2007年09月17日

中私都の市場神社

 集落の南側の山の麓にある市場神社です。祭神は応神天皇、神武天皇と木花咲耶姫です。元は木花咲耶姫は、元はかつて市場集落が現在地の北側にあったころ、宮田という字の所にあったのですが、洪水のために市場神社に合祀されたようです。以前にも書きましたが、瀬織津姫はしばしば木花咲耶姫に祭神名を変えられてしまうことがあるので、こちらももしかすると本当は瀬織津姫であったかも知れません。この市場神社は麻生神社、野町神社の夏至冬至ライン上に位置しています。その位置関係から、本当は元々ここに瀬織津姫が祀られていたのではないかという思いが強くなります。

市場神社
posted by yakamihakuto at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月31日

広田神社

 9月9日加筆(天武天皇崩御の日にあたります。) 平成20年2月3日加筆
 広田神社です。主祭神は天照大神荒御魂です。西宮の地名由来の大社です。
 広田神社神職の方のお話によりますと、元は現在より遥かに広い境内地を持っていたそうです。元の境内中心部は甲山の麓あたりであったそうです。えべっさんで有名な西宮神社や現在神戸女学院のある岡田山もかつては広田神社の境内だったようです。西宮市内には「神祇官町」という地名も残っていますが、かつてはそこに広田神社の神祇官が居住されていたようです。六甲山頂上付近には六甲山神社があり、この神社も広田神社の境外社であるそうです。このように、広田神社は、現在の町の姿を俯瞰しても想像できないくらいの大規模なお社でした。西宮とは都から見て西の方角にあることからそう呼ばれたそうです。世間一般には西宮とはえべっさんが由来と思われていますが、西宮神社は明治になってから広田神社から独立した神社なのです。
 
 天照大神の荒御魂を祀る社はそれほど多くはありません。祭神名は、またの名を撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイズノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)といいます。
 『日本書紀』には神功皇后に託宣を下した神として登場します。『倭姫命世記』にはこの名は出てこない代わりに、一名、瀬織津姫として記されています。
 
 ここで、筆者の思うことを述べます。試論的に書いていますのでご了承ください。
 伊勢神道は、内宮の荒木田氏に対抗するために、渡会氏が、外宮の格を内宮と同等レベルに引き上げようと意図して作られたものだという見解が支配的です。しかし、筆者は伊勢神道とはもともと伊勢両宮に古来より伝わるものであったのを、持統天皇と藤原氏によってかき消されてしまい、武士の台頭によって、藤原氏の勢力が弱まった鎌倉後期に復活したものではないかと推測します。
 もともと内宮と外宮の両宮の社家であった渡会氏は、持統天皇の御代に、藤原氏の流れをくむ荒木田氏に祭祀権を取って代わられ、渡会氏は外宮祭祀のみに奉仕する社家となりました。
 渡会氏は伊勢神宮の成立段階より両宮の祭祀に全面的に関わりを持っていたので、神宮成立の事情や、わずかながらに残されていた所伝を後の鎌倉時代に世に出すことができたのです。
 外宮優位、と評されるのは一点に尽きるように思います。すなわち、外宮祭神豊受大神は天御中主神、国常立命とご同体である、という主張です。これに関しては、ほぼ同様の所伝が、元伊勢の一つ、丹後一宮の籠(この)神社にも伝わっており、その意味ではこの説を渡会氏が単独で作り上げたものではないといえるでしょう。神宮では遷宮の様々な行事の際に根源的な神を示す「太一」の旗が掲げられます。「太一」とは中国的な表現ではあるものの、また、このような言葉でしか表現し得ない制約の下、神宮には根源神を祭祀していることを表す方途だったのでしょう。伊勢信仰とは御祖神(みおやがみ)=根源神への信仰でもあり、伊勢神道は伊勢両宮の神々への元々の正しい認識を明確に世に出したものであると思われます。
 
 また、渡会氏が内宮の祭神、特に荒祭宮の祭神名を瀬織津姫である、と明かすことには、相当な時代的な流れの読みがあってのことであるような気がします。記紀の編纂と時期を同じくする伊勢神宮内宮の荒木田氏=藤原氏系への社家変更の理由は、ここにあるのではないかと想像します。

 神宮司庁発行の『瑞垣(みずがき)』188号の皇學館大學名誉教授田中卓氏の「二所大神宮神主、渡会氏の隆替」という論文にも次のように考察されています。
 「荒木田氏が、度会氏に代って内宮禰宜に任命されたということは、神宮の歴史においては空前の出来事で、同氏にとっては格別の抜擢でありますが、同時にそのことは、旧国造であった渡会氏に対する中央政府のきびしい抑圧を意味するものでありました。大化改新以後、旧来の国造勢力はすべて中央集権化の試練に直面したのです。」 氏は、格調高い文体で、それに続いて、この件が伊勢神宮の祭式が整備されていく大きな契機になったことを述べています。
 
 続く持統天皇について、学研『日本の神道』(1993年)で不二龍彦氏は、あの青春出版社の創業者大和岩雄氏の説を紹介しながらこのように論じています。
「持統女帝の時代には、伊勢神宮を取り巻く状況に数々の大きな変化があった。それまで神宮の祭司を司っていた渡会氏が、トヨウケ大神を祀る外宮だけの禰宜に代えられ、アマテラスを祀る内宮の禰宜には、中臣氏系の荒木田氏が任命されたのである。
 この神主の変更は「皇大神宮の祭神の変更があったため」で、このとき、伊勢には新しい神が祀られたであろうとして、大和は次のように書く。
 「新しい神とは『天照大神』というヒメ神で、この革新を推進したのは、神祇伯の中臣大島と伊勢神宮の祭主の中臣意美麻呂であろう。大島は、即位した持統女帝をバックアップする意味で、皇大神宮の祭神(日神)を男神から女神に変え、この女神と女帝を重ねたのだ。...(『神社と古代王権祭祀』)」...たしかに持統女帝の時代には、神宮の神主の変更や、神宮最初の遷宮が行われており、伊勢に何らかの大きな動きがあったことは間違いない。また大和が指摘しているように、持統女帝は、唯一伊勢に行幸した天皇であり、これも意味ありげだ。」(p52「天照大御神」)
 
 また、持統天皇の伊勢行幸には三輪氏も自らの職をかけて反対されたという事実もあります。三輪氏には、持統天皇の真の意図が分かっていたのでしょう。
 
 上記の2氏(3氏)の論には書かれていませんが、おそらくこの時期に同時に内宮、荒祭宮の祭神名を伏せたのでしょう。男神天照大神の后神である瀬織津姫は「さすらいの神」となり、古来より祭祀を司ってきた中臣氏は、瀬織津姫を祀る佐久奈度神社においてその申し訳なさから、自ら作成した大祓祝詞に、記紀でも除外されてしまった瀬織津姫の名を記したのであろうと思われます。祝詞作成と時期がぴったり合うのです。
 
 神宮創始以来、祭祀を司る渡会氏にしてみれば、このような祭神の変更は当然認められないことです。
  
 天武天皇は台頭する藤原氏の勢力との緊張関係も考慮しながら、実に絶妙なバランスをとって様々な施策を実行していった希代な指導者であったように思えます。筆者が今のところ知りえている歴代天皇中で、最も優れた天皇のうちの一人であると思います。
 肉食禁止の詔や家畜動物の解放令=放生令(ほうじょうれい)の発布も日本古来よりの伝統が、おそらく大陸からの渡来系の氏族によって台無しにされ、秩序が乱されるのをくい止めようとしたのでしょう。都も「飛鳥浄御原」と、美しい名前をつけています。また、石上神宮に収蔵していた各豪族の神器を返還するなど、中央集権といっても、ちゃんと各氏族の主権を認めようとする姿勢が見られます。
筆者はこの事実から、伊勢神宮の社家を強引に変更したのは天武天皇ではなく、持統天皇と藤原氏であると確信します。また、天武天皇は、実は大陸の、あるいは朝鮮半島の○○氏である、とするような主張をネットで見かけることがありますが、実際の事績から判断すれば、神道の理念実現に向けて、祭祀の整備等を通じて日本の国づくりをしようとしていたことは明らかで、このような政策を渡来系の人物が実行しようとするはずがありません。
 現在も用いられている神職の階位の由来は天武天皇の発案に基づくものです。階位の名称は「明・浄・正・直・勤・務・追・進」の位階用語で、「浄(きよ)く明るく正しく直(なお)き心」を表しているようです。書紀には天武天皇の事績や人柄が描かれていますが、所々に挿入されている数々の唐突な「天変地異」の記述でかき消そうとしても、時宜にかなった適切な政策を打ち出し、情の厚い優れた方であったことを筆録者も否定しきれなかったようです。しかし、伊勢神宮を整備し、用明天皇のときに廃絶していた斎宮制度を復活させて、内親王を斎王としたにもかかわらず、天武天皇自身は伊勢神宮へは果たして行幸されたのかどうか日本書紀は、記していません。伊勢神宮整備の提唱者である天武天皇自身がまさか、私幣禁断を理由に参拝できなかった、とは考えられません。
 私幣禁断を楯にして、事実上、天皇、皇室の神宮祭祀を禁止し、わずかに徹底した精進潔斎をした皇女=斎王に年にたった3回、神宮での奉幣が許されるのみでした。(筆者は私幣禁断はやはり、持統天皇=不比等の時代から徹底されたのではないかと推測します。おそらく天武天皇以前の歴代の天皇は伊勢神宮への行幸をされていると思われますが、不比等の方針により、その事実を隠したのであろうと思われます。天武天皇の親王大津皇子はこの私幣禁断を破ったことを口実として処刑されたのでは、とする説もあるくらいです。)そして、皇后が持統天皇として即位して後は、ほとんど天智天皇に評価された藤原氏の思惑通りに事が進められていったように思えます。天武と、天智系の流れを汲む持統では、まったく対照的といっても良いぐらいの相違点が見られるように思います。にもかかわらず天武天皇と持統天皇が同じ墓所に葬られているのは、逆に何か作為的な不自然さを感じます。
藤原氏の都合のいいように、神々の教えを抹消し、皇室の祖先神および日本の歴史を歪曲した形跡の認められる『古事記』、史実の歪曲ばかりでなく中国の影響を受けた漢文体の『日本書紀』の記述はそのまま鵜呑みにはできません。記紀を仕上げた後、11種あった各歴史書を闇に葬りさったのも藤原氏でしょう。
そして、ほとんど現存していない各国の風土記も収集の後に各地に伝わる神々の伝承地に対して、それになんらかの圧力をかけ、あるいは手を加え、由来の伝わる神社の祭神をすり替えたのではないかと思われます。そして目的を果たした後に風土記をすべて消却したのかもしれません。
 藤原氏は何から何まで中国の制度をそっくり日本へ導入しようとしていました。筆者は藤原氏は中国系の渡来人であったのではないかと思います。
 因幡では、藤原氏に対抗する土師氏の影響力が強かったおかげで、白兎と天照大神伝承はかろうじて残ったのでしょう。本来、ほかの地域でも天照大神の伝承はもっと残っていてもおかしくありません。それが現在伝わっていないのは、それら伝承や文書がほとんどかき消されてしまったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 藤原氏の出自や立場に都合よく書き換えられた『記紀』は、その観点から裏読みをしていかないと真実は浮かび上がらないでしょう。ですから、『記紀』にこう書いてある、或いは記載されていない、などというのは、そのままではほとんど意味を成さないといってよいでしょう。斎部氏の『古語拾遺』以上に一氏族の利害に基づく書として批判的に検討されるべきものであり、間違ってもここに書かれたすべてを、国の正史などと捉えてはならないと思います。
 しかしいまだに、古代史学で『記紀』が価値基準とされ、そこから逸脱するものについてはいとも簡単に異端視、無視される傾向が強いようです。その影響力が今なお生き続けているように思えます。このような状況の下、古くから伝わる文書や伝承を表に出せない事情もあるようです。
 藤原氏の仕掛けた様々な策略の全貌を見据えた上での歴史検証はいまだなされていません。
 神社にしても今もなお「式内社」であるか否かで、社格を判断する傾向がありますが、これとて、天照大神を祭神とする神社の多くが、意図的に式内社からはずされており、また、その選定者が、改革者菅原道真を追放した藤原時平や、関白にまで上り詰めた藤原忠平であったことから、式内社であるか否かというその意義はほとんどありません。その価値基準に従っているうちは、藤原氏の罠にかけられたままといえるのではないでしょうか。このようなことが判明して後は筆者は、このブログで紹介している神社について、いちいち式内社か否かなど、全く考慮に入れていませんし、また、そのようなことを考える必要など今や全く感じません。
 祭神も元は天照大神だったのを出雲系の祭神にして、あたかも国津神系と天津神系との勢力争いによるものであるかのように偽装したのではないかと思われる節もあります。
 本来日本神話には記紀に描かれているような非和解的な天津神と国津神の争いなどなかったようです。天穂日命がその証です。この神は天津神であり、国津神であります。須佐之男命も同様で、二つの系統に無理やり分けようとする発想自体に無理があります。
 このように一つ一つの事実を総合してみると藤原氏は天照大神を皇室からも民衆からも切り離そうとした張本人であるように思えます。
 これら筆者の推論をさらに補完する証拠として以下の事実もあります。
 山村孝一氏は「和歌と政治と神祇信仰は互いに密接な関係にあった」と指摘しています。万葉集に所載の和歌にも初期のころの和歌には「神風の」という枕詞と共に伊勢神宮を詠まれる歌があったのですが、ちょうど不比等の時代より約300年間にわたってこの「神風の」が一切残されている和歌集には出てこなくなりました。その後鎌倉時代になって再び、この枕詞が使われるようになったようです。
 不比等とその継承者の基本思想は明らかです。また、藤原氏が神祇の一切を掌握したことから、これに反発して仏教を奉ずる人たちが急速に増えていった様でもあります。よかれあしかれ、これもある意味で藤原氏の思惑通りでしょう。
 藤原不比等によって、藤原京で律令制が701年大宝律令として、本格的に整備されました。中国の制度を模倣した律令制度により日本に初めて身分差別の制度が導入されました。これはおよそ、それ以前の日本社会から内在的に発生したとは到底考えられない、いわば突然変異であり、大陸的な発想に基づくものと思われます。「五色の賎」の中に天皇の陵墓を守護するほかとは異なる世襲制の「陵戸」を創出していることから、この身分制度の創案者は、皇室ならびに皇室の縁戚・関係者を貶めようという悪辣な意図を持っているように筆者には思えます。この身分制度の制定者の名は歴史学者によって特定されいませんが、養老律令を作成した藤原不比等であると断定できるでしょう。なお、701年大宝律令が完成してから実際に藤原氏によって、757年に制定されるまで実に50年以上、718年養老律令からでも40年かかっていることは、そこに含まれる差別的な身分制度に多大な非難を浴びせられたからではないかと筆者は推測します。
 藤原氏の氏寺、奈良の興福寺の北東にはかつて「奴婢門」と呼ばれる門が存在し、多くの「奴婢」を抱えていたことから、彼らが積極的にこの身分差別を肯定し、導入していたことがよくわかります。興福寺のある場所は平城京の一部として、藤原氏の拠点とされた所です。長方形の碁盤の目の都の北東部分の、小高い丘陵地から天皇の御所を見下ろす位置にあり、都の形をいびつにしています。興福寺境内は中臣氏の氏神神社である春日大社を封じ込めるような位置関係にあります。
 また興福寺に限らず、古代の渡来系氏族の作った古代寺院には決まって奴隷制が導入されていたようです。
 このような身分制度は断じてあってはならないものです。しかしその後、この悪魔的な発想に基づく制度は、日本社会の中で何らかの勢力によって断続的に利用されてきたようです。このような何の根拠もない、一部の氏族による極悪な発想などに囚われる必然性など全くありません。人を貶めるあらゆる差別は、差別される側にも差別する側にも不幸をもたらすだけです。
 中臣氏は古来より斎部氏とならんで祭祀を司る系統の氏族です。しかし不比等の父、藤原鎌足は、先に述べたように、渡来系ではないかと思われます。これが、藤原氏がその後執拗に皇室との縁戚関係を結んでいった要因かもしれません。天皇の権威を利用し、ほしいがままの政治支配をして、ライバルの氏族を次から次へと追い落としていった藤原氏の横暴ぶりの片鱗は、高校の日本史教科書にも載っているとおりです。
 その横暴を止めさせようとした菅原道真が左遷されたことはあまりにも有名です。大江匡房も藤原氏の腐敗した政治を改革した人物です。菅原氏も大江氏も共に天穂日命を祖とする土師氏系です。明治になって身分差別制度の廃止に尽力した偉大な人物の名も偶然にも大江卓です。
 土師氏は藤原氏によって貶められようとしたのではないでしょうか。それが、桓武天皇へ姓の変更を申請した理由ではないかと筆者は推測します。「五色の賎」は菅原道真の頃に制度としても廃止となったようです。おそらく菅原道真が廃止を決定したのではないでしょうか。あるいは10世紀初頭ともいわれますから、時期的にも藤原氏が菅原道真の怨霊に恐れをなした頃に廃止になったということになります。これら時期の一致は偶然とはいえないでしょう。
 もちろん、藤原氏といってもその中の一部の勢力であり、全てを一括りにしてはなりません。(また、当時の「藤原氏」と、現在の「苗字の藤原氏」とは無関係です。)たとえば当麻寺と縁の深い中将姫は血塗られた藤原氏の贖罪のために生まれてきたと思えるほどのたいへん苦労された高貴な方で、数奇な運命をたどりました。藤原氏出自の純友も中央の横暴に対して反旗を翻した人です。同一氏族の内部からもその横暴を食い止めようとする人物も生み出しています。
 
 
 このような背景を前提とすれば、長年にわたって神宮の祭祀を担っていた渡会氏から伊勢神道が生まれてきたのは必然的であるといえるでしょう。
 その後、渡会氏と荒木田氏は想像を絶する対立・拮抗関係を持ちつつも、祭祀においては協調的な姿勢をとっていましたが、明治になって社家の世襲制は廃止されます。
 
 伊勢神道の教えは日本人の心に響くものです。
 「日月は四州(よも)を廻り、六合(くに)を照すと雖(いえど)も須(すべから)く正直の頂きを照すべし」(倭姫命世記)
 正直であること、清く生きることを生活信条とする非常にわかりやすいものです。古くから世界的に有名な日本人のずばぬけた道徳的精神の高さの根拠がここにあります。
 記紀の編纂および、他の文書の焚書・私幣禁断制度によって、形の上で消滅・断絶させられた伊勢の教えは、日本人の心の奥深くに刻み込まれていたため、藤原氏がどんなにその教えを毛嫌いしてなくそうとしても日本社会から消すことはできなかったといえるのではないでしょうか。
 
広田神社

広田神社
















中将姫 奈良 葛城 当麻寺境内

中将姫
posted by yakamihakuto at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月17日

私都 瀬織津姫を祀る社4

8月21日加筆
麻生神社
 祭神は経津主命、倉稲魂命、大山祇命、瀬織津姫です。郡家町誌には「創立年月日は不詳であるが、伝承によれば大治年間(1126〜1130)木曽義仲の浪士が来て、経津主命を祀って氏神としてより始まる。」とあります。
 
 私都(きさいち)にある計4社の瀬織津姫を祀る社についてみてきましたが、いずれも、明治期になるまでは摂社で祀られていたようです。しかし、それぞれ、もともとは社の創立の時点より、主祭神として祀られていた可能性が高いように思えます。御幣沼神社についてはよくわかりませんが、ほかの3社はいずれも、集落が成立して以降、何らかのきっかけで、主祭神を本殿に祭り、瀬織津姫を摂社に祀ったであろうことがうかがえます。摂社祭神は本殿主祭神との関連をもつ神であったり、もともとその社で主祭神として祀られていた神です。
 私都谷に偶然にも瀬織津姫を祀る社が4つもあるというのは、重要な意味があるように思えます。私都は私部(きさいべ)であり、后の世話をする人たちの本拠地で、その名が残っているのは、全国に数箇所しかありません。
 筆者は、八上の私都の名の由来は、天照大神の后神といわれる瀬織津姫ではないかと推定しています。ほかには、伯耆に行宮された可能性大の孝霊天皇、賊退治で来られた景行天皇、八上に行幸された応神天皇、後醍醐天皇、それぞれの皇后も可能性として考えられます。もちろん、大己貴命の「后」=八上姫も関連するかもしれません。ただし、私都谷にある神社で祭られている女神は木花咲耶姫(市場神社1社)と瀬織津姫に限られます。しかも瀬織津姫は木花咲耶姫、と祭神名を変えられてしまうこともあったらしいので、当初は市場神社も瀬織津姫を祭祀していた可能性があります。智頭町の上市場神社の祭神が瀬織津姫であることからもその可能性が高いのではないかと思われます。智頭町の虫井神社は大江氏が祭祀を司っていた時期もありますが、この瀬織津姫を祀る虫井神社が、赤倉神社のほぼ真南に位置していることから、大江氏はその関係をちゃんと知っていたのでしょう。筆者は、大江氏は、藤原氏による瀬織津姫隠しに対抗していたのだろうと思います。
 また、瀬織津姫はその名からもうかがわれるように機織とも関係しており、上私都のこの麻生という名も大いに祭神と関連する地名です。隣の国府町にも麻生という地名が残っています。
 もし、瀬織津姫との関連で私部という名がついたのであれば、全国の私部の中で、最も古い由緒を持つものになります。
 ところで、伊勢神道の教典とも言える神道五部書は江戸時代、吉見幸和という一学者によって偽書であると烙印を押されてしまいました。偽書か否かは単なる一学者の、それも数百年も前の見解であるわけですから、当時としての歴史的被制約性もあり、見直されていくべきだと思われます。『元初の最高神と大和朝廷の元始』を著した籠神社先代宮司の海部穀定氏もその著作の中で、神道五部書への吉見幸和の検証がずさんなものであったことを述べています。
 既に神道五部書は、元伊勢の研究においても論拠とされています。また、教義の全く伝わらない神道の、わずかながらでも神の教えの説かれた書物として、現在重宝されている点からして、重要なものであるといえるでしょう。すでに国学専攻のいくつかの大学では、ちゃんと研究の対象としてシラバスにもその名が挙がっています。その内容に他書では見られない論が展開されていることから軽々しく偽書、と一言で片付けられるものではないことは明白です。藤原氏の台頭による史書の改ざんの可能性の高い時代的背景を考慮するならば、わずかながらも残された伊勢祭神について記された記紀その他の書物からの情報をも集成した『倭姫命世記』を、たいした検討をくわえずに偽書とするのはあまりに性急な判断であると思います。
 その神道五部書の一つ、『倭姫命世記』は伊勢神宮内宮の荒祭宮に祭られている神について、またの名を瀬織津姫、と明確に記しています。これに基づけば、天照大神の荒御魂を祀る荒祭宮、および、阪神タイガースが毎年必勝祈願をする兵庫県西宮市の広田神社も、実は瀬織津姫を祀っていることになるのです。実は戦前の広田神社発行の由緒書きには祭神の別名が瀬織津姫であることがちゃんと明記されていたそうです。大祓祝詞と『倭姫命世記』にわずかに名を残し、『古事記』・『日本書紀』からは意図的に除外されたとみなされる瀬織津姫は、日本の神話の真相を読み解く上で、重要な鍵を握る神です。おそらく記紀の成立と前後して、瀬織津姫を祀る全国の神社になんらかの圧力がかけられたものと思われます。その神を集中的に祀る私都の人々は、祭神を守り通したといえるのではないでしょうか。
鳥取市桜谷に桜谷神社がありますが、瀬織津姫を祀っています。瀬織津姫は桜の神でもあるようです。
 
 こうしてみると因幡の神社や神話伝承にはこれまで謎とされてきた日本の神話をひも解くヒントが多く残されている、といえるでしょう。

麻生神社
posted by yakamihakuto at 23:39| Comment(8) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私都 瀬織津姫を祀る社3

野町神社
 祭神は瓊瓊杵命、瀬織津姫、大山祇(おおやまずみ)命です。
 郡家町誌には「創立年月日等不詳であるが、伝承によれば、本村はもと諏訪に在り、十一月初旬にわかに大風が吹いて大空に飛ぶものがあった。村人が仰ぎ見ている中 東方の巨巌の上に落ちた。村人が行って見ると瓊瓊杵命と書いた大麻であったので、現在の福地字白磯山中腹の岩石を社地に定めてその上に祀って天降大明神と号し毎年十一月初の卯の日を祭日とした。その後、福地村と土地交換したので現在地に移した。・・・明治元年祭神二座を合祀し村社野町社となり、明治六年野町神社となった。」とあります。

野町神社
posted by yakamihakuto at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私都 瀬織津姫を祀る社2

御幣沼(ミテクラヌ)神社
 私都谷の式内社で、祭神は天太玉命、瀬織津姫、保食神です。『郡家町の地名』によれば「天太玉命が、水辺の地で波立っている所に笹舟に乗って波を鎮めながら到着されたという古事に因んで、篠波と名づけられた」という説と、笹が見事に生えていて、風が吹くたびにこの笹が波の如く揺れているのに因んで付けられた」、という説があるようです。
 郡家町誌には「仁寿元年(851年)辛未には正六位となり醍醐天皇延喜五年正月十五日怪異があったので奉幣があり、四月二十四日も彗星が出現したので奉幣があった。」とあります。もともとの主祭神は天太玉命一神で、瀬織津姫と保食神は境内摂社に祀られていたのを明治元年に合祀したようです。
 手水鉢には雨乞願の文字が彫られています。隣の国府町に雨乞いのかさ踊りが伝わっているように、(現在のしゃんしゃん祭りの起源です)この私都でも雨乞いの神事がしばしば行われていたのでしょう。
 しかし、道案内の看板一つなく、社地には由緒書きも一切なくせっかくのお社が、その意義もわからぬ状態であることにはいつものことながら残念な思いが募ります。

ミテクラヌ本殿
posted by yakamihakuto at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私都 瀬織津姫を祀る社1

8月21日加筆
花原神社 
 祭神はスサノヲノミコト、応神天皇、瀬織津姫命です。
 郡家町誌には「創立年月日は不明だが伝承によれば、当村は元来山あいにあるので風通しが悪く、作物の虫害が多かったので応永年間(1394〜1427)虫除のため、スサノヲノミコトを勧請して守護の氏神としたのである。」とあります。
 集落の歴史がどれくらいなのかがよくわからないのでなんともいえませんが、集落が成立したのと同時に、鎮守の社も建てられたはずです。由緒から推測しうることとして、応永年間以前から集落はあったことが分かります。そしてスサノヲノミコトが勧請される以前は主祭神として、瀬織津姫と応神天皇が本殿に祀られていたのではないでしょうか。
 そしてこの社地は、賀茂神社と白兎神社をはさんで見事に、霊石山伊勢が平の真東に位置しています。かつては伊勢が平に社があったわけですから、天照大神と瀬織津姫が同一の東西ラインに祭祀されていたのです。いや、伊勢が平そのものが天照大神の斎庭(ゆにわ)なので、今も瀬織津姫と天照大神はこの八上の地で同一のライン上にその神蹟を残しているのです。おそらくこの社は伊勢が平の方向へ向いているように思えます。福地神社も同一ライン上に位置していますが、ここではイザナギ・イザナミノミコトを祀っています。

花原鳥居






















花原社殿 























花原由緒




















posted by yakamihakuto at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私都ライン

 瀬織津姫を集中的に祀っている(計4社)私都谷にあるいくつかの神社(およびお寺)は一直線上に並んでいます。
 瀬織津姫を祀る上私都の麻生神社と日沢神社、瀬織津姫を祀る上私都の野町神社、そして中私都の市場の市場神社(祭神木花咲耶姫・神武天皇) 下私都延命寺の貴船神社 下私都の諸木神社 下私都峰寺日本三大薬師の峰寺薬師がほぼ同一の夏至冬至ライン上に並んでいるようです。或いは私都谷自身が夏至冬至ラインにぴったり位置しているといえるでしょう。
 瀬織津姫を祀る下私都の花原の花原神社は霊石山山頂、伊勢が平、福本白兎神社、宮谷の賀茂神社のほぼ真東に当たります。
 同じく瀬織津姫を祀る中私都の篠波御幣沼神社の夏至冬至ライン上に、宮谷の賀茂神社が位置していることは以前指摘したとおりです。
 ペンタクロスさんのホームページでは、夏至冬至ラインではなく五角形の幾何学的配置に基づく考察がなされています。
posted by yakamihakuto at 14:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。