2008年11月03日

平家と源氏

 八上の山奥には平家の落ち武者伝説がいくつか伝わっています。八頭町姫路は安徳天皇とその従者たちの伝承が残っていますし、現在兵庫県との県境近くの若桜町の落折(おちおれ)集落は全戸が平家という苗字を持つ珍しい集落として有名です。筆者は連休最初の探索地としてこの平家集落を訪れました。
 ここには多くの中学の国語教科書で登場する「敦盛の最期」、その平敦盛の実父、平経盛(たいらのつねもり)の一行の隠れ棲んだといわれる洞窟跡や平経盛以下18名の従者が眠る墓所があるのです。
 同じく集落内には当初は自らの出自を平氏であると悟られないように、社を藤原神社として祀っていたようです。
 社は、国道29号線から程近い小山の頂上にあります。
 驚いたことに、その小さな社殿の扉には大二という文字と、主の神のシンボルマークである丸に点を象ったマークがつけられていました。大二とはなにを意味するのか、わからないので、地元の方にお聞きすると、特に意味はないようだ、という返事がかえって来ました。
 筆者はそこで、思い当たることを考えました。主(す)の神を示すマークのすぐ隣の大二とは同じく、根源神を示すものとして、伊勢神宮で使われている太一であるだろうことが頭に浮かんできました。太一を縦に書いたときに、太の点がずれると下の一と一緒になって二という漢字になり、同じく上の字は大という文字になってしまったのではないかと推測されます。

 すなわち、平家、平経盛ご一行が、伊勢信仰を正確に根源神信仰であるととらえていた可能性が大きく、すでに、そのすぐ後に登場する鎌倉時代の伊勢神道と同一の神道観を持っていたであろうことをうかがわせます。
 また、地元の方のお話によれば、平経盛一行は賀露港より千代川をずっと遡上して、この地にたどり着いたらしいということなのですが、それだけではなぜ、八上を選ばれたのかは理由がわかりません。ここでも、ひょっとすると八上の白兎が何らかのお導きをされたのかもしれません。
 
 一方、反対勢力である源氏の源範頼もなぜか、伊豆の修善寺より八上の、しかも白兎と縁深い霊石山へ逃れ、そこで僧として身を隠します。
 源氏であろうと、平家であろうと、訳ありながらも逃げ延びてきた人々を温かく匿い、、迎え入れていったのが八上の人々の懐の深さではなかろうかと推測します。

 八上では宇宙根源神=主の神、造化三神、神世七代(国常立命〜イザナギイザナミ)をすべて祀っていることになります。

平家 崇敬神 シンボル
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2008年03月29日

大屋町と須賀の山

 以前紹介した『須賀の山雑記』によれば、須賀の山、即ち現在の氷ノ山は、須佐之雄命のご住居のあったところと推定されています。そしてあの有名なヤマタノオロチ退治の伝説も、八上が舞台であるとしています。
 須佐之雄命の御子神に大屋彦命がいますが、須賀の山の南東、兵庫県には大屋町があります。ここには大屋彦命を祀る社もあるので、この説は今まで誰からも気に止められなかったようですが、ひょっとすると本当かもしれません。しかも大屋彦は八上姫と大己貴命の間に生まれた御井の神を祀る御井神社に祀られているのです。
 以前にも記しましたが、因幡国の神社で最も多く祀られているのは断トツに須佐之雄命です。確かに須佐之雄命は全国津々浦々で祀られていますが、これほど多く祭られている地域は他にはないのではないでしょうか。『鳥取県神社誌』を見て、本当にその数の多さに驚きます。旧八頭郡(郡家、船岡、八東、若桜、河原、用瀬、佐治、智頭)全199社中、実に84社に須佐之雄命が祀られているのです。
 八上の中心地は現在、八頭町という名前ですが、これも単なる偶然とはいえないのかもしれません。
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2008年01月13日

天照大神の御製

 平成20年1月13日加筆
 すでに『八上 神秘の白兎と天照大神伝承』で紹介している八上に伝わる天照大神の御製といわれる和歌と非常に類似した和歌があることが判明しました。
神話、古代史および和歌に造詣の深い筆者の知人から情報を頂戴しました。この場を借りてあらためてお礼申し上げます。

 万葉集第十巻2315

 原文はもちろん万葉仮名であり、読み方には様々なバリエーションが生じる可能性があります。上記リンク先に原文も紹介されています。
 柿本人麻呂歌集にある読み人知らずの和歌です。
 『大言海』という書の「しらがし」の項にも掲載されています。
 
 あしひきの山道も知らず
    白橿の枝もとををに 
         雪の降れれば
 
 八上に伝わる天照大神の御製はこれと全く同じではありませんが、おそらく、いずれかの和歌が記録される際に多少不正確になりながらも伝承されていったのでしょう。
土屋文明氏『万葉集私注』によればこの和歌の大意は
「アシヒキノ(枕詞)山道も分からない。白樫の枝もたわたわに雪が降ったから。」と記されています。
 あらためて八上に伝わる御製を紹介します。
 
 あしひきのやまへはゆかじ
    しらかしのすえもたははに
           ゆきのふれしば 

 
 私たちが現在高校で学んでいる古典文法は、平安時代のそれを基礎としており、語法も、それ以前とは異なったものもあった可能性もあると思われます。 
平安の古典文法では、確かに万葉集に紹介されているように「雪の降れれば」というふうに、「ば」という助詞に接続する完了の助動詞「り」の已然形が四段活用の動詞「降る」の已然形に接続しているのが妥当でしょう。
 過去の助動詞「き」の連体形「し」は、上には連用形動詞がつながります。
 しかし、上古においては異なっていたのかも知れません。ですから、八上に伝わる和歌が正式な和歌の訛伝であるという即断は避けたほうがよいでしょう。むしろ古来の表現法をそのまま伝承した、といえる可能性もあるかもしれないからです。 
 柿本人麻呂の生涯、特にその晩年は藤原氏との拮抗もうわさされており、謎に包まれていますが、どうやらこのあたりの事情が関係しているのではないでしょうか。
 すなわち、柿本人麻呂は万葉集に、古来より伝わる天照大神をはじめとする神々によって詠まれた数々の和歌を紹介しようとしたのではないでしょうか。それが結果として、詠み人知らずとして、万葉集に編纂されたと、筆者は推測します。筆者は残念ながら、万葉集の詳細に明るくないのですが、まつりごとと密接に関連性を持った万葉集の和歌、とりわけ詠み人知らずとされているものの中には、神話時代の神々の思いや、政治的諸関係を読み解く大きなヒントになるものが多く含まれているのではないかと思います。
 もうひとつ。「しらかし」とは現在の奈良県橿原市の旧名であったこと(現在も白橿:しらかしの地名が残っています。)も古代の都が、どれくらいの期間かは不明ですが、一時的にせよ、八上にあったことを示す根拠といえるかもしれません。橿原市は神武天皇の即位された場所です。
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