2008年12月26日

八上 冬至 日の入り

 八上 福本の白兎神社からの冬至の前日の日の入りの写真が八上出身の方から届けられました。ありがとうございます。
 ちょうど河原の賣沼神社方面へと西の日が暮れていきます。西の日天王とはここを基点に生まれた呼称だろうと、郷土史研究家の新誠さんは指摘しています。
 これからいよいよ八上 白兎神社復興へ大きく前進します。
それにしても、写真に写っている一番上の雲が白兎の顔に見えるのは私一人だけでしょうか。


冬至 日の入り
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2008年11月29日

ふたたび宮谷の賀茂神社

 御旅所について、筆者は誤った認識をしていました。ここに訂正させいただきます。
 八頭町宮谷の賀茂神社には、御旅所跡があります。ここは、祭礼のとき、賀茂神社の神輿が渡御したところです。御旅所がかつてあった神社とは、庶民の信仰の厚かった神社であることを示します。そこには胞衣塚の跡もあります。胞衣塚は古来、それを埋めることによって、災厄から守られるという信仰があったようです。ところで、その位置が白兎夏至冬至ライン上にあることから、この胞衣は八上に生誕された高貴な方の個人的な胞衣塚とみなすことはできないでしょうか。八上生誕の高貴な方となると、やはり一番思いつくのは八上姫です。福本70号墳はこの胞衣塚の真西に位置しており、非常に関連性があるといえるのではないでしょうか。
 郡家町誌の賀茂神社の項には、こう記されています。「創建年代は不明であるが、古文書の一つである、文明三年(1471)六月付の「賀茂大神宮」によれば、家伝に鳥居日向守の祖先が山城国(京都府)の賀茂大神宮をこの地に移すとある。この地とは宮谷字細谷の経塚の南の平地であるという。その後日向守重宣なる人が歌学専修業の途次、、当地で大雪に逢い、重賢に頼り、八年逗留して重賢の女を娶って当所に永住した。そのために山城国の県主(重宣の父)に依頼して神領を給与された。これは朱雀天皇(930〜945)の時であったという。なお、天暦6年(952)日付の棟札写によれば高橋庄兵衛(卯歳)の名で「奉建立本堂一宇字社内安全脩 湯口安左衛門九月吉日」とあり。このときに本殿が建築されたのである。次に古文書の第二、賀茂大明神曰謂(えつい)書によれば神領二百石あったが、羽柴秀吉来伐の時、古文書等宝物皆焼失して今残存しているのは高麗犬と古名だけである。

 それから、奥宮の京賀里から今の地に移転した。
この京賀里とは京都の賀茂大明神をこの里に遷祭したことを伝承したものである。次に第三の古文書『賀茂祖皇太神宮録記』によれば天平壬申年(732)夏、大干ばつで五穀皆枯れて稔らなかったので農民が非常に憂慮した。その時賀茂別雷太神宮の神託があったので山城国愛宕郡の上賀茂の別雷尊を稲葉(因幡)のこの里に移し祭ったので、その後は五穀も豊かに稔り村中繁栄したという。
 天降別雷神乃神代与利天津日継者不絶計里(あまくだり わけいかづちの かみよより あまつひつぎは たえずありけり)鳥居日向守重宣(筆者注:賀茂神社宮司)
 さて、天平4年賀茂別雷神を勧請して帰り、休息した地を御生地(みあれのち)としてエナ塚という。
 現在育英小学校の前で、用水路が三つに分かれているので俗に『三ついで』という。ここから東方100メートル余の所に石の鳥居があったが、現在は宮谷村入り口近くに移転した。
『三ついで』の一つは私都川の方向(北西方)に流れる。他の二つは郡家方面(南方)に向かって流れる。この中間の川を足洗い川(俗称あらいで)という。別雷神を奉持して帰国した供人が手足を洗った所である。これから上流の奥谷、下坂、井古村のあたりははるか上流の市場堰八上堰の流末であって旱害(干害)の多いところで、水不足の年毎に雨ごいをした...。」
 「大神宮」という呼称からも、やはり非常に格の高さを感じます。

ちょっと不思議なお話があります。
 実は筆者は約10年前の夏のある日にこの賀茂神社に参拝したとき、境内である白装束の老女と出会いました。その方はなんと兵庫県の佐用町からタクシーを使って連日この賀茂神社へ参拝に来ているということでした。理由を尋ねると、この賀茂神社に現れる女神に呼ばれているからだそうです。拝殿のほうを見て、「あそこに神様が見えませんか。」と言われて、見てみましたが、当然、私には何も見えません。
 しかし、この老女にははっきりと見えているのです。その女神とはコノハナサクヤ姫、トヨタマ姫、イチキシマ姫、ミズハノメノ神、瀬織津姫、または素兎=八上姫なのでしょうか。
 このようなことがあったことも筆者が賀茂神社がただならぬ神社であると思った理由です。
 
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2008年10月23日

山蔭神社

 八頭町西御門の通り谷の手前にある山蔭神社です。国道29号線からも鳥居は見えます。(筆者は小さい頃からこの神社へ行ってみたいと思っていました。)
ヤマカゲと読むのでしょう。鳥取県神社誌によれば、祭神はオオヤマズミノミコトです。 創立年代は不詳で、往古より山蔭大明神と呼ばれていたそうです。太平記に登場する神社で、「元弘三年後醍醐天皇が…山蔭の東に進ませ給ひし由記せり、山蔭は即ち当社の事なり。」と記されています。
 山陰「サンイン」とは音読みであり、元は「ヤマカゲ」であったろうと思われます。ちなみにホツマにもこの地方のことがヤマカゲとして登場しています。
 山陰地方に山蔭神社は果たして他にあるのでしょうか。他に無いとすれば、この地はやはり重要なところであったとはいえないでしょうか。このあたりにはかつて円入寺という大伽藍を持つ寺院もあり、ここと郡家殿の和多理神社に後醍醐天皇名和長年一行は行宮されました。当時の和多理神社の大川神主は出自は熊本であるそうです。旧八東町に阿蘇神社(本社は熊本)があることとあわせて注目に値することです。
 円入寺にて後醍醐天皇が大川神主をしてナギナミ二神を勧請して勅願されたその札は、今も和多理神社に保管されているそうです。

 

 

山蔭2


















山蔭1
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2008年08月05日

スローライフ イン八頭町

8月14日加筆

スローライフイン八頭町の催しの詳細が報告されています。パネラーの新さんからのお話によると、八頭町長も挨拶にこられ、史跡見学には40名近く、パネルディスカッションには60名くらいの方、参加されたそうです。今後の、八上の町おこしの大きなきっかけとなったと思います。
  その後、別のコメントも発見しました。そこには、民家の鏝絵の写真も紹介されています。

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2008年07月18日

スローライフイン鳥取 八頭分科会

スローライフイン鳥取の八頭分科会の紹介が掲載されている主催者側ホームページがありました。福本の白兎神社の写真も紹介されています。因幡のシロウサギも、ますますそのルーツが明らかにされそうです。

 郷土史研究家の新誠(あたらしまこと)さんもパネラーとして参加されます。 
皆さん、分科会に出かけましょう。
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2008年05月09日

賀茂神社祭神と堤

 八頭町宮谷には創建年不詳の賀茂神社があります。白兎神社と東西ライン上の位置にある賀茂神社ですが、以前は、上賀茂社と下賀茂社に分かれていたそうです。
 主祭神は瓊瓊杵命と木花咲耶姫命の夫婦神 彦火火出見命と豊玉姫命の夫婦神 別雷神です。
 合祀神は、素兎神、須佐之男尊 天児屋根尊 
天穂日尊 猿田彦尊 ミズハノメ尊 倉稲魂尊 誉田別尊 市杵島姫尊 です。
 筆者はこのゴールデンウィークを利用して、この上賀茂社跡へ行こうとしたのですが、その場所はついぞわかりませんでした。次回はよく場所を調べていくつもりです。賀茂神社の由緒書きには、旧社地の写真が紹介されています。そこは平安時代、末法思想の流行したときに埋められた経筒が掘り出された京ヶ塚という地名がついています。
 結局、麓から約30分かけて山の頂上まで登りつめて、私都や大御門方面、霊石山を眺望したあと、南へ尾根伝いに下り、堤の所へ下りてきました。宮谷には大きな堤が5つあります。そのうちの一つには土手に燈篭があります。
 賀茂神社の主祭神は瓊瓊杵命(ニニキノミコト)ですが、どうやらこの5つの堤と祭神とは密接な関連があるようです。 
 ホツマによれば、瓊瓊杵命(ニニキネノミコト)は人々の生活を豊かにするため、特に稲作を発展させるために、全国を回られて各地で農耕の指導をして、特に水利の不便な村々には、井堰や堤を造られて水不足解消に大きな貢献をされたそうです。ホツマにはその瓊瓊杵命の行幸ルートも紹介されており、文面にも、はっきりとヤマカゲ(山陰)を行幸されたことが記されているのです。山陰の地名が相当古いものであることもわかってきます。堤の土手に立つ燈篭は祭神への畏敬・感謝の気持ちを表しているように思えます。
 筆者は宮谷のこの堤すべて、またはそのうちの一つは、おそらく瓊瓊杵命がここへおいでになったときに造られたものであると思います。高田さんや、井関さんという苗字の方も八上にはおられますので、ご先祖をたどると、案外この新田開発をされた瓊瓊杵命と縁があるのではないでしょうか。宮谷の一番南にある堤の隣には前方後円墳があり、遠くからもその後円部の形がよくわかります。墳丘の一部は地元名産の二十世紀梨の果樹園となっています。
 こんなことを主張する人は今まで誰もいなかっただろうと思いますが。記紀ではこのようなことは全くうかがい知る事ができません。やはりホツマによって、様々な結びつきが判明してきます。
宮谷 堤















燈篭の後方にある山が霊石山=中山で、天照大神が八上の白兎と遭遇した辺りです。

堤 灯篭
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2008年04月09日

正夢になるかも

 
 5月12日加筆
 少し前に筆者は夢を見ました。
 福本の白兎神社は、因美線郡家駅から至近距離にあり、車窓からも神社を見ることができます。もちろん、今は小さな祠と御神木と鳥居、案内看板だけのひっそりとしたたたずまいです。
 因美線は関西と山陰を結ぶ幹線となっており、あの人気の智頭急行スーパーはくとが毎日二十本も通過しています。しかも特急停車駅の郡家駅の近くではゆっくりと走っています。 
 このロケーションを活かして白兎神社に、因美線を走る列車の車窓からもはっきりと見えるような「八上 白兎神社」と銘打った大きな看板が設置されている夢を見ました。これは近い将来実現し、正夢になるのでは、と密かに期待しています。
 そして天照大神伝承の伝わる若桜へとつながる若桜線も、再び活気を取り戻せるのではないでしょうか。郡家駅の隣の河原駅も霊石山に一番近い駅で、米岡神社は目前の位置にあります。白兎伝承は天照大神の行幸伝承とセットであり、自治体の枠を超えて盛り立てていくべきものと思います。
 スーパーはくとの利用客が目にする看板の効果は絶大なものとなるでしょう。白兎神社再興もそう遠くない将来に実現すると思われます。
 
 と思ったのですが、十数年ぶりに郡家駅から、スーパーはくとに乗って以前とは景色がぜんぜん違うことにはたと気づきました。そうです。なんと、郡家駅周辺は新興住宅が立ち並び、駅から白兎神社が見えるロケーションは極めて限られていることに気がつきました。こうなると、神社自身は駅からほとんど見えませんので、せめて、案内看板を設置できれば、と思います。
 
スーパーはくと at 郡家駅




















郡家駅より白兎神社遠望
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2008年02月17日

井古(イゴ)

 2月23日加筆 
 八上の地、天穂日命を祀る土師神社は以前紹介しました。この社は、稲荷(稲生)という集落にある神社で、白兎ラインの北東の始点に位置しています。
 その隣には、井古(いご)という珍しい名前の集落があります。ここは私都谷への入り口にあたります。八上には、「以後(いご)さん」という苗字の方もおられます。
 郡家図書館所蔵『郡家町の地名』によれば「日本地名大辞典は『当地方で土地の落ち込んだ場所を(いご)と呼ぶところから地形による命名と思われる』とあるが、鳥取地誌考ではいごはえごと同義語としてとらえた上で「いご・えごは因幡では、井古、以後、囲碁等の字が当てられており…山間小支谷の低湿地とされている。」と解明されている。また、慶長年間頃、私都川下流部の石田百井村の井古田から難を避けて移住してきた人々によって開拓されたという伝承がある。」石田百井の井古田の項では、「私都川沿いの低い土地であることから生じた地名であろうか。」とあるのみです。
 
 皇學館大學名誉教授で、八坂神社の宮司を長年務められ、現在は住吉大社の宮司を務めておられる真弓常忠氏の『祇園信仰』(朱鷺書房)にはこのように記されています。
 妹(いも)という呼称について『妹とは元来は「忌(いみ)、斎(いつき)」と同義語でありました。・・・かつて賀茂社に「忌子(いご)」という司祭の巫女がありまして、皇女の内親王をもって斎院が定められるようになったのは、この「忌子」なる巫女の古制を受け継いだものでした。...祭祀にあたって、ひたすら忌み籠った女性の立場より生じたものと思われます。男性の首長に対して、二親等の女性(多くは年下の)が司祭者、即ち「妹・斎・忌」となって神事に奉仕したため、肉親の年下の女性を「妹(イモート)」と呼ぶようになったのでしょう。』とあります。井古とは「忌子」が由来なのかもしれません。
 続いて采女についても考察されています。『采女といえば、大嘗祭で天皇のお側近くお手伝いする役目がありました。...大嘗祭における悠紀・主基両殿の儀は、夕御饌は亥刻(午後十時)、朝御饌は寅刻(午前四時)でした。それは陰暦十一月卯日ということでしたから、元々は冬至の日であったでありましょう。冬至の日の亥の刻といえば太陽の最も衰えた時刻、そのときに忌み籠って日神(天照大神)の霊威を体し、暁の寅刻再び稲魂をいただかれて日神とご一体となられてこの現世に顕現される、それが日継ぎの御子でした。この大嘗祭における天皇、言い換えるならば新生の穀童であるニニギノミコトの生誕を見守り、養育申し上げる役目を負うたのが采女でした。采女には国造の子女を宮廷に派遣していました。国造は言い換えるなら国々の国魂の神の体現者であり、国造の代わりに宮廷の祭祀に仕えて、天皇、すなわち日継の御子の霊威をうけて国々に稲の実りをもたらす使命を帯びていました。だから采女が新嘗祭に奉仕したのです。』
 采女といえば因幡で有名なのは八上采女と高草采女です。優れたシャーマンとして名高い八上姫の血統を引いていることから、因幡出身の采女はハイレベルの采女として、後世においてもたいへん重要視されていたのではないでしょうか。ほかにも伊賀国、常陸国、上野国などの采女が有名です。
 真弓氏は続けて述べています。『そうした采女の制度は、...律令制の施行とともに形骸化してまいります。それが藤原京の時代でした。かつて、飛鳥時代においては、文字通り采女が袖を翻して飛鳥の都の内外を行き来していました。持統天皇の御代、藤原京に遷るとともに、そうした飛鳥京は遠くなりました。...あの天武天皇の御代の飛鳥時代までの伝統的な風習は急速に失われていきます。...采女が袖を吹き返していたというのは、神々の祭祀が第一義として行われていたことを意味します。そこに采女の立場があります。言い換えるなら斎女・忌子・斎祝子といった「妹」、つまり神に仕える女性の立場です。高松塚古墳に描かれているような飛鳥女性像を想像していただいてよいでしょう。そこには豊かなロマンが感じられます。』
 采女については、その評価が様々なようです。天皇、皇后の身の回りの世話をする、ということでは、あの私部(きさいべ)とその役割は類似しており、八上の私都(きさいち)の地名とも符合するといえるかもしれません。
 大嘗祭の行われる日が卯の日であることや、冬至の日とも関わっていること、なにやら八上の伝承や遺跡の地理関係(白兎の夏至・冬至ライン)を想起させます。白兎夏至・冬至ラインの北東の端に位置する八上の「井古」とは、采女、および、因幡・八上の巫女達の精進潔斎の場であったのかもしれません。
 古くから八上姫の故郷として祭祀が盛んに行われていたであろう土地柄だったことなどから、そのような地名や、何等かの痕跡があってもおかしくはないと思います。

 
 真弓氏も指摘しているように、やはりここでも持統天皇の背後にいた藤原氏が神道の伝統を踏みにじったことがうかがえます。
 
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2007年07月31日

白兎神社再興

 白兎神社をはじめとする八上の伝承や遺跡は、しっかりと顕彰されていくべき段階が近づいてきているように思えます。地元でも、何か動きが出てくるのではないかと、ひそかに楽しみにしている方が少なからずいらっしゃることも聞いております。昨年のイナバノシロウサギ講演会でも100名を超える方が集まったのですから。
 神社再興など、特に信仰に関することは公的な機関では、取り扱いが難しいものです。奉賛会のような組織が結成されると良いと思います。八上の波兎が、新たな潮流を運んできてくれそうです。

福本波兎
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2007年07月27日

天王木

 書籍の中の白兎ラインの地図に新たに記載している天王木です。この北東数百メートルの地点に福本の白兎神社が、そして、南西数百メートルの地に池田の白兎神社があるのです。天王という名は、ここと、南西ライン延長上の売沼神社に西の日天王として残っています。
 筆者が八上に住んでいたとき、この天王木の前を通るたびごとに、何かあると思っていたところですが、まさか、後にこの地を紹介することになるとは思いもよりませんでした。ご神木の下には以前は小さな祠がありました。

天王木
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2007年07月25日

福本 白兎神社由緒

 福本白兎神社の由緒書きです。
 神社に参拝して由緒を知ることができることは大切です。
 どんな小さな社であっても必ず祭神名と簡単な略記が記された看板またはパンフレットは、必要だと思います。

福本白兎神社由緒
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2007年07月18日

猫山(根子?山)と野々宮

 八上富士とも呼ばれる猫山です。和多理山ともひつち山とも言われます。山頂から西御門のオオイチョウと旧船岡町上野の野々宮神社そして下濃の野々宮神社とはほぼ一直線上に並んでいます。
 野宮神社はもちろん、京都の嵯峨野、伊勢神宮斎王のための特別な社であり、地方に勧請される性格の社ではありません。グーグル検索しても、野宮神社の分社は、極めてわずかです。
 猫山の神=和多理神社祭神は託宣によって後醍醐天皇の隠岐脱出を導いた神であり、西御門は、後醍醐天皇が命名された行宮の地で、そこには後醍醐天皇の内親王の墓所と伝えられる所に大銀杏があります。その先にある2つの野宮神社とは、本来、内親王の中から選ばれる斎王の1年間にわたる精進潔斎の場です。この一直線上に並ぶ4箇所の地点は、このように不思議なつながりを持っているのです。
 後醍醐天皇の内親王を最後に、伊勢神宮の斎王制度は途絶えてしまいます。

猫山 ヒツチ山















 上野にある野々宮神社上社です。木製の鳥居を採用しています。この野々宮社の真北に通り谷の弁天神社そして、その真北に宮谷の賀茂神社が位置しているのも単なる偶然ではないように思えます。賀茂神社は以前述べましたが、猫山山頂と夏至冬至ラインで結ばれる位置関係にあります。見事な配列がなされています。「ねこ」とは大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)=孝霊天皇との関連があるのでしょうか。
京都の野宮神社本社の鳥居は全国に2箇所しかない黒木鳥居を採用していますが、ここも、それにならって木製の鳥居を採用しているのでしょう。ちなみに黒木鳥居を採用しているもう一社とは、大江町の元伊勢内宮です。これは、いくつかある丹後の「元伊勢」候補地の中で、元伊勢皇大神社が最も有力であるという根拠になりうると思います。
 黒木で思い浮かべるのは先日紹介したばかりの河原町の黒木神社がありますが、何か関連があるのでしょうか。黒木神社は売沼神社のすぐ近くで、宮谷の賀茂神社の夏至冬至ライン上に位置します。また、隠岐の後醍醐天皇行在所も黒木御所と呼ばれ、黒木神社もあります。佐渡にも、配流された天皇の行在所が同じく黒木御所と呼ばれています。大嘗祭においても、黒木鳥居が使用されます。黒木鳥居はもっとも精進潔斎が必要な時・処において使用されているように思えます。

上野 野々宮 



















 たまたま参拝の折に出会った地元の方から、この下濃集落の社も野々宮神社であることを教えていただきました。
下濃 野々宮
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2007年06月29日

福本白兎神社に由緒書看板

 福本の白兎神社境内のご神木の前に念願の由緒書看板が出来上がりました。
 筆者もまだ、写真でしか見ていませんので詳しくは分かりませんが、屋根つきの木製の看板で、細かい字で由緒が書かれています。次第に、この白兎神社を参拝する人も増えてきつつあることも聞いており、由緒書が設置されて、白兎神社の由来を参拝者の方に広く知っていただけるようになったのは非常に喜ばしいことです。白兎神社再建へ向けてまた歩が進みました。
 写真提供 新誠様

看板1

















看板2
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2007年06月22日

仁王堂の大イチョウ

 八頭町西御門の仁王堂にある大イチョウです。
案内看板の板面を紹介します。
「樹孫三十メートル、周り七,九メートル樹齢約五六百年のこの巨木は、県の天然記念物指定の名木である。
この木の由来については次のような伝承がある。
六百五十年の昔、元弘三年(1333年)五月、後醍醐天皇は船他山より京都御遷孫の途他当地を御通過、其造の山中にあった古大寺「円入寺」に御逗留になった。その時天皇に随従していた皇遜(皇子又は従臣の子ともいう)が痘瘡(天然痘)にかかり逝袖された。村人は是をこの地に葬り、他祠を建てて祀り、墓標として植造たイチョウがこのような巨木となったといわれる。この木はまた、古来痘瘡の神が宿る霊木といわれ、天然痘流行のときは、遠方の人々が参集して樹下の他祠を拝造木の・を痘瘡遜家の守り神として厚造信仰した。又、この木の他・に大きな袖根(乳柱)が下がり、乳汁の他ない婦人が信仰すれ造・乳がよ造出るといわれる。
天正年間、羽柴秀吉の中国地方来征にあたり、円入寺は、後醍醐天皇の勅願により創建されたという諾冊神社とともに兵火にかかり全山の僧房全て消失し廃寺となった。幸いに本尊の阿弥陀如来像は住持の僧が護持して下山、隣村の西橋寺に移し、山門の仁王像は一応という荒法師が背負って難を避造・事造ったという。その後、江戸初期に現地に他堂を建てて、仁王像を安置し仁王堂と名づけた。
現在、堂内に本尊の観世音菩薩と、脇侍として仁王像(江戸時代再像)を祀っている。
   昭和六十一年十一月   西御門」
 


オオイチョウ

























・親王祠
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2007年05月04日

亀石

 八頭町池田の天寺橋を通過して、霊石山中を横断し、鳥取市方面へと抜ける道路があります。その途中に中山展望台があり、ここから郡家・船岡・八東方面を望むことができます。その少し上のところに亀石があります。元は現在地より300メートル下方にあったとされる石ですが、戦国時代、霊石山は羽柴秀吉の鳥取上攻めの際に一大戦場となり、山腹には当時、300箇所以上の堂宇が建ち並ぶくらいでしたが、その僧兵が立てこもり、応戦したそうです。この亀石の前で、無残な最期を遂げた武士も多くいたそうで、その霊を今も弔っているそうです。
 正確に元の位置がどこであったのかが不明なので確かなことはいえませんが、亀石は、河原方面を望む御冠石と並ぶ霊石山を象徴するイワクラで、おそらく八上の北西から南東方面を展望できる国見の地であったのだろうと思われます。亀卜(キボク)とも関係するかもしれません。戦国時代のいわれによって、それ以前に伝わっていたであろうイワクラの由来がわからなくなってしまったのではないでしょうか。
 確かに亀の形をした不思議な岩です。 イソップの兎と亀、というわけではないでしょうが…。

亀石
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2007年01月29日

社殿の菊御紋

 現在、青龍寺に安置されている、福本の白兎神社社殿を7年ぶりに拝観しました。気になっていた、軒下の菊御紋についてです。
 菊御紋の形は半円形で花弁の数は12枚、これが左右の軒下に計4つ施されています。花弁の数は2輪分で計48枚となります。48音の日本語の言霊をも示すものかもしれません。48という数字は日本では馴染み深い数字です。手塚治虫の「どろろ」にも48の体の部位を奪われた百鬼丸が48の魔物を倒すというストーリーで登場します。48に1を足すと49日です。もともと仏教には先祖崇拝の教義はなく、葬祭や祖先供養は本来、神道が担っていた分野だったそうです。あたかも、アイルランドのケルト世界にキリスト教が融合して行った様に、仏教も神道と上手に役割分担をして日本社会に溶け込んでいったようです。
 半円は、通常、月を表すものと思われます。12という数字は、一年の月のめぐりを示しているのでしょう。
 本殿正面の菊御紋は半円で8弁です。以前も指摘したとおり、これは明らかに16弁の菊御紋に基づいたものであり、、皇室の祖神、日の神=天照大神を象徴し、あわせて月の神=大兎明神を象徴したものではないかと推測します。
 ちなみに八上の一等地を選んで7世紀中葉に建立された慈住寺=土師百井廃寺跡から出土する軒丸瓦に施された花弁の数も8弁です。天照大神由来の八上を象徴しているのでしょう。
 ところで鳥取の白兎神社の社殿基壇の菊の紋の花弁の数は28枚で、これは、月の運行周期を示し、東洋で広く用いられている28宿を表しているのではないかということは以前述べたとおりです。あるいは皇室を示す16弁と1年の月のめぐりを示す12弁を足して28弁にして、日月合体の密意を持たせた、とは行き過ぎた想像かもしれません。
 おそらく、この28弁の菊の紋の発案者は、この白兎神社を再興したとされる亀井公であろうと思われます。亀井公は一地方の武将としては多岐にわたる活躍をしており、海外との貿易を行ったり、諸産業を振興したり、用水を作って農業を活性化したり、地元では今も英雄扱いされている人物です。
 いずれにせよ12弁や24弁・28弁の菊の紋は、16弁の菊の御紋由来ではないので、直ちに皇室を表すものとは捉えないほうが無難と思われます。
 
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2007年01月06日

日理郷

 八上の日理郷は土師郷の東側にあります。これをワタリと呼んでいるそうです。昭和52年4月の郡家町広報には北川時治氏の「我が町の文化財」と題して大御門の殿にある和多理神社について記されています。そこには日理は本来、「ひつち」で、大御門に日理(ヒツチ)という丘があるそうです。神社名の和多理は当て字であってこの辺り一帯を日理(ひつち)の郷と呼んでいたそうです。式内社である和多理神社は後醍醐天皇の行宮の地ともなったところですが、元は和多理山=猫山の山頂に祀られていたのを里に移し祀ったものです。以前にも記しましたが、この神が、隠岐に配流されていた後醍醐天皇に託宣をおろされて、後醍醐天皇は隠岐より脱出され、天皇は八上に行宮されました。現在の祭神は猿田彦命となっていますが、これももともとは別の神が祀られていた可能性が高そうです。
 日理郷は、現在の大御門地区と郡家、宮谷、奥谷、下坂、山田、山路辺りと思われますが、特に奥谷から山路辺りはかつての土師氏の窯跡があるところです。八上には類似の郷名が他にもあります。
 西側の土師郷には窯跡がなく、東側の「ひつちのさと」には窯跡が多く残っています。土師氏の主な生業は、土器の作成、そして墳墓の造営、葬祭に関する仕事です。ひつちの里も本来土師の郷だったのではないでしょうか。そして八上において土師氏の中での分業制が既に確立していたのかもしれません。また、土師器を作る材料の粘土が底をついてしまうと必然的に活動の場所を移さざるをえません。その意味では各地を渡り(ワタリ)歩いたのでしょう。そのようにとらえれば、土師郷に窯跡がなく、古墳が大量にある、しかも特異な性格を持つ古墳があることは至極当然のことといえるでしょう。葬祭や墳墓作りに関わった土師氏も一部はその後活動の拠点を畿内に移していったかもしれません。
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落岩神社のご神体

 因幡の中央国中(くんなか)平野の南部にある落岩神社のご神体です。苔むしたこの岩はなんと天から降ってきた隕石として古来より大切にされてきました。昨秋の石破教授の講演でも紹介されましたが、これも聖なる地の大切な遺跡です。
 隕石といえば、お隣の島根県の美保関にも十数年前に隕石が民家に落ちてきて、地元ではメテオ記念館か何かの施設があるようです。
古の人たちも隕石が落ちてきたことに畏怖の念を抱いて信仰の対象にしたのでしょう。八上の人々にとって大切な所だったはずです。

落岩神社ご神体
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2006年12月12日

もと白兎神社 

 八頭郡誌で述べかけたことの続きです。
 
 伊勢神宮は元から、現在の地にあったのではないのはよく知られた事実です。まず、内宮は崇神天皇の御代に宮中より、大和三輪山の笠縫の地に祀られるようになりました。そして、トヨスキイリヒメ、ヤマトヒメによって丹後与謝の宮に始まり、二十数ヶ所の地を遷座した後、今から約2000年前に、(学者によっては3世紀ごろに)現在の伊勢五十鈴川上流の地へお鎮まりになりました。最初の奉祭の地、笠縫とその途中留まられた所を元伊勢と呼んでいます。 
 外宮は雄略天皇の御代(西歴478年)に、丹後の久次岳の麓より、伊勢の山田へ遷座されました。
 丹後には、外宮の元伊勢と呼ばれる所がほかにも数箇所ありますが、筆者は伝承と遺跡の集中する久次岳の麓、比沼麻奈為神社であろうと思います。ここは内宮の元伊勢とは異なり、一時的な宮所ではなく、遷座以前より長期間にわたって祭祀がなされているところです。
 ところで、丹後にはトヨスキイリヒメが最初に笠縫より遷座された与謝の宮(元伊勢)もあり、こちらもいくつか候補地があります。これも研究者によって、いろいろな説がありますが、筆者は、福知山市大江町の元伊勢内宮が最も有力だと思います。この元伊勢は一時的にお留まりになったにしては、他の元伊勢(写真でしか見ていないところがありますが)とは全然様子が違うように思えます。太古の御現身(おうつしみ)のときここにいらっしゃったのではないかと思われるような雰囲気があります。話はそれますが、福知山市の中心部には土師川が流れており、土師(はぜ)という地名もあります。ここも土師氏の拠点でした。大江町は市街地より北東方向にあります。大江氏が関係する地名です。八上の大江にも天照大神を祀る赤倉神社があり、こちらには荘厳な元伊勢内宮が鎮座しています。大江氏は天照大神の祭祀と深い関係があるのではないでしょうか。
 
 因幡の4つの白兎神社の祭神は小泉友賢の『稲葉民談記』によれば「大兎明神」と呼ばれていました。その後、安陪恭庵の『稲羽誌』では白兎明神、現在では素兎神と呼ばれ、少しずつ祭神の呼び名が変わっています。
社の名前もずっと白兎神社であったかどうかはわかりませんが、元々はすべて兎神を祀る社であったのは間違いないでしょう。
 土師百井の白兎神社は4つある白兎神社の中で、唯一「もと」という言葉が残っています。そして、この社は、唯一神明鳥居を採用しています。以前から述べていますが、もともとの社地は、慈住寺=土師百井廃寺塔礎石付近ではなかったかと思います。白兎ラインにぴったり位置しており、もちろん慈住寺が創建(7世紀中葉頃)される前から、白兎神社があったと考えるのが妥当だからです。
 元伊勢と現在の伊勢神宮との関連性と類似したものがこの「もと白兎神社」と福本の「白兎神社本社」の関係にもあるのかもしれません。
 
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2006年11月23日

土師神社

 12月5日改定
 土師の里の北東部にある土師神社です。夏至・冬至のの白兎ライン上に位置します。現在は宮谷の賀茂神社に合祀されていますが、やはりここも地元の稲荷集落の氏子さんによって、今も大切にされています。祭神は、天穂日命です。社殿はこじんまりとしていて、コンクリートブロックの覆屋の中に鎮座していますが、境内の木々は庭木のようにきれいに刈り込みがされていて、さっぱりとした外観です。この地点もちょうど私都川の流れが大きく曲がっている所で、福本白兎神社の辺りと雰囲気が似かよっています。ここから白兎ラインの延長線上に賀茂神社一の鳥居跡、賀茂神社胞衣塚・御旅所、福本白兎神社、池田白兎神社、土師百井廃寺(もと白兎神社の旧社地と推定)、米岡伊勢神社、曳田の賣沼神社(西ノ日天王)があり、確かに南西方向へ続く平野を見渡すことができます。
 地政学的に見ても、門尾の三本松郡境、国府方面への道を見渡せ、そして、東方の私都谷を見渡せる要衝の地とも言えるでしょう。また、賣沼神社、嶽古墳あたりも、曳田川上流の北村の谷、千代川の流れる用瀬、智頭方面、鳥取平野を一望できる場所で勢力圏を形成する上においてキーストーンとなる地点です。

 土師氏にとって良質の土は命です。そこからこの社が浄土明神とも呼ばれているのでしょう。この神社のある稲荷、そして門尾、福本、池田、土師百井が八上の土師郷ですが、実際の遺跡は、郡家盆地の東側の山麓に集中しています。私都の山路(やまじ)は後醍醐天皇もお通りになったと伝えられる旧道のある集落ですがそこの字に稲場と稲葉があるのも少し驚きです。八上が稲葉の中心であったことの一つの証かもしれません。
 奥谷、下坂、私都の山田辺りに土師器の窯跡があり、土師器の破片などが出土していました。その後、記紀にあるとおり、出雲(おそらく稲葉も出雲の一部ととらえられていたのではないでしょうか。土師氏の拠点は因幡であったような気がしますが、これもよく調べて見なくてはなりません。)から、大和の地へと技術者たちが移住していったのでしょうか。

土師神社























 神社合祀の後も、地元の人々によって大切にされています。

土師2



















 郡家盆地
 土師神社より、福本、池田、土師百井、河原の賣沼神社、北村方面を望む 右側の山が霊石山(中山、横山)

白兎ライン 土師より
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