2008年12月05日

多加牟久神社

 八上姫を祀っていたらしい社のようです。
鳥取県神社誌によれば、「社伝によれば延喜式に二座とせしは大穴牟遅命、八上比賣命にしてその後、事代主命を合祀せり 即ち今に多加牟久之神二座、岡大明神と称すという。然らば祭神中に八上姫を脱せるものなり」とあります。
 また、式内社調査報告によれば「賊退治のために派遣されてこの地へきた多加牟久命は洗足山の賊を見事退治したが、ここへ来て初めて知ったことに、かつてこの地は大国主命と八上姫とが契りを結んだ場所であった。たとへば、高尾の山の仮陣営の近くに「カケアガリ」という字名がある。これは八十神に追われた大国主と八上姫とが、逃げて駆け上がったときについた地名であった。...」大国主命の十六代めの子孫である多加牟久命は「そのことを知って九州に下ることをやめてこの場所に大国主神を祀って自身は土着したのである。その子孫もまたこの社に多加牟久命を併せ祀って、代々神主として奉仕したという。この神社に通じる道は三つある。一番表道が「カケアガリ」の道、もう一つは明治谷や小河内谷方面から高尾に入る道、三つ目は裏山から入る道であるが「カケアガリ」の道に面した。「宮ノ下」という場所に多加牟久命の子孫が住んでいたと伝えている。ちかくには、神を斎(いつ)くという意味で「イツガミ」という字名があり、また「穴久保」という字名の所は湿田で多加牟久命の子孫が水路をつけずに稲作をした場所と言い伝えている。」と記されています。
 郷土史研究家の新誠氏も指摘していましたが、社伝は非常に重要です。おそらくここに記されているようにこの多加牟久神社とその周辺は大己貴命と八上姫の縁アル地でしょう。今ではせいぜい「カケアガリ」の地名とその伝承しか残っていないようですが、本当は他にも伝承があったのではないでしょうか。
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2008年08月09日

霊石山 伊勢が平(伊勢ヶ平)

 霊石山 伊勢ヶ平はすでに紹介しているように、天照大神がしばらく行宮された神蹟です。鳥取市河原町総合支所のウェブサイトに、昭和三十年代ごろの白黒の写真が紹介されています。
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2007年12月23日

聖なる御冠岩 注連縄一新

 たまたま「霊石山 天照大神」でグーグル検索してみると、出ました!今年は前回の記事で締めくくろうと思ったのですが、この記事は、日本海新聞では昨年に続き恒例の記事となり、今年は読売新聞にも紹介されていたので、このブログでも紹介しておくべきと思いたちました。
 日本海新聞の記事には動画で紹介され、もちろん御冠岩は動きませんが、地元の氏子さんたちが、注連縄の取り付け作業をする模様が見ることができます。
 読売新聞の記事では、冠の持ち主が天照大神、とされていることも注目すべきことです。
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2007年03月13日

兎さ米(うさまい)  

 八上の河原城で売られている兎さ米です。
 河原町神馬(かんば)というところで取れたお米だそうです。
 因幡西郷伝説集によれば、この神馬にはかつて在原業平の孫、在原清兵衛が高草の菖蒲村に住んでいたのを一族全員で、移り住んだそうです。そのころ、一角を持つ白馬がここに現れたことからこの地を神馬と呼ぶそうになったということです。
 ちなみに在原業平はあまりに有名な文人ですが、在原行平といい、在原清兵衛といい、在原氏がなぜ因幡と関連を持つようになったのでしょうか。やはりルーツと関連するのではないでしょうか。大江音人氏が在原業平の父である阿保(あぼ)親王の子である、という説はほとんど否定されていますが、在原氏の因幡との関係を考慮に入れるとやはり何らかの結びつきがあるのかもしれません。在原業平やその父である阿保親王の居所は現芦屋市で、そこには業平町という地名や業平橋、阿保親王の墓所とされる所や、阿保親王を祀る神社があります。また、以前にも紹介したとおり、神戸市東灘区・芦屋・西宮の夙川辺りはかつて兎原(うはら)郡と呼ばれたところで、芦屋市には山陰方面から移住した人たちが自分たちの祖先神、天穂日命を主祭神として祀る芦屋神社があります。しかも六甲山山頂付近には天穂日命の依り代となったイワクラまで残っているのです。イワクラを依り代としていた、ということは祭祀がなされていたのは相当古い時代にまで遡れる、ということではないでしょうか。

兎さ米
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2007年03月02日

都波只知上神社

鳥取市河原町の都波只知上神社です。詳細はリンクでつなげている玄松子氏が既に調査されたとおりです。元からの祭神は景行天皇と大倭武尊です。社殿の中央上部には菊の御紋が施されています。白兎神が祀られているという説もありますが、根拠は乏しいようです。(調査中です。)
 ここも合祀神が多く、周辺でかつて祀っていた祭神が集中して祀られています。その祭神名は、やはり、周辺の神社を合祀した大江神社の祭神とも共通するようであり、八上一帯で祭祀されていた神々を浮かび上がらせることができそうです。ここでも八上姫が合祀神として祀られているほかに、天穂日命が祀られています。近くの都波奈弥(つわなみ)神社にも天穂日命は合祀神として祀られています。 現在は神主不在ですが、八頭郡誌によればかつての都波只知上神社の宮司家は、ルーツをたどると皇室ともつながっていたようです。江戸時代には、ここの国本宮司が伊勢の衣川長秋を京より招聘し、国学の復興に尽くされたようです。これほどの社格を持ちながら、現在神主不在とはまことに残念です。しかし、これはこの神社に限ったことではありません。

都波只知上神社
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2007年01月19日

聖なる御冠岩

 久々に「霊石山」でグーグル検索すると出ました。なんと日本海新聞の昨年末の記事に、「聖なる巨岩 しめ縄飾り新調 霊石山の御子石」と題して霊石山の御子岩のしめ縄の架け替えの行事が掲載されていました。
 ふもとの鳥取市河原町片山の皆さんが毎年しめ縄の付け替えをされています。
 なんと驚くことに、記事には、「天照大神が冠を置いた、との伝説…」と記されています。しかも「聖なる」と形容されています。この言葉は石破教授が使われて以降、頻繁に目にするようになりました。
感激しました。
伊勢ヶ平の行宮の地を守り八上河原の民を見守る大切な所のように思えます。
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2006年10月06日

霊石山最勝寺縁起

 10月12日改定 
 城光寺縁起の紹介の前に最勝寺縁起を紹介します。最勝寺のある片山は白兎神社の氏子集落ではありません。この縁起は、城光寺(青龍寺)慈住寺 最勝寺三ヶ寺の縁起の中で書写の年代が最も古い寛政元年(1791年)のものとされています。縁起の巻末には
 寛政元年己酉夏賢蟲十世
 沙門 快道 依旧記撰
 侍医 安陪惟親書(安陪恭庵)
 とあります。
 「...むかし大日霊尊この山に降臨あらせ給い、郡国を安撫ましましてこの山の絶頂に大石二つありける処(ところ)に行宮を営ましめて、しばらく止まらせ給いぬ。今その石を皇居石と呼びその地を伊勢が平(いせがなる)といえるもこの故となり。そのあま降らせ給えるとき御道しるべしたまえる神を猿田彦命となん申す。この山にても西面の中腹なる石にかの命その冠を残し置き給えり。
即ち神の御冠石はこれなり。これもまた神秘の方便にしてこの石を命の神体とも仰ぎとうとむべしとぞ。ミコイワはかんぶり石の略語なり。土俗エボウシ石というもその縁にして山を霊石山と号するもこの石を表せるなり。
 古き歌に
 因幡なる神のみこ石しるしあらば
 過ぎ行く人の道しるべせよ
 と詠ぜるもかの命を道祖神といわれるによれるにや。それより大日霊尊東のかた因幡但馬の堺なる高山を越えて帰らせ給いける。その時旭日に照映していとうるわしければ、おん神 日枝の山とはのたまいき。八東郡にある今土俗豹の山(ひょうのせん)と言えるはこれなり。神の世のはるけき跡それとも今にその山を伊勢詣のもとつ道とすること州民(くにたみ)はさらなり、遠つ国にまでそのふること伝わりぬるこそ不思議ともいうべけれ。...」
 
 以上のように記されています。伝承の叙述はいきなり天照大神の霊石山伊勢が平の行宮に始まり、伊勢が平へ導かれる経緯は記されていません。
 以下、筆者なりの推測を述べます。
 縁起では、天照大神の御冠では話のつじつまが合わないと考えてか、猿田彦命が道案内の役であったとし、冠を猿田彦命の物として、御子石を猿田彦命の神体としています。そして、応神天皇御製といわれる和歌を紹介した後で、氷ノ山の伝承へと話が移っていきます。
 話の流れが不自然なように思えます。そうなった要因として天照大神が男神か女神かという事実が大きく影響しているのだと思います。
 筆者の勝手な想像ですが最勝寺縁起の撰定・書写の際、住職の快道は大いに困ったのかもしれません。(『イナバノシロウサギの総合研究』には「快道が縁起を撰し『稲羽誌』の安陪恭庵が親書した」とあります。「撰し」、とあるので安陪恭庵の最勝寺来訪・縁起閲覧申請をきっかけとして、以前から伝わる縁起の内容に手が加えられたように受け取れます。)
 御冠石は神の御冠ですが、これは天照大神を女神とするならば烏帽子をお召しになるはずはなく、(白拍子の女性はかぶりますが)かといって白兎の冠とするわけにもいかず、そこで道祖の神としてあまりに有名な猿田彦命に登場願って、冠の件の「矛盾」を解消したのではないでしょうか。快道は、古事記・先代旧事本紀大成経の内容に精通している安陪恭庵の説を取り入れた、それが快道をして「撰し」と言わしめた根拠なのではないかと思います。(実際、安陪恭庵は80冊にも及ぶ膨大な地誌を『稲羽誌』としてまとめた因幡の稀代な学者です。今でも因幡の歴史をひもとくのに、『稲羽誌』が根拠となっています。)
 天照大神が女神であることを前提として、もともとは記されていたと思われる冒頭の「道案内の白兎伝承」の部分を削り「猿田彦命の先導」へと内容を書き改めたのでしょう。安陪恭庵は、古事記・先代旧事本紀に使われている漢字「稲羽」を用いている事からもうかがえますが、先代旧事本紀の叙述に大きく影響され、「稲羽の素菟」に基づく遺跡を因幡の国中に求めようとしました。その一環として、それ以前には所在不明であった「八上姫の神社」も賣沼(めぬま)神社として特定し、白兎海岸の兎宮も古事記伝承の白兎神社である、と断定し白兎伝承地を固定したようです。(『イナバノシロウサギの総合研究』P134)
 そして霊石山の天照大神と白兎伝承に関してはもともとの最勝寺縁起と古事記・先代旧事本紀の間に大きな相違点が認められるため、縁起の撰定(一部削除・一部書き換え)がなされるにいたった、と見ることができるのではないでしょうか。
 
 一方、以前に紹介した祇園祭岩戸山の天照大神のご神像・そして江戸時代の円空作のご神像は御冠をお召しになっておられます。記紀の内容が一般に広まる江戸時代後期以前には天照大神が男神であったと認識されていた例が少なからずあることを示しています。霊石山伝承における天照大神は男神とみなすことで実は慈住寺記録や城光寺縁起の話、御冠石伝承のつじつまがすべてあってくるように思います。
 しかしこれら縁起に関する一連の推測は一次資料に触れたこともなく、また仮説に基づくものであるため、なにとぞ読者の皆様、割り引いてご理解ください。単なる白兎びいきの筆者の思い過ごしかもしれません。
posted by yakamihakuto at 14:02| Comment(9) | TrackBack(0) | 河原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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