山の御冠岩に天照大神は山陰地方の平安を願って冠を安置し、国見をされました。
 同行の猿田彦命は霊石山の南方の三角山に布陣して、防衛の任にあたったのでしょう。
 八上のあちらこちらに出向かれ、いよいよお帰りになるときには八上の南東に位置する国境、現在の氷ノ越えの峠をお通りになる際、大雪の降り積もったあと、旭日に輝く樹氷をご覧になってその美しさに感動されて、和歌を詠まれました。
 
 あしひきのやまへはゆかじ
    しらかしのすえもたははに
           ゆきのふれしば 
 
 須賀の山に暮らす須佐之男命、稲田姫夫妻と再会されたあと、八上、因幡の国を離れられたのでしょう。そして、丹後の元伊勢にお戻りになった後に、中央の高天原に御帰還されたのではないでしょうか。
  再度お断りしておきますが、以上はホツマに記されていることと地元の伝承を筆者が想像を交えて結び合わせたものです。 記紀ではこのようなストーリーは決してできませんが、丹後・山陰の神蹟・伝承とホツマには整合性があるようで、自然につなぐことができました。このことは注目すべきです。
 そして、もう一つ、指摘しておくべきことがあります。ホツマの記述によれば、豊受大神はイザナミノミコトの父親であり、天照大神の祖父に当たります。そして、幼少期の天照大神への教育を東北の日高見でほどこしました。天照大神はウヒルキと呼ばれていたそうです。漢字を当てると大日霊貴となります。秋田県にはその名もずばり、大日霊貴神社があります。豊受大神は天照大神の御餞津神と称され、伊勢外宮豊受大神は一般的に内宮より格が下であるととらえられていますが、ホツマによれば、天照大神の指導者的立場にあった偉大な神なのです。
 すると、ここで思い出されるのは伊勢神道です。伊勢神道では、豊受大神は天御中主神であり、国常常立命であるとされています。実はホツマにおいても豊受大神は国常立命が輪廻転生されたと、はっきりと記されています。しかもここでは輪廻転生が肯定的にとらえられています。伊勢神道は、外宮神官が外宮の格を上げるために仕組んだものであり、ゆえに神道五部書は信頼のおけない偽書である、と烙印を押されています。しかし、伊勢神道とは全く別の系統ともいえるホツマの記述によって豊受大神と天照大神の関係が明確に判明し、それが伊勢神道において主張されていることと一致することを確認するとき、今まで、偽書扱いされていた神道五部書の内容が俄然、脚光を浴びてきます。筆者は以前にも述べましたが、直感的に、伊勢神道はもともとの伊勢神宮に伝わる教えを、即ち藤原氏=中臣氏によって簒奪されたそれ以前の伊勢に伝わる正しい由緒をや教えを、一部仏教や儒教的な表現を借りながらも再構築して、世に出したものであると思われます。ですから外宮神官渡会氏の私的利害によって新たな見解を世に出そうとしたものではないと確信します。であるがゆえに、神宮の祭式においても外宮先祭といわれるように、外宮が重視されているのです。
 ホツマが、明確に本来の神話時代の事実を示すものである、と認識されていなかった時代において、依拠すべき神典は古事記と日本書紀、および先代旧事本紀であったため、そこからは、外宮と内宮との本当の関係がわからなかったのは無理もありません。
 そして、瀬織津姫。記紀には一切登場していないものの、大祓祝詞にその名が掲げられているため、神道関係者の間でも謎の神とされてきました。その事績は一切不明であるため、本居宣長は禍津神(マガツカミ)と定義してしまいました。ホツマでは、天照大神の第一の后として登場します。伊勢神道の神道五部書においても登場する、伊勢神宮内宮荒祭宮の神、瀬織津姫、別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)その名の由来も判明します。 天照大神には、東西南北それぞれの局に三人の宮仕えを配していました。
 「東西南北(きつさね)の 局は替り 宮仕ゑ その中一人 素直なる 瀬織津姫の ミヤビには 君も階(きざはし) 踏み降りて 天下がる日に 向津姫 つひに入れます内宮に...」「その中でも特に素直な南の典侍(すけ)の瀬織津姫の慈愛に満ちた美しいお姿に、大君(天照大神)も強く御心を引かれ、ついに内つ宮(中宮)にされたのでした。その瀬織津姫は天下がる日に向津姫と称え名を賜りました。瀬織津姫が内つ宮に召しかかえられたので...」(鳥居礼氏『完訳秀真伝』より)
 瀬織津姫はあの八上姫の評判とも似通っているように思えます。
 この記述から、伊勢神宮や兵庫県西宮市広田神社の祭神が、天照大神の中宮、瀬織津姫であることが明確になります。
 この事実からも伊勢神道が外宮神官の私的な利害によって唱えられたものではないことがわかります。(神道五部書が偽りの書であると批判している学者の中に荒祭宮の祭神名が別名瀬織津姫とされていることを問題としたものはあるのでしょうか。また、渡会氏の利害とどう関わってくるか、その関係を果たして説明できるのでしょうか。荒祭宮祭神名の件に関して、渡会氏が社家の格を上げるためにわざわざ主張しなくてはならないことではありえないでしょう。
 ホツマは、今まで神道学者が見落としてきた重大な事柄についての疑問がいくつも解消されるような内容を有しているといえるのです。

 
 ホツマの内容検討によって、偽書であるか否かを明確にして、もし記紀より信頼できる書物であると判明したのならば、これまでの定説をすべて見直していく必要が出てくるのではないでしょうか。
  
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2008年03月30日

旧八頭郡 瀬織津姫を祀る社

 『鳥取県神社誌』であらためて旧八頭郡内の瀬織津姫を祀る社を確認しました。
 以下に記します。
 大江神社 旧船岡町
 湯谷神社 旧河原町西郷湯谷
 北村神社(日月宮) 旧河原町北村
 隼神社  旧船岡町見槻中
 舂米神社 若桜町舂米
 池田神社 若桜町池田中原
 麻生神社 旧郡家町私都麻生
 野町神社 旧郡家町私都野町
 美幣奴神社 旧郡家町私都篠波
 花原神社 旧郡家町私都花原
 東井神社 旧用瀬町用瀬
 諏訪神社 智頭町智頭
 虫井神社 智頭町大呂
 白坪神社 智頭町西谷 (単独で瀬織津姫のみを祀っています。)
 上市場神社 智頭町智頭(『県神社誌』には記載されていません。)
 旧八上郡内に計10社、旧八頭郡内全体で総計15社あることがわかりました。
 智頭町では、少し前、縄文時代の西日本最大の遺跡といわれる智頭枕田遺跡が発掘されており、古くから開けていた所であることが判明していますが、式内社が極端に少ないところです。
 
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2008年02月10日

祇園祭の瀬織津姫

 祇園祭については以、岩戸山で天照大神の男神像が祀られていることを紹介しました。
 ところで鈴鹿山という鉾には、瀬織津姫が祀られています。瀬織津姫は鈴鹿山にかつて出没していた賊、鬼を退治したという伝承に基づくものとされます。祇園祭の祭礼のときに姿を現し、男神天照大神と京の都にお姿を現しているのです。
 筆者にとっては、これは祇園祭のいくつもの鉾の中に紛らせて、本来の天照大神と瀬織津姫の関連を示そうとするものであろうと思えます。
 藤原氏の目をかすめて祇園祭の祭礼の中に密かに男神天照大神と瀬織津姫をたくみに祀ったのかもしれません。
 
 確かに藤原氏は、中臣氏出身であるとされながらも、伊勢神宮の祭祀を司る中臣氏とはまるで無縁なごとく、伊勢神宮への参宮などは全然行っていないようです。藤原氏が表向きに、元の出自が天児屋根命であるとするにしては、伊勢祭神との関連は全く感じられません。
 やはり中臣氏の中から藤原氏と名乗れたのは、鎌足、不比等の系統のみに限られたということに本来の中臣氏とは異なるという、重大な意味が込められているのでしょう。
 
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2007年10月09日

瀧原宮 三重県

 瀧原宮です。同じ形、同じ大きさの本殿が並べられ、向かって右側が瀧原宮、向かって左が瀧原竝宮(たきはらのならびみや)です。いずれも天照大神の御魂を祭るとされています。伊勢神宮の公式ホームページには「両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大神宮の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。」と紹介されています。瀬織津姫について最もよく研究された一冊の書『エミシの国の女神』(菊池展明著風琳堂)には、昭和3年に出された『神宮要綱』によると「伊雑宮、瀧原竝宮ともに皇大神荒御魂を祭る」と明確に記されているようです。すなわち、天照大神と、瀬織津姫がちゃんとそろって祭られている、ということなのです。八上において同一のライン上に天照大神と瀬織津姫ゆかりの伝承地、神社があるのも、単なる偶然ではないことがよくわかります。

瀧原宮
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佐久奈度神社 滋賀県

 中臣氏による大祓祝詞が作成されたのは、天智天皇のころで、この佐久奈度神社の地においてでした。ここは大石という地名ですが、「大石」とは、「お伊勢」から来た名前のようで、かつては京の都から伊勢へ参宮する際の禊祓いの場所とされていました。お社も昭和39年までは、すぐ脇を流れる川原の近くにあったそうです。

佐久奈度神社
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2007年09月17日

上私都 福地神社

 祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトです。位置関係は伊勢が平・白兎神社・賀茂神社・花原神社の東西ライン上にあります。野町村と土地の交換をした、とあることですが、どういうことでしょう。こちらにもともと瀬織津姫が祀られていたということなのでしょうか。

 以下は地図上での位置関係を記します。
 上私都麻生神社と福地神社、もとは木花咲耶姫を祀る社のあった中私都市場の宮田と、中私都篠波の美幣沼神社は同一ラインに並んでいるようです。同じく麻生神社と上私都落岩の山口神社と上私都明延の明延神社も同一ラインに並んでいます。上私都の日沢神社と野町神社、中私都下津黒の津黒神社、地図上に記されていないので推測ですが、中私都別府の別府神社、下私都山路の蓮徳寺、井古の井古神社も同一ライン上に位置するようです。

福地神社
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