2013年08月17日

コメントは新しいブログへお願いします

 こちらのブログへは基本的に新しい記事を追加することはありません。コメントに関しては、これまでは受け付けておりましたが、どうやら普段あまり使っていないことから、迷惑コメントが多くなり、削除することが多くなっております。
 ところが、先日、たぬきさんという方からコメントをいただいていて、それを公開したはずですが、システムエラーで、ちゃんとアップすることができませんでした。 
 申し訳ございません。
 
コメントは今後は、現在のブログへお願いいたします。
posted by yakamihakuto at 00:29| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

ブログ続きはこちらへMy website is continued to...

 My website is continued to the Yakami White Hare Shrine ブログを開設して早や3年が過ぎました。1昨年にはこのブログ記事を元に著作を出版し、今2冊目の著作を準備中です。今まで公開してきた記事内容は、当面、既刊の著作「八上神秘の白兎と天照大神伝承」と2冊目の著作にて公開いたします。 
 なお、ブログ八上 白兎神社 の続き、 Blog Yakami White Hare Shrine こちらです。よろしくお願いします。まだ使い方など慣れていませんので、少しずつ、進めていきます。
posted by yakamihakuto at 12:08| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月14日

八頭町観光ガイド

 今年3月に、「八頭町観光ガイド」というパンフレットが完成しました。このブログのコメントに寄稿してくださるかぎやさんから頂戴しました。ありがとうございます。
 デザインや写真のアングル、処理がまことに巧みで、八頭町のイメージアップに大きく貢献するものとなっています。今まで作成された中でおそらく最高のできばえといえるのではないでしょうか。
 これは八頭町産業課、八頭町観光協会が作成されたものです。
 そのデザイン性の高さもさることながら、内容が斬新です。
 なんと史跡名所のコーナーでは「白兎の伝承」散策、と題して、八上の白兎神社3社と波ウサギのある寺社が紹介されています。少し前までは、考えられなかったことです。
 八頭町、八上は本当にすばらしい歴史と遺跡を残しています。これは司馬遼太郎氏も指摘していたことで、筆者も以前紹介したことですが、因幡は本当に古いものを大切に残しているところです。
 そのおかげで、記紀の神話を覆しかねないような独自の神話伝承とそれに基づく遺跡や地名が多く残っているのです。それらの価値はもちろん、記紀ではわかりません。
 しかし、偽書扱いされているホツマによってその価値が明確に表れるのです。これも実に不思議なことです。ホツマなど、学会ではまったく相手にされていないのですが、全国各地の記紀に記されなかった神話伝承を丁寧に調べていくと、ホツマの記述に近いものが多く得られるのです。
 八上の伝承、遺跡はかなり近い将来、全国から大いに注目されていくこととなるでしょう。
 八上の皆さん、因幡の皆さん、その価値をしっかり再確認しましょう。皆さんのルーツをたどると天照大神直系の血統であるだろうことも改めて再認識しましょう。
 そして、八上姫は八上の一部地域ではなく、因幡の白兎と同じく、因幡全体をご活躍の舞台とされていた、とみなすのが妥当でしょう。
 筆者は神話時代の八上姫の出生地は八上、八頭町宮谷、ご活躍の舞台は因幡、伯耆、出雲、奥都城は八上、河原町曳田ではないかと推測しています。
 この八頭町観光ガイドの良い点は、その範囲を八頭町のみに限定しようとしていないことにあります。
神話伝承時代の八上や因幡、山陰を現代の行政区画で割って、他の地域との関連を捨象してしまっては、神話伝承の意味が、遺跡の意味が不明となるのです。その枠を超越しようとする志向性が、この「八頭町観光ガイド」にあることは、また大いに評価されるべき事である、と筆者は思います。


posted by yakamihakuto at 00:21| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

豊受大神の伝承

 前回のブログ記事で、天照大神伝承が極めてまれであることを述べましたが、記紀がほとんど抹消した、豊受大神のご業績、ご活躍の舞台についても、同様です。
 「豊受大神 伝承」 で検索して出てくるのはやはりホツマ関連と丹後地方がほとんどです。それに関連して、このブログも引っかかってきます。
 丹後はその点で貴重な伝承を残してきている大切なところです。以前にも記したとおり、羽衣伝承や浦島伝説で豊受大神のご業績や伝承を覆い隠す、あるいは捻じ曲げようとした形跡が読み取れます。
 この点から、意外にも今まで誰も指摘してこなかったことが判明します。即ち日本書紀を編纂した時点で、すでに外宮は低く扱われていた、ということです。そして日本書紀の記述のとおり、書紀に出てくるどの一書にも雄略22年の外宮遷宮のことが記されていないとするならば、その時代はもう少し古くなるかもしれません。つまり最も古くて雄略22年となります。この時点以降より、外宮祭神を低めようとするなんらかの勢力による動きがあったといえるように思えます。

 これは、因幡においても同様である、と筆者は思っています。
 天照大神の八上行宮、とそれに関わる白兎神の伝承は、古事記の稲羽の素菟神話で見事に覆い隠されたといえると思います。
 もちろん、大己貴命が因幡へお越しになったときに白兎が現れたことでしょう。
 しかし、白兎がワニを騙して云々は後世の古事記執筆者の作り話です。
 
 京丹後市峰山町と網野町にまたがる風土記に記された羽衣伝説とは、男神、豊受大神を女神に仕立て上げるためのもの、しかも、天御中主神、国常立命の転生、即ち根源神であることを否定して神格を低めようとする意図を持って、奈良時代以降に新たにファブリケートされたおとぎ話にすぎないものと思われます。
 以前記したとおりですが、浦島伝承も雄略22年7月に竜宮へ出発、とはちょうど同じ年の同じ月に丹後の元伊勢から伊勢山田へと豊受大神の遷宮が開始されたタイミングに合わせており、しかも日本書紀には、この遷宮の事実を一切無視して、浦島伝承を記しているのです。
 このことからも日本書紀の執筆者が伊勢祭神をいかに低く扱おうとしているかが、よくわかります。
 記紀・風土記のこのような意図を見抜くことが大切です。
posted by yakamihakuto at 10:06| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

ブログ開設3周年

 八上 白兎神社のブログを開設して、早や3年がたちました。
 この間で、当初思ってもいなかった展開となってきました。石破洋教授や、地元の郷土史研究家の新誠さんを始め、多くの方々の尽力と、このささやかなブログの宣伝も相俟って、地元の皆さんに何らかのインパクトをもたらすことができたのではないかと、自負しています。
 その一つの変化が、このたび因幡で開かれている、因幡の祭典で作成された観光案内に表れていると思います。
 今まで、八上(八頭町)福本の白兎神社が観光案内に登場したことは皆無でした。今でも、大手の地図作成会社のどの地図を見ても、福本の白兎神社が、たとえその名はなくとも、鳥居マーク一つさえも掲載されていないにもかかわらず、です。
 また、まったくといってよいほど忘れ去られてきた天照大神伝承も、少しずつクローズアップされています。この伝承は、関連する河原町、若桜町との連携がなされることによって初めて、全貌が浮かび上がってくるものです。そして、天照大神の伝承がこれだけ広範囲にまたがって色濃く残る場所は、全国どこを捜しても見つかりません。それほど、八上は意義のある場所なのです。
 ためしに、「天照大神 伝承」で検索してみてください。 拙著が多く引っかかってくるのはわずらわしいですが、それ以外を注意深く探してみましょう。本当にそれに基づいて検索されうる他の場所は、以前にも記しましたが、きわめて稀なのです。
 この大切な伝承をもっと顕彰していくことが、今後より重要となります。
 また、その内容は、記紀しか対象とならなかった今までの神話研究に大きな波紋を投げかけるものであることも、このブログですでに強調しているとおりです。

 



posted by yakamihakuto at 00:10| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月02日

福本の金山谷

 4月30日の日本海新聞に、またまた八頭町、霊石山麓、(中山)の福本の記事が掲載されました。
 八頭町の黄金伝説 光る物が見える「金山谷」と大きな見出しです。この伝説は、福本のある方が一冊の本としてまとめていたことから、ちゃんと伝承が途絶えることなく残りました。このようなことは非常に大事です。

 その記事の中には石破教授のコメントが掲載されていますが、やはりこのような伝説が残るのも、霊石山、中山一帯が、聖地とされてきたからに他ならない、ということを指摘されています。ますます注目を浴びる八上です。
 因幡は宝庫だらけですね。それを活かせるか否かは、私たち次第です。
posted by yakamihakuto at 14:50| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月26日

イナバノシロウサギ オブジェ募集!!

 八頭町産業課では、イナバノシロウサギのオブジェを郡家駅前に設置して、町の観光のシンボルとする計画が立てられているようです。
 すごいですねえ。大きな前進です。
 そのオブジェのモチーフとなるイラスト、およびタイトルを募集されているようです。特に地元限定、とはかかれていないようですので、どんどん応募しましょう。
 詳細はこちらをご参照ください。
 またあの瀬織津姫を祀る岩手県の総本山、とも言うべき早池峰(はやちね)神社の祭りで、踊りに用いる被り物の両側に波乗り兎が描かれているそうです。
 
 
posted by yakamihakuto at 22:48| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月22日

みずがきに鳥居礼氏の論文と絵画掲載!

  逆流から元の流れへの転換

 本日、帰宅してみると年3回くらい発行されている神宮司庁の『瑞垣』(みずがき)が届いていました。
早速、わくわくしながら、何か面白い記事はないかと目次を見ると、ありました!
 なんと、見慣れたお方の名が、鳥居礼氏の論文が掲載されています!!!!!
異端の書とされるホツマの研究家の論文が『瑞垣』に掲載されるのを見るのは初めてで、筆者は、これまで、そのようなことは不可能だと思い込んでいたので、とても感激して、急いでブログ記事を書いているところです。

 今回は御即位二十年記念特集号です。
 鳥居氏は、日本画家でもあり、その作品2点と合わせて論文が掲載されています。(筆者もさりげなく、職場に作品を飾らせていただいています。)
 「美の至宝 伊勢神宮」という論題で書かれています。
 もちろんざっと目を通してみると、ホツマのことは触れられていませんが、鳥居氏がホツマの諸著作で主張されている事柄が展開されています。
 鳥居氏は、伊勢神宮側からの要請で、鎮地祭を描くことになったそうです。その作品が紹介されています。日本に多くの画家がいる中でホツマ研究家でもある鳥居礼氏に白羽の矢が立ったのは、すごいことです。神宮側が鳥居氏のホツマ研究にも肯定的であることを示しているといっても良いかもしれません。まさか鳥居氏の著作をご存知ないはずがありません。実際、鳥居氏のホームページを見てみると、高円宮妃様や秋篠宮様も2006年に催された河口湖ミューズ館での展示に、ご来臨されているようです。
 すでに皇室、神宮関係の方からもホツマが注目されていることを、なんとなく感じます。
 それは、伊勢の神々、瀬織津姫をはじめとする日本の神々の本当のご活躍について、見直そうとする気運が高まりつつあることを示すのではないでしょうか。
 筆者は強く感じます。記紀によって、神道の流れが逆流となっていたものの、ここ数年のさまざまな動きによって、元の正しい流れへとその向きが180度変わったのではないかと思われます。
確かにそのベクトルが変わった直後なので、いわばほとんど静止した状態なため、そのダイナミズムは感じ取ることができないかもしれません。けれども注意深くアンテナを張っていると、その動きが次第に大きくなっていくことを知覚することができるようになるでしょう。
  
 皆さんもこれを機にぜひとも、『瑞垣』の定期購読者になりましょう。
 連絡先は神宮司庁広報課
電話 0596−24−1111です。まずは最新号のサンプルを送ってもらってください。
 筆者も近い将来、八上に伝わる天照大神神話伝承、外宮祭神と因幡の地名由来をテーマに、瑞垣に掲載されるよう、文章を書くことができれば、と思います。
 大いに励みになる出来事でした。

posted by yakamihakuto at 23:05| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月12日

図書館に拙著が

 筆者も暇に身を任せて、拙著の名前ををググルことがあります。
 すると、新たに三重県津市のうぐいす図書館と、三重大学附属図書館、龍谷大学の図書館、和光大学図書館に蔵書されていることが判明しました。
 どなたが入れてくださったのかはわかりませんが、ありがたいことです。 
公立図書館(川崎市・札幌市・三次市・岡山県・大阪市)と1箇所の大学図書館(帝塚山大学)が今までで判明していた拙著の蔵書図書館です。いずれも、筆者は寄贈していないところです。
 (実は昨年、お膝元の皇學館大學には筆者が1冊寄贈いたしましたので、これも含めると、大学は計5大学となります。)
 鳥取県県内のいくつかの図書館へは、勿論蔵書されています。
 おそらく、八上や因幡に伝承される神話をまとめた書籍が今までほとんど皆無に近かったためでしょう。
 
 しかし他の地域でもまだまだ掘り下げられていないことはゴマンとあります。ですから、全国各地の皆様、ぜひとも地元に伝わる神話伝承、神社史を研究し、先ずはインターネットで公開、そして、著作として出版していきましょう。
 そうすれば、記紀に縛られていた日本の神話の本当の姿が明瞭に現れてくるでしょう。
 
 その他にもいくつか、拙著をご紹介してくださっているブログやホームページがあり、感謝いたします。ありがとうございます。
 
posted by yakamihakuto at 21:42| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月09日

旧八頭郡 高龗神タカオカミを祀る神社

 旧八頭郡で高龗神タカオカミを祀る神社を同じく鳥取県神社誌からピックアップしました。

賣沼神社 河原町曳田 クラオカミも祀る
貴布禰神社 八頭町私都延命寺
貴布禰神社 佐治町栃原
 以上3社でした。
 旧八頭郡でもあまり多くないことがわかりますが、やはり、ここにも私都(きさいち)が含まれていることには着目です!

 私都の神社をもう一度確認しましょう。
麻生神社
野町神社
福地神社
市場神社(木花咲耶姫命)※
美幣沼神社
貴布禰神社(高龗神)
花原神社

 ※瀬織津姫は記紀にその名がないため木花咲耶姫命とされることがあります。
 福地には お瀧さん があり、瀬織津姫との関連がありそうです。
 
 私都谷には最大7社もの関連神社があることになるのです。少なく見ても4社です。
 私都谷は天照大神の后神としての瀬織津姫を大切に祀り続けているといえるかもしれません。
posted by yakamihakuto at 10:19| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旧八頭郡 ミズハノメノ神を祭る神社

 ミズハノメノ神については、すでに述べたように瀬織津姫ではないかという説もあります。
 ここで、ミズハノメノカミを祀る神社を鳥取県神社誌からピックアップしました。

賀茂神社 八頭町宮谷
大江神社 八頭町橋本
赤倉神社 八頭町大江

長瀬神社 河原町長瀬
袋河原神社 河原町袋河原
都波只知上神社 河原町佐貫
中村神社 河原町佐貫
松上神社 河原町佐貫

澤神社 八東町才代 単独で祀る

若桜神社 若桜町若桜
岡神社 若桜町岡  単独で祀る
秋葉神社 若桜町岩屋堂
池田神社 若桜町中原

高山神社 佐治町高山
福園神社 佐治町福園

祓谷神社 智頭町土師



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2009年04月06日

八上姫の和歌

 
 火の山の ふもとの湯こそ 恋しけれ
        身をこがしても 妻とならめや
 

 八上の人、八上に縁のある人は全員知っておくべきですね。
 因幡の人にとって絶対暗誦しておくべき大伴家持の最後の和歌、そして、万葉集の最後を飾る吉兆の歌


新しき年のはじめの初春の
    今日降る雪のいや重け吉事

も、しっかり顕彰しましょう。

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2009年04月02日

兎発見情報

 このたびの参拝旅行で、もうでてくることはない、と思われていた波兎が4羽もいらっしゃいました。
  上市場神社  本殿真後ろ 智頭町智頭
  諏訪神社   参道の灯篭に2羽 智頭町智頭

  利川神社 摂社本殿真後ろ 青谷町
 ぜひ見に行ってください。

posted by yakamihakuto at 15:46| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国常立命=豊受大神として転生

 若桜神社の主祭神として祭られている国常立命とは。
 ホツマでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の宇宙根源神に相当する神が天御祖神(アメミオヤノカミ)として登場します。つまり、日本の神道と世界3大宗教の根源神とは同一なのです。
 そして、天御祖神が地球の日本に天御中主神として下生され、人類の基を形成されます。その後国常立命として転生され、国土を整備され、政をされトコヨクニを作られます。今の茨城県・福島県あたりが縁ある地の一つです。その証として日立・常陸(ひたち陸=国)・常世として各地にその名がかなり残っているのです。日立製作所のシンボルマークも主神のそれと酷似しています。(それは八上・若桜の平家の落ち武者集落、天御中主神を祀る藤原神社の扉にもあります。)そして関東地方を中心に昔はホツマ国と呼ばれていたそうです。
 それから、国常立命は豊受大神として転生され、東北で、孫に当たる天照大神のご誕生を願い、8000回のご祈祷をされます。
 豊受大神は宇宙根源神がその御神霊本体ですから、さまざまな祭祀の基礎を築かれたのでしょう。フトマニ図を豊受大神がおつくりになったのもうなずけることです。
 富士山ろくでのご誕生後はワカヒト(天照大御神のご幼名)様を東北にて養育されます。
 豊受大神は晩年には、大日霊貴命(ウヒルギノミコト)=天照大神のご要請により、北陸・山陰地方の統治に当たられます。
 その跡が、現在丹後地方を中心に数多く残る豊受大神を祭神とするおびただしい数の神社、神蹟なのです。因幡の稲葉神社、古苗代もその一つでしょう。
 伊勢神道において豊受大神は国常立命である、と提唱しているのは、ホツマをご存知の方にとってはまったく当然のことなのです。
 それを外宮の格上げのための渡会氏の策略であるなどと結論付けるのは、ホツマの視点からは愚の骨頂といえるでしょう。
伊勢外宮は、宇宙根源神を祭る超重要なお社なのです。
 しかし現在、伊勢外宮祭神は天照大神の食事を司るミケツ神としての位置づけしかなされていません。これは神宮、および歴史学会での定説となっているといってよいでしょう。伊勢神道は一時代の一説にしか過ぎないという扱いなのです。ホツマなどはいまだに一切無視です。
 筆者は、伊勢神道は本来の神道のあり方を最も反映しているものとして、きわめて重要であると認識しています。
 そして、伊勢神道の根本書、神道五部書には、伊勢内宮荒祭宮の祭神が実は瀬織津姫である、と明確に記しているのです。
(一方、瀬織津姫について、その御一生のこと、具体的なご活躍のことがほぼすべて記されているのはホツマを除いてほかにありません。ホツマを読むと、記紀が積極的に瀬織津姫を神話から除外していることがよくわかります。記紀が瀬織津姫抹消という恐るべきその編集方針に基づいて、神話ストーリーをぶつ切りにつづっていることは明白です。それだけではなく、宇宙根源神天御祖神を祭祀していることをも抹消しているのです。もちろん、これらは記紀が編纂される前にすでになされていたことかもしれませんが。)
 
 上記のようなことは、記紀によっては一切わからないことです。全国各地の神社祭神やその諸関係をつぶさに見ていくと、記紀は大して役に立たないどころか、逆にそれを混乱させるための悪書=偽書であることがよくわかります。そして、それは全国式内社の選択の根拠のわけのわからなさ、祭神隠し、祭神すり替えの痕跡ともなぜか一致してくるようにも思えるのです。(宮崎駿氏の「千と千尋の神隠し」は、この神隠し状態にある神々を世に出そうという意図があるように思えます。)
 これは、やはり、ある勢力によってトータルに意図的になされたものとしか言いようがないと思うのですが。

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2009年04月01日

天照大神八上行宮の期間は?

 天照大神が八上の伊勢ヶ平を拠点にしてしばらくの間行宮されたのはほぼ間違いないようです。それは、今まで検証してきた地域に残る遺跡や、伝承などによって立証できます。これに加えて、筆者が以前より注目しているホツマにも、天照大神の山陰地方行幸のことが記されています。
 天照大神は、丹後にいらっしゃった豊受大神の崩御直前より、丹後にお越しになり、天照大神は豊受大神崩御後も、丹後の人たちに引き止められて、しばらくとどまられました。この「しばらく」という期間はどれくらいかというと、関西ホツマの集いの清藤代表にお聞きすると、ホツマに記された暦から、十年間とわかるそうです。(6紋に記されています。)
 以下は筆者の想像も交えます。
 その十年間の間に隠岐、八上にもお越しになったと思われます。八上の伊勢ヶ平にどれくらいいらっしゃったのかは不明ですが、おそらく1〜2年間くらいはいらっしゃったものと思われます。
 瀬織津姫は豊受大神が崩御されたとき、しばらくは伊勢伊雑宮におられ、その後、和歌山にワカ姫とともに稲虫の駆除に出かけられます。その報恩の印として、和歌山の人々は日前国懸宮を瀬織津姫に提供されます。ワカ姫には玉津島神社を提供されます。これらはホツマの記述によってわかることです。
 瀬織津姫は、そこから伊雑宮へお帰りになったか、または、そのまま、天照大神のいらっしゃる丹後へお越しになったかもしれません。それが綾部市に残る私市なのかもしれません。
 そして、天照大神とともに山陰地方の行幸に向かわれます。
 八上にしばらく行宮されるときに、瀬織津姫は伊勢ヶ平にいらっしゃった事でしょう。あるいは私都にいらっしゃった可能性もあります。
 その候補地は現在瀬織津姫を祭る私都の4〜5つの神社の地のいずれかである可能性が極めて高いといえるでしょう。
 そして、記紀やホツマにも記されていませんが、この地でもう一人御子神をお産みになります。
 それが八上姫と思われます。
 この姫は何かの事情、慮りで、この八上の地で地元の人に養育されることになりました。

 八上姫の特徴と瀬織津姫の特徴が、どちらも性格も良く容姿端麗であったこと、広範に流れたうわさを聞きつけて、出雲から八十神、大己貴命が求婚に来られたこと、時代的に一致することなどを考慮して、八上姫が天照大神と瀬織津姫との間に誕生したという可能性は十分にあるのです。
 そして、このたびの参拝で、ほぼ、八上姫と非常に縁の深い賣沼神社境内に熊野神社、タカオカミ、クラオカミが祭られていることが判明したことから、このお社も瀬織津姫とかなり濃厚な関係を有しているといえます。
 すると、筆者の想像もまんざらあてずっぽうではないのではないかという気がしてくるのです。
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2009年03月31日

ブログ容量一杯

 容量が一杯に近づき、昨年末あたりから、極端に写真掲載を制限していたのですが、ネタもまだ切れそうにないようなので、このブログを残しつつ、今後の記事は新しい引越し先で続けることにいたしました。
 とはいえ、まだ、使い方に慣れていないので、少しかかるかもしれません。
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2009年03月18日

欠史八代?

 鳥取県には7代孝霊天皇とゆかりのある神社などがあります。鳥取県西部には、孝霊天皇を祭る楽々福神社(ささふくじんじゃ)が複数あります。霊石山付近には、八頭町土師百井や河原町国英に孝霊天皇と血縁のある末裔の方もおられます。
 丹波、丹後には9代開化天皇に因む神社や伝承が残っています。
 一方で、初代神武天皇から10代崇神天皇までの間の天皇については、歴史学会の主流的な見方として、実在しなかったとされています。
 その理由は、その間の天皇の平均寿命が長いことや、記紀の叙述に詳しく述べられていないことがあげられています。その意図は、皇室の歴史を故意に延ばそうとしたものとして、実在しない天皇を作り上げたというものです。
 天皇の平均寿命や在位期間はともかく、その実在性そのものをもすべて否定しているのが主流となっているというわけです。
 実は、筆者は、ホツマを研究する数名の人たちとともに、一昨年、この欠史八代といわれる天皇の御陵をすべて回りました。
 架空の天皇であるなら、どうしてわざわざこれほど立派な御陵を作ったものであろうか、というのが率直な感想でした。もちろん、御陵は明治以降にかなり整備されてはいます。
 しかもそれを作ったのは、ほぼ間違いなくわが因幡と深い縁を持つ土師氏なのです。実際に御陵を回ってみて、その見事な造形美に改めて感心しました。
 神武天皇陵は長らくその場所が不明でしたが、明治の初期に記紀の記述にそって、場所を特定、整備されました。
 2代から9代までの天皇陵についても記紀にそれぞれ記述があり、そのとおりに御陵が存在するわけですから、これについてはもう少し素直に認めるべきではないでしょうか。
 
 欠史八代とホツマの叙述には関連があることを「関西ホツマの集い」の清藤代表が提唱されています。
 ホツマは、40章からなりますが、前半の1章から28章までは初代神武天皇の御世、クシミカタマノミコトが執筆したとされます。
 後半の29章から40章までは、10代崇神天皇・垂仁天皇の御世、クシミカタマノミコトの末裔であるオオタタネコノミコトが記したといわれます。
 そして、それに伴い、ホツマにおいても、2代から8代の天皇の御世の記述は必然的に少なくなっています。
 おそらく記紀も、ホツマ、あるいはホツマを底本とするほかの歴史書に基づいて記されたために、ちょうど、クシミカタマノミコトとオオタタネコノミコトの間の8代の天皇の御世のことが簡略的な叙述になったのであろうという説です。
 
 まさしくホツマを研究し、それと記紀を照合することによって浮かび上がる事実の一つなのです。
 
 欠史八代はいったい誰が提唱したのでしょう。筆者はこの間、それを追っていましたが、意外にも追求できません。これについてご存知の方はお知らせください。
 

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2009年03月04日

隼神社

 イドフの友さんからいただいたコメントから、このところ隼神社に俄然関心を持っています。
 ここで、鳥取県神社誌に掲載されている隼神社祭神をご紹介します。
 
 須佐之雄神 櫛稲田媛神 羽明玉神 イザナギノカミ イザナミノカミ 天照大御神 月読神 大己貴神 天穂日神 三穂津媛神 市杵島媛神 味スキ高彦根神 下照媛神 都味歯事代主神 高照光媛大神 建御名方神 木花開耶媛神 大屋津媛神 大年神 御年神 猿田彦神 瀬織津媛神 速秋津媛神 気吹戸主神 岐之神

 以前にも紹介しましたが、ここはかつて、竹内宿禰が居館を構えていたところと伝えられています。そのちょうど北方にやはり、竹内宿禰を主祭神とする因幡一ノ宮、宇倍神社があります。
 一説に竹内宿禰は、河原町の多加牟久神社と縁のある多加牟久命と同一、とも言われています。多加牟久命は大己貴命の子孫であり、その縁で河原の地に定住されました。
 
 隼神社には竹内宿禰は祭られていません。竹内宿禰が神々を祭る祭祀の場であり、それは当然のことといえるでしょう。

 隼神社をグーグル検索してみると、この八上以外に京都市の隼神社があるのみのようです。
非常に珍しい名前の神社です。
 祭神も多く、天穂日命も祭られていることから、土師氏ルーツでもあるはずです。
 古代エジプトにおいて神と崇められてきた隼、(ホルス ヘル、ファルコン) 神を乗せる船の存在、など、隼と船岡の地名は意味深長です。もしかすると、古代エジプトの末裔たちが大挙して移り住んだ所であったのかもしれません。
 日本は、全世界からの移民がさまざまな時代に入ってきた可能性があります。日本では、伝説扱いにしかなされていない徐福一行にしても、中国では史実として扱われています。日本にあこがれてやってきているという事実を看過してはなりません。
 奈良・京都・滋賀には、さまざまな海外からの文物が運び込まれましたが、それとともに世界各国からの民が移住してきた所でもあります。
 京都の太秦(うずまさ)などはユダヤ系ではないかと思われるようなものが多く残っています。聖徳太子の法隆寺などもゾロアスター教の影響もうかがえるという説もあります。東大寺のお水取り行事もタタール人との関連も指摘されます。滋賀県には百済系の移民の地がいくつかあります。
 因幡においても、古代エジプトの移民が一つの町を形成していた、と考えてもおかしくないでしょう。隼神社を中心に、かつては隼村と呼ばれていたのですから。
 朝鮮半島との関連はよく引き合いに出されますが、それだけでなく、もっと世界中のさまざまな民族が
日本に移り住んだといえるでしょう。もちろん白ロシア系も移住してきた事も考えられます。あったかも知れないムー大陸からの移民もいたかもしれません。世界的に見て、きわめて特徴的な日本語の音韻体系の歴史をたどると、そのような説にもうなづけるのです。
 しかし、日本の言語体系や文化、習慣に慣れ親しみ、もっとも優勢であったと考えられるネイティヴの土師氏となじむことによって、すべて民族的には同化されていったのでしょう。 
 これは何も八上に限ったことではありません。
 日本人を日本人たらしめるもの、その筆頭に日本語があると考えられます。
 そして、日本の祖先神が築き上げた情緒性豊かな感性や、しきたりがさまざまな年中行事を通じて日本の社会に継承されていったことがあります。
 ホツマのような教えの書もかつてはあったかもしれません。
 しかし、そのような教えの書がなくなっても日本人の生活習慣や常識的感覚の中に神々の教えが定着してきたのでしょう。
 八上はかつての日本の玄関といわれた日本海側においてさまざまな世界の文化を巧みに受容してきたのでしょう。
 隼の存在はそれを裏付けるものといえるかもしれません。



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2009年03月03日

世界の中の鳥取の神話Pt2

 世界の中の鳥取の神話の第2弾が催されたようです。
 地元のある方からメールでお知らせ頂戴しました。ありがとうございます。いつもお世話になります。
 またまた、毎日新聞に詳しく記事が載っていることもお教えいただきました。ありがとうございます。
ここ数年、動きが活発化しています。たいへん喜ばしいことです。
 私の頭の中でもこの3年間くらい兎が飛び跳ねています。頭からはなれません。
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2009年02月25日

ホツマの天照大神御製

 天が下  和して巡る  日月こそ
 晴れて明るき  民の父母なり
 
 アメガシタ ヤワシテメグル ヒツキコソ
 ハレテアカルキ タミノタラナリ

 実はホツマには天照大神のお詠みになった歌がいくつか掲載されています。
 すでに紹介した氷ノ山山麓に伝わる御製は、ホツマには掲載されていませんが、そのほかにもサツサツズ歌も天照大神のおつくりになった歌として紹介されています。

このほかにもホツマには神々の詠まれた歌がかなり紹介されています。
もちろん、歌だけではなく、天照大神ほか、神々の御教えがふんだんにちりばめられています。これらをすべて消し去って、神話時代の事実をかいつまんで、歪曲し、神々の関係を捻じ曲げ、あるいはわからなくして出来上がったのが記紀であることが、比較してみるとよくわかります。 
 以前にも述べましたが、「万葉集の中の詠み人知らずの歌の中には相当数、私たちの祖先神の詠まれたものが数多く含まれている」(白兎の小使い説)と見て良いでしょう。八上の氷ノ山に伝わる天照大神御製の存在確認によってこの説は生まれました。おそらく今までそのような見解を出した方はいらっしゃらないと思います。
 
 ホツマにはアシヒキノ ヌバタマノなどの枕詞の解説までなされているのです。
 古代の歌謡を研究する人にとってホツマは必須の書と言えるでしょう。
 フトマニの占いに用いられた128首の歌は、天照大神が編纂されたものと伝えられています。
 
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