2009年02月16日

因幡と土師氏

 天照大神の御子神である天穂日命を祖神とする土師氏が因幡の白兎と大いに関連を持っていることは、すでに判明しています。
 筆者は土師氏は記紀によって改ざんされる前の歴史時代、神話時代の事実を、知っていたのではないかと推測しています。
 ここで、再度因幡国内の土師氏に関連する地をあげてみます。
八上の土師郷ー土師百井、池田、福本、門尾、稲荷
3つの白兎神社  私都川はかつて土師川と呼ばれていました。この土師百井が、八上の、そして因幡の中心部の一つであったと推定します。もと白兎神社の存在、律令時代の大伽藍の寺院の存在、等々からそういえるでしょう。
   大江谷全集落 橋本(土師元)がその中心地でかつて国府があったという説も。大江神社がある。   
   私都谷 大江氏系の毛利氏の拠点
   日下部 天穂日命を祀る神社
   丹比 土師氏と関連がある多治比氏より
   舂米 大江氏の流れを汲む水谷氏
   高草 白兎神社、
   能美郷 大野見宿禰命神社 大江氏の拠点、天穂日命神社他

   土師郷(智頭町)土師神社

 因幡、八上は「土師氏の一大拠点」といっても良いのではないでしょうか。全国的にこれほど土師氏の地域が集中しているところはないのではないでしょうか。そして、これに重なるように瀬織津姫が、全国一の密度で奉祭されていることと関連があるといえるのではないでしょうか。
 土師氏は、瀬織津姫がいかなる神であるかを正確に知っていたはずです。そうであるがゆえに、瀬織津姫を封印したと思われる藤原氏との拮抗があったのでしょう。

      


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2009年02月01日

瑞垣

 伊勢神宮の神宮司庁広報課は、年に3回、『瑞垣』という神宮紹介の冊子を発行しています。神宮のさまざまなイベントや、皇室の方や著名人の参宮の記録、寄稿されたさまざまな分野の方々のエッセイや論文などが掲載されています。
 少々お堅い内容ですが、時折、非常に興味深い読み物もあり、筆者もすでに10年近く定期購読しています。といっても、実際は、ほとんど郵送料くらいの値段です。詳しくは神宮司庁広報課へ御問い合わせください。
 ちなみに、最新号では、宇治橋の架け替え、宇治橋の守護神社、橋姫神社が特集されています。

 筆者も『瑞垣』に掲載される記事からこのブログ記事に反映させているものも少なからずあります。


 

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講演シンポジウムの記事が

 昨日催された鳥取大学地域学部主催の講演シンポジウムについて、ネット版毎日新聞に紹介されています。山陰中央新報にも掲載されていました。
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2009年01月25日

神蹟 豊受大神社

 京都市福知山市大江町には、元伊勢内宮と、元伊勢外宮があります。元伊勢外宮は豊受大神社が正式名称です。
 筆者はこれまでこの豊受大神社についてほとんど記していませんでした。
 実際のところ、判然としないことが多かったためです。
 この正月に初詣で久しぶりに元伊勢内宮とともに参拝した折、河田宮司家の方にお話をお聞きし、その後、宮司家に伝わる古文書からの資料を頂戴して、やはり重要なお社であることを確信しました。
 これまで、筆者は十数年来、丹後にある複数の元伊勢を参拝し、その折に少しずつ調査を進めてまいりました。

 その結果、雄略22年に伊勢山田へ向かったそのときの元伊勢外宮(ホツマでいう朝日宮:アサヒミヤ=豊受大神の奥都城)は京丹後市峰山町久次の山頂から山腹にあったと思われます。遷座の後にも祭祀は続けられやがて里に神殿が移築されたものと思われます。現在の比沼麻奈為神社ですが、戦国時代以前は、境内はもう少し手前に位置していたようです。
 久次、および隣接の苗代、二箇(にか)、五箇(ごか)、鱒留(ますどめ)にかけて特に豊受大神の神蹟や伝承が集中しています。
 ところで、大江町の元伊勢内宮の北方、真井野(まいの)にも真名井があり、豊受大神の伝承が伝わっています。
 丹後の元伊勢でもっとも有名な籠神社の摂社、真名井神社は久次岳山頂、山腹のオオミアエ石、比沼麻奈為神社社殿、大宮賣神社の真東に位置しています。、防衛上の観点から、海岸近くのここが元宮(奥都城)であったとは考えにくく、おそらくその位置関係より、元宮への遥拝の重要祭祀拠点であったと思われます。豊受大神が丹後を拠点に日本海沿岸各地に足を延ばされた形跡もあります。その一つがすでに紹介したように因幡における因幡大明神の稲作伝授であると思われます。
 それに加えて、北陸方面にも、神明社として天照大神が祀られているのではなく、豊受大神が祭られている社が多いそうです。 おそらく、そのあたりまで豊受大神がお越しになり、民の生活を助けられたことが神社の起源だと思います。
 摂津の国の宝塚、または三田市にも豊受大神がお越しになったことが、摂津国風土記に記されています。 (話はそれますが、摂津という地名は瀬織津姫の御神縁でついた名前ではないかと思っています。もちろん、摂津はずっと後の世につけられた名前なのですが、八頭のように、何らかの見えざる計らいが働いたものではないかと思います。摂津には瀬織津姫が晩年過ごされた広田神社があり、奥都城もその近くにあるかもしれないからです。あるいは天照大神の奥都城の近くかもしれません。)

 豊受大神はかなり広範でにご活躍されていましたが、特に丹後を拠点にされていたので、その関連の神社が多いのでしょう。ですから、元伊勢の本命はもちろんあるのですが、数ある元伊勢の多くが豊受大神の御現身のときの神蹟ととらえたほうがよいでしょう。現代人の文献中心の研究のみで、信仰とは無関係にあれこれ論議したところで、無意味です。
 
 そして、豊受(とゆけ)大神社です。とゆけ、と呼ばれていることはホツマの表記に近い事にも注目すべきでしょう。ここは、筆者は、久次岳から伊勢へ御遷座の際にお泊りになったところではないかと思っていました。確かにその可能性もあります。兵庫県市島町や、亀岡市に、その御遷座の跡とされるところが残っています。しかし、規模があまりに違いすぎるのです。ここは元伊勢内宮とまではいかなくとも、境内には相当格式のある社殿があります。河田氏のお話によると、周りを囲む39の摂社はそれほど古い歴史を持っているものではないそうです。しかし、中心の本殿や脇殿は昔からのものと思われます。
 河田宮司家の文書を拝見してここの重要性を確信しました。
 元からの祭神はなんと比沼麻奈為神社本殿祭神とまったく同じです。
 
 祭神 豊受大神 相殿 ニニギノミコト、天児屋根命、天太玉命

 平安時代から現在に至るまで、河田家が一貫して宮司を務めてきたこの豊受大神社は、ほぼ60年ごとの遷座の伝統を守っておられます。 
 ここの真西に位置する出雲大社においても60年ごとの遷宮の伝統を守っています。その期間がぴたりと符合しています。
 では、このお社の起源をいつごろと見るのが良いかということですが、筆者は雄略22年よりはるかに古い時代、トヨスキイリヒメが大和から第一番に天照大神の御霊代を丹後に遷座された時、と思います。 
 もちろん、その遷座地は元伊勢内宮です。トヨスキイリヒメがここにおいでになったときに、豊受大神が天降られたことが記録に残っています。ずばりこの場所が豊受大神社だったと思われます。
 元伊勢外宮はその後、ずっと祭祀が続けられたかどうかは定かではありません。
 というのも、元伊勢外宮の山、舟岡山(ふなおかやま:ここも船岡です。久次にも船岡(ふなおか)があり、そこは丹波道主命の府の岡でした。ふと八上の船岡の語源は何なのでしょうと思いました。)は前方後円墳ではないかという説もあるくらいです。
 その真偽のほどはさておき、少なくとも記録に残っている限りでは昌泰3年(西暦900年)には存していたことがわかります。
 おそらく、トヨスキイリヒメがここに4年間いらっしゃった間に豊受大神の御神霊が出現され、大きな瑞祥として、その地に格式のある社殿が創建されたのでしょう。
 


 

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2009年01月22日

和魂洋才 和魂漢才

  
 和魂漢才は菅原道真公の有名な言葉です。和魂洋才は明治期、欧米列強に伍するためのスローガンとして使われたようです。
 歴史学者の上田正昭氏は、よく、著書で和魂洋才のことを述べておられますが、現代の日本人は、もはや、和の心を忘れ去って洋魂洋才になってしまっている、と指摘されています。確かにそのとおりです。
 教育においても、神道のことが語られることがなく、テレビ番組でも、これまで神社について取り上げられることはほとんどありませんでした。しかし、年末年始ごろには筆者は見逃しましたが、「世界不思議発見」で特集がなされたり、養老孟司さんやビートたけしさんが、伊勢神宮を参宮したときのドキュメント番組などがありました。
 エジプトのピラミッドについてもよく取り上げられますが、先ずはお膝元の日本でほとんど研究が手付かずの状態で、今も信仰の対象となっている10万もの神社の存在の謎のほうが奥深いものがあります。
 
 食生活にしても、欧米化してしまい、そのことから現代病=生活習慣病が蔓延しているとも言われます。アンチエイジングのためにも、自然環境破壊を止めるにも野菜中心の食生活が有効なのですが。
 日本人はほんの数十年前までは日常の食卓で、獣肉を頻繁に食べることなどなかったのですが、今ではごく当たり前となっています。これに関しても、ホツマでは明確に天照大神が肉食の弊害を説かれているのですが、記紀によって見事にかき消された、と見てよいでしょう。
 
 ところで、09年センター試験英語の問題の中にアインシュタインが晩年に1年間ベジタリアンになったことが問題文にありました。別の問題のところでも、有名なYou are what you eatというセンテンスが紹介され、その意味を並べ替えで問うものもありました。もっともこの言葉はさまざまに受け取る側によって解釈されています。
 筆者はこれを読んで、問題作成者の中には、食のことに敏感になっている人がいるのだと確信しました。
 センター試験ですから、受験者の中で特に感性の鋭い人には、大きな好ましい影響を及ぼすことでしょう。
 
 英語の教材などを見る機会があるのですが、その問題文や例文の中に、好ましくない内容が少なからず含まれていることに気がつきます。
 たとえば単語を覚える例文として「It is easy to deceive people.人を騙すのは簡単だ。」などというものが平然と掲載されているのを見て驚きました。そのテキストには他にもいくらか問題と思える表現が使われています。作成者の思想性が表れたものでしょうが、数十万から数百万の多くの生徒がこれを読み、暗誦し、潜在意識に刻み込まれていくことを考えると、これはよからぬことであるとは思いませんか。数十年前ならば、このような文は見過ごされることはなかったでしょう。
 IQのみを必死に鍛えて、EQに欠ける人たちが主流をなす社会は必ず衰退していくでしょう。日本人の情緒性の高さを取り戻さなくてはなりません。和魂洋才、いや、今となっては和魂和才で国を立て直すことが大切です。
 
 昨日200万人もの群集の前で就任したオバマ氏には期待したいところです。彼なら大変革をやってくれそうです。大きな邪魔が入りませんように。

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2009年01月12日

外宮と内宮

 伊勢神宮は外宮と内宮および、関連する計125社からなっています。
 記紀に外宮の祭神についてほとんど記載がないこと、内宮の成立についても記述がないことから、内宮と外宮の祭神の関係についてはさまざまな論が展開されています。
 中には、少々行きすぎと思える主張もネット上で見かけます。
神々のことを論じるときに、神格を否定するのは言語道断ですが、あまりに冷徹でシニカルな論評をするのはどうかと思います。少し前までの日本人は、何かはわからなくとも、畏敬の念を持って古来より神仏や自然を崇拝してきたものです。「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」(西行です。)
 唯物主義的な学問的方法論が大学を中心に支配する中で、学究的に追究するあまり、信仰とはなれてしまっているのは残念な思いがします。(そのような傾向が長く続いている今日、東京大学において60年ぶりに神道を研究する会が発足したのは非常に意義のあることです。また、顧問である菅野覚明教授も、その著作『神道の逆襲』において、伊勢神道を、倫理的な観点から積極的に評価しながら、従来の神道五部書を全否定するかのようなステレオタイプ化された説にとらわれないで、独自に慎重に論じています。)
 また、神仏を論じるにあたって、神秘的な事象はほとんど無視されています。古い時代のものであればそれは受け入れられたりもしますが。
 外宮と内宮の関連は、記紀において意図的にわからなくされているものであることが、ホツマによって明確になります。(ホツマが真書であるとするなら本当に、今までの恣意的な解釈がほとんど吹き飛び、整合性を持った真相が顕在化します。)
 特に日本書紀がその意図を顕わにしています。雄略22年7月に丹後(当時は丹波)比沼の真奈井の比沼山頂(現久次岳)から、伊勢の宇治山田へと外宮祭神は遷座されるのですが、このことには一切触れられていません。そして同雄略22年7月、丹後伊根筒川から浦島太郎が竜宮城へ向かったことを大々的に日本書紀は取り上げているのです。同じ年の同じ月、ですから、これは明白です。
浦島太郎は300年後の淳和天皇の御世に竜宮から戻ってくるというものですが、史実としてありえそうにないこと、しかも、国家的レベルから考えても外宮の伊勢への遷座という一大事とは比較にならないことです。Wikipediaにその背景、執筆者と思われる人物についても記されています。
「『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた作品を本にしたものでありこの人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『壊風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。『雄略記』や『丹後国風土記』、『万葉集』「巻九」などに見られる8世紀の浦島物語の原話は伊預部馬養によって描かれた神仙伝奇小説であった可能性が大きい。」と説明されています。


 同時に、豊受大神の数々のご活躍の舞台であった比沼の里、真奈井では、風土記において、豊受大神があたかも羽衣天女の一人であるかのような「伝承創作」をした形跡が濃厚です。
(このような創作が、古事記のイナバノシロウサギ神話においてもなされていることは、石破洋教授が『イナバノシロウサギの総合研究』で解明されているとおりです。 
筆者は、古事記のイナバノシロウサギは、天照大神を導いた白兎が、その後、瑞祥の象徴となったことを押し隠そうとした意図があるものと見ています。
 全国各地の古い歴史を持ついくつかの神社で、兎が吉兆の象徴として大切にされていることの起源は、記紀では一切不明で、古事記では、逆にうそをついた、というレッテルを貼られてしまっているのです。)
 
 ホツマによって、天照大神と豊受大神の本当の関係や、丹後真奈井が、重要な政治拠点となっていたことを知る者にとって、おとぎ話それ自身は幻想的で興味深いことは否定しませんが、このような中国風の作り話で事実をファブリケイトされていることに、唖然としてしまいます。
 そのような意図が見え隠れしているにもかかわらず、主に記紀や風土記の叙述に頼って、他の面での検証抜きにして、天照大神と豊受大神の神格を誤って認識しているものが、アカデミズムの中で少なからず存するのは、由々しき問題ではないかと、筆者は感じています。
 他の面とは、例えば、京都の伊勢、日向大神宮の外宮祭神が天御中主神とニニギノミコトであること、天橋立、籠神社にも豊受大神が天御中主神、国常立命とご同体であるという所伝が独自にあること、大本教でも同様の解釈がなされていること、そしてホツマにも豊受大神は国常立命の転生された神であることが記されており、それぞれが相互に関連することなく、しかも伊勢神道とは無関係に存在していることです。
 加えて、藤原不比等、持統天皇のときに、内宮と外宮の社家に大きな変更が加えられ、その直後より天皇ですら伊勢神宮へ参宮できなくされるという緊張関係が生じていたことを、知ってか知らずか等閑視し、もともと内宮と外宮の両宮の社家であった渡会氏が、鎌倉時代になってやっと表に出すことのできた伊勢神道を、軽んじている主張が多いのには、ただただ驚くばかりです。
(天皇の参宮禁止は明治維新まで約1200年間続きました。外宮に関しては菅原道真公の生誕の際、祈祷がなされたくらいですから、平安初期から一般庶民の参宮は認められていたと思われます。
その後、鎌倉期からは内宮も、武家そして一般庶民の参宮を受け入れています。然し、皇室関係者に限っては斎王を除いて一切参宮された方がいないのです。
その一方で、戦国時代、後陽成天皇は丹後の元伊勢、比沼麻奈為神社へお越しになり、額を奉納されています。ですから皇室も本当は伊勢神宮祭神の直接祭祀を切望されていたと思われます。
さきの日向大神宮へは歴代の数名の天皇も参拝しておられるようです。宮中八神には伊勢の祭神は含まれていません。宮中においても天照大神を祭祀することはままならなかったようです。「私幣禁断」の真相は「皇室の参宮禁止」ととらえた方が妥当でしょう。)
 神道五部書に偽書の烙印を押した吉見幸和の主張がいかなるものであったか、非常に気になるところです。
社家の強引な変更も突然実行され、神宮にあった古文書も焚書された可能性もあるのではないかと思われます。また、一般民衆と皇室をも伊勢神宮から切り離してしまった「私幣禁断」の狙いは祭祀の担い手を伊勢神宮内宮神官のみに限定し、神宮を孤立させ、経済的にも困窮させて、ゆくゆくは廃絶しようとしたのではないかと思われます。
神宮の御杣(ミソマ)山も伊勢から遥か遠くの木曾へと、用材確保にも苦労しました。
 この御杣山で、遷宮のたびごとに1万本以上ものヒノキが切り出されるます。用材の中には、量は少ないのですが、樹齢600年を超える大きさのものも必要とされます。元は神宮の宮域から確保できていたそうですが、鎌倉期には、もはやすべて切り出してしまってなくなったという事実には注目すべきでしょう。

丹後の元伊勢は庶民に対してなんら奉幣の制限などありません。豊受大神が稲作をはじめられた月の輪田や籾種を浸された清水戸も昔から今に至るまで、庶民の生活の場に位置しており、「私幣禁断」などというしきたりとはまったく無縁です。
ホツマによれば、豊受大神が真奈井で天照大神に伝えた最後の教えでも、君主は民の親であり、庶民への愛を大切にすることを強調されました。この思想と「私幣禁断」には筆者は距離・違和感を感じます。
 おそらく他の古い伝統を持つ神社でも60年ごとの遷座は行われていました(おかげ参りも60年周期で爆発的にヒットしたそうです。出雲大社も昨年60年ぶりに修復がなされたようですし、京都府大江町の元伊勢豊受大神社においても平安時代より、ほぼ60年ごとの遷宮を行ってきていることが社家の河田家に伝わる古文書に記されています。おそらくここはトヨスキイリヒメが三輪より遷座したときに創建されたものではないかと筆者は思っています。)が、外部のサポートを一切絶たれた状況で神宮を20年ごとに遷座し続けることは神宮にとって大きな負担となったはずです。
 御師の登場、活躍がなければ、間違いなく神宮は消滅、ないしは大幅に規模を縮小せざるを得なかったと思われます。然し、パラドクシカルにいうならば、持統天皇の御世に定まったとされる20年毎の遷宮は、庶民の伊勢神宮への関心を喚起する機会を頻繁に与えることができるものとなっています。

 ホツマによれば、豊受大神はイザナミノミコトの父、即ち天照大神の祖父に当たる神で、天照大神のご誕生のために、宇宙の天御祖神に8000回に及ぶ祈祷をされ、ご誕生後は天照大神を東北の日高見で養育されたのです。
豊受大神は丹後真奈井で崩御される間際にも、天照大神を伊勢の伊雑宮からお呼びになって、最後の教えを説かれました。後に天照大御神もここ丹後の豊受大神の元でご永眠されることを望まれて、奥都城を丹後になされたのです。
それくらい縁の深いところであったがゆえに、崇神天皇の御世にトヨスキイリヒメが天照大御神の御霊代の遷座の地として、先ず第一番に丹後を選ばれたのです。その場所とは天照大御神の長期的な行在所、または奥都城であろうと思われます。それら関連の地が元伊勢として信仰の場とされてきたのです。
 最終的には、天照大御神の晩年のご住居である伊勢五十鈴川上流、現在の内宮の地に遷座されることになります。
 天照大神の崩御の後に瀬織津姫は、大神のご遺言どおりに五十鈴川の宮殿を後にして、ワカ姫とともに西宮の広田の地にお移りになったのです。
広田神社は瀬織津姫の別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)という名前で祀られている非常に珍しいお社です。
 ホツマの記述がいかに神社祭神や伝承と一致しているかが皆さんも次第に納得していただいていると思います。繰り返しますが、記紀では、これらの記述の数%にも満たないことしか記されていません。丹後の元伊勢伝承地は勿論、伊勢の内宮、外宮、伊雑宮の関連なども、さっぱり見当がつきません。

 
 伊勢神道においても不明な、豊受大神と天照大御神のご関係と、その関連の社とその位置関係、元伊勢遷座の意味などが、ほぼ全て理路整然と説明できるのは唯一、ホツマしかないのです。
 こうして比較検討してみると、記紀の執筆者の狙いは、日本の祖先神のご業績を踏みにじり、分からなくすることにあったといえるでしょう。
 

 また、豊受大神の最後の教えのご伝授の後、丹波の民に慰留を懇願されて、しばらく行宮された縁で、天照大神が、後に因幡・八上へ行宮されることになったのだと思われます。
 
 豊受大神は天照大神にとって、特別の神だったのです。これに関して、ネット上で、大変興味深いたとえをしているのを発見しました。非常にわかりやすいたとえです。
   
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2009年01月04日

鯰絵の天照大御神

 今朝ニューギニアで大きな地震が起こったそうです。大きな被害が出ないことを祈ります。
 
 ところで、江戸時代には地震からのお守りとして、鯰絵(なまずえ)というものが流行したそうですが、その中には天照大御神が男神として描かれているものもあるようです。
 実に ユニークな構図で、地震を引き起こした鯰が鹿島神宮に連れ出されて、天照大御神の前で、詫びの証文を書いている様子が描かれています。
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2009年01月03日

姫路神社 鳥取市気高町

 元日の日本海新聞第4部には鳥取市気高町にある姫路神社と丑の関連についての記事がありました。
 それによると、ここには、牛の舌祭りという行事が続けられているそうです。祭りの起源は16世紀ということですが、「祭神スサノヲノミコトが出雲の国でヤマタノオロチを退治した後、疲れて帰ったことで慰労のための「御忌みさん」に入ると伝えられている。その帰ってきた日が丑の日の丑の刻、起きたのが申(さる)の日の丑の刻。申の日の午前中に牛の舌をかたどった餅を奉納する」そうです。
 このように、神社の伝承を検証していくと、それぞれの神様の御現身(おうつしみ)のときの足跡が浮かび上がってきます。
 ヤマタノオロチ伝承は出雲の斐川上流とされていますが、日野郡や八頭郡も比定地としうるところです。スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治した後、「帰ってきた」と表現されるということは、ここも、あの国境付近に当たる気多の崎の近くであり、スサノヲノミコトが拠点としていたところは因幡であった可能性が出てくるのかもしれません。
 その意味では、因幡の白兎神話と同様、ヤマタノオロチ退治の神話も出雲から因幡へと広範囲にわたるストーリーとしてとらえていった方がよいと思われます。
 それにしても、なぜ姫路という名が冠せられているのでしょうか。
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山陰文化観光圏

 新年明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 帰省中に地元の日本海新聞を読みました。筆者にとってはすべての新聞の中で、最も読みごたえのある新聞です。
 元旦の朝刊第2部には「山陰観光文化圏」が特集されていました。新聞によれば、2泊3日以上の滞在型の観光観光地作りを国が進めており、その候補地16地域の中に中海・宍道湖・大山を中心とした山陰文化観光圏が選ばれたそうです。今年から本格的に取り組みがスタートされるそうです。
 その中に荒神谷博物館長藤岡大拙氏のインタビュー記事が掲載されていました。
 藤岡氏は鳥取島根両県をまたぐこの文化観光圏のキーワードの一つは「神話」で、その中でも因幡の白兎について、斐川町には八上姫と大国主命の間にできた御子神、御井の神を祀った御井神社や大国主命が八十神に襲われた伝承の残る赤猪岩(あかいいわ)神社があることから、因幡の白兎神話を出雲にまで広げることで、「因幡の白兎は壮大なコースができあがる」と指摘されています。
 神話でつながる山陰、筆者も同感です。
 山陰の魅力は豊富な神話とその舞台を大いに活かすことで、さらに引き立ってきます。
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2008年12月18日

地名の変遷

 筆者はかつての因幡全体が八上と呼ばれていたのではないかという推論を立てています。
 八上と呼ばれる前は、地理的範囲は確定できませんが、ホツマにあるようにサホコチタル、古事記に登場する根の国、底(ソコ=サホコ)の国、あるいはヤマカゲ、と呼ばれていたのかもしれません。
 もし、スサノヲノミコトが須賀の山にクシナダ姫と宮殿にお住まいになっていたのであれば、その時点から出雲と呼ばれていた可能性も無きにしも非ずです。

 天照大御神がここに行幸されて以降、八上と呼ばれるようになったのでしょう。そして大己貴命が八上姫を娶ったことで、因幡とほぼ地域的に同一であった八上は出雲、と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
 地名は、残っていくものですから、複数の呼称が重なって残っていった可能性が高いでしょう。
 また一方、おそらく豊受大御神が稲葉大明神として鳥取市立川付近にお越しになった直後、その地域は稲葉と呼ばれるようになったのだと思われます。そしてやがて八上が稲葉と呼ばれるようになり、八上は因幡の中心部に限定されていったのでしょう。それでも因幡の中で最も大きい面積を持つ郡としてその名は残りました。
 因幡、八上も出雲と呼ばれていたことがあるとするならば、納得のいくことが多く出てきます。一つはスサノヲノミコトの八岐大蛇退治伝承の舞台(須賀の山山麓)、天穂日命の拠点比定地(高草)、出雲土師氏の本貫地(八上の土師百井)など、現在の島根県の出雲では、それらの比定地として根拠に乏しい感があるのですが、因幡まで広げるとその舞台をカバーできるのです。
 これまで、歴史学、神話学では出雲、といえば島根県とせいぜい鳥取県西部までしか視野に入れていませんでしたが、因幡も出雲とみなすことで、さまざまな謎が解けてくるのではないでしょうか。岡山方面もそう呼ばれていた可能性もあります。
 ではなぜ、大出雲が現在認識されているような島根の東部に限定されていったのでしょうか。
 それはやはり国譲りと関係するものと思われます。国譲りの後、大己貴命は青森の津軽、岩木山へ国替えされます。そのときに、現在の出雲に地域が確定されたのでしょう。
 しかし、先に述べたように、いったん出雲と名づけられた稲葉方面も、出雲の呼称が残ったのでしょう。
 その後、8世紀初頭、記紀編纂の折に、その内容にそぐうように出雲地域を限定し、その限定された出雲に記紀の記述に合わせて、関連の施設、伝承地を作り上げていったのではないでしょうか。そのように捉えることで、出雲国風土記と記紀の内容の相違の発生もうなづけます。と、ここまで述べましたが、筆者も自信がありません。あくまで推測の領域です。
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2008年12月17日

フトマニと和歌 神様カード

 先日の講演シンポジウムに参加された方より、大変興味深い神様カードというものを頂戴いたしました。誠にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。
 これは正に日本版タロットカードといえるかもしれませんが、決定的な違いがあります。それはこの中には当然のことながら、魔に通じるものは一つもないということです。さすが日本発です。日本人の性格の良さ、道徳性の高さは、この魔的な要素が皆無、ないしは極めて少ないことに由来しています。日本の生活習慣になじむことは、自然にそのような潜在意識を誰もが持つことにつながると思われます。
 どれが選ばれようとも、必ず、良い意味を持っています。プラス発想、ポジティヴシンキングが人の運命を好転させる原理と同じです。しかも、日本の古来の神々ですから、私たちと非常に縁があります。日本の神々の御神徳は、日本人に共通する潜在意識の決定要因です。
 カード解説の中で、神様の祭られている代表的な神社の中に、鳥取では国坂神社(祭神少彦名命)、そして、前回紹介した八東町安井宿の伊蘇乃佐只神社が紹介されていました。

 実は、日本でも古くから占いに用いる道具がありました。それは豊受大神が作成されたフトマニ図と天照大神が選定された128首の和歌です。
 以前にも述べましたが、和歌が政(まつりごと)と深いつながりがあった、その源はここにあったのです。いったい誰の手によって隠されたのでしょうか。おそらく、邪な思想を持った皇統の外部の権力者によって、かき消されたのでしょう。ですから、これに関連するホツマ、ミカサフミ、カグミハタなどもともに皇室、皇室周辺から遠ざけられることになたのでしょう。
 日本人がお伊勢さんに自然に惹かれていくのは、中国びいきの為政者によって、どんなに神々のその業績を隠されても、深く日本人のDNAの中に記憶が刻み込まれているからでしょう。128と関連するのは24部128門より成る和名抄ですが、ひょっとすると、このフトマニ、和歌の伝承が何らかの形で残っていたための一致でしょうか。
 
 そして上の記事を書いた直後に、生まれて初めて選び出したカードは、なんと豊受大御神でした。やはり、という感じです。実に不思議ですね。私は、人に見えないものが見えたりするようなことは一切ないのですが、このような不思議な符合の一致や、シンクロニシティーは数多く経験しています。そのことは、このブログを定期的に読んでくださっている方もすでにお気づきのことと思います。
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2008年12月04日

金星 木星 月

 珍しい天体現象が先日おこったようです。
 金星と木星が三日月の周りで輝き、見ようによっては月の周りを兎(rabbits)が飛び跳ねているようにも見えます。
11月25日で紹介した月のしずくと波兎の写真を思い起こしました。またこれもシンクロニシティーでしょうか。

Photo by Helen in South Africa.(an Eddie Jobson fan)

金星 木星 月
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2008年11月28日

2008年11月26日

海潮音にシンポジウムの事が

 本日11月26日付 日本海新聞のコラム、海潮音に23日のシンポジウムについての所感が紹介されていました。 冒頭の新さんのウサギの案内のエピソードは近々、筆者も自身の最近の体験とあわせて紹介しようと思っていました。詳細はこちらでどうぞ。執筆者のおっしゃるとおり「千年の眠りから覚めた兎の神様」が今動き出しています。

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2008年11月24日

シンポジウム無事終了!

 11月23日 イナバノシロウサギシンポジウムは無事、終了しました。約150名もの方に集まっていただきました。誠にありがとうございます。主催の八頭町役場、産業課の方々や観光協会の方々の非常に手際のよい準備により、講演会はスムーズに進行しました。細かな配慮が行き届いていると思いました。本当にお世話になりました。米子からもある禰宜の方から祝電をお寄せいただきました。ありがとうございます。地元で大評判の甘味屋の梅大福まで頂戴し、初めて口にしてそのおいしさにびっくりしました。ありがとうございます。
 鳥取産はおいしい、と巷でも評判が高まっています。カレーもギャル曽根さんで有名になったようです。
 
 そして、なんと八頭町長もお越しいただき、パネルディスカッションの最後までご清聴いただきました。
 この催しをさらに町の活気作りにつなげていくことができれば目標達成です。また、教育関係者の方も比較的多くいらっしゃったようで、今後、シンポジウムで話された内容がさまざまな形で反映されていくことをとても期待しております。
 
 筆者は講演慣れしておらず、結局、原稿を用意してスライド写真をスクリーンに写しながら、ほとんど読み上げていくというものでした。
 パネルディスカッションは、筆者は準備できておらず、ほとんどを他のパネラーのみなさんにお話してもらいました。コーディネーターの日本海新聞記者石井記者は、話の流れを上手に作っておられて、さすが、と思いました。パネラーの松本さん、平木さんも率直で的確なご意見でうまく場を盛り上げていただきました。
 そして、新さんは、主に歴史時代の因幡、八上の豪族が大和政権樹立に大きく貢献してきたことの形跡や、土師氏や物部氏と兎神の関連について展開され、話の内容が非常にアカデミックになりました。
 筆者もその中で何とか発言し、「八上の白兎は古事記の話のように騙したりしない尊い神であり、地元の方はもっと誇らしく思っていただきたいこと、伝承地や遺跡、社寺は直接自身の目で確かめして初めていろいろなことが感じ取れ、理解できること」を強調しました。
 
 では大胆にも、筆者の講演原稿を公開いたします。

 原稿版11月23日 イナバノシロウサギ神話シンポジウム
 八上の白兎と神々の伝承の謎  
 八上ルネサンスへの序章
因幡の白兎は、誰にでも知られている『古事記』神話の一つです。だましたワニに赤裸にされてしまった兎は、通りかかった大己貴命に助けられます。大己貴命は助けた兎に、これから出会う八上姫と結ばれることを予言されます。『古事記』にはその八上姫がいた八上の里がどんなところであったか、一言も記されていません。
鳥取市の白兎海岸には、この神話伝承と関連して白兎神社があります。白兎海岸の白兎神社本殿の台座には、珍しい菊の御紋が施されており、皇室との関連があるのではないかといわれながらも、長年謎とされてきました。
 一方、八上姫の住まう八上の里にはその謎を解く鍵が隠されていました。そこには、天照大御神の八上行幸の折、白兎が現れて行宮(あんぐう)にふさわしい場所へ案内した、といういわば「もう一つのイナバノシロウサギ伝承」が残っているのです。これが白兎神社の台座に残された菊の御紋の由来と関連すると思われます。
 八上にはたいへん貴重な伝承、それと関連する様々な神蹟があります。
 八上の白兎が天照大御神を案内
 因幡の中央、八上の霊石山山麓の城光寺(八頭町下門尾 現青龍寺)と慈住寺(八頭町土師百井)の縁起には「霊石山に天照大御神が行幸され、その時白兎が大御神の御装束を口にくわえて西方の伊勢が平まで案内された」と記されています。それを裏付けるように、霊石山には「伊勢が平(いせがなる)」という地名が今も残り、「皇居石(こうきょいし)」や「御冠石(みこいわ)」と名づけられたイワクラ等があり、霊石山の東の麓には3つの白兎神社があるのです。
 なお縁起には、鳥取・兵庫県境の山、氷ノ山(赤倉山)は、天照大御神が旭日に輝く日枝の山(ひえのやま)、と感動されたことがその名の由来であることも記されています。その縁起の伝承記述と符合するように、若桜町舂米(つくよね)集落には天照大御神御一行の行幸伝承が残っており、天照大御神の御製といわれる和歌が伝わっているのです。全国を見渡しても天照大御神の伝承の残る場所は極めてまれであり、しかも御製に至っては唯一、といってよいでしょう。
 須佐之男命と大己貴命も八上に
 現在の氷ノ山は山頂に須佐之男命の宮殿があったことから、昔から須賀の山(すがのせん)と呼ばれていた山です。ヤマタノオロチ伝承もここであるという説もあります。(『須賀の山雑記』山根達治著より)もと山頂にあった神社は、現在舂米集落に遷宮していますが、宇宙の根元神:造化三神(天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ))を祀っています。かつては因幡・美作・但馬・播磨4カ国の総社で皇室が管理されていた、という非常に格式の高いお社です。
 鳥取県神社誌によれば、旧八頭郡(古の八上郡と推定 郡家・船岡・八東・若桜・河原・用瀬・佐治・智頭町)には、199の神社がありますが、その半数近くの84のお社で須佐之男命を祀っています。これほど集中的に須佐之男命を祀っている地域は極めてまれといえるでしょう。これは人々を悩ませていたヤマタノオロチを退治した須佐之男命を英雄とみなしていることからでしょう。
 また、旧船岡町才原(さいばら:財原)の大江神社の地は、大己貴命(おおなむちのみこと)がこの地で民に農業を教えて、村が豊かになったとする伝承を残すところです。隣の鳥取市河原町には八上姫を祀る売沼(めぬま)神社やその御子神である御井神(みいのかみ)を祀る黒木神社があり、大己貴命を祭る神社が多く残っています。
 瀬織津姫命・イザナギノミコト
 『古事記・日本書紀』には登場しない瀬織津姫(せおりつひめ)が、八上の私都(きさいち)に集中的に祀られているのは、地名の由来と関連がありそうです。智頭町の虫井神社は瀬織津姫を祀る壮大なお社で、かつては船岡の大江氏が祭祀を司っていたようです。瀬織津姫とは 大祓祝詞(おおはらえのりと)に登場します。鳥取県は瀬織津姫を祀る神社が全国で3番目に多いところです。一番多いのが36社の岩手です。32社の静岡に次いで3番目の鳥取ですが、全部で25社あり、そのうち旧八頭郡に14社もあるのです。私都だけで4社もあるのは驚きです。私都という地名と瀬織津姫は密接に関連しているように思えます。瀬織津姫を祀る私都 花原の花原神社は天照大御神の行宮の地、伊勢が平(いせがなる)の真東に位置しています。智頭町の虫井神社も、天照大御神を祀る八頭町大江の赤倉神社のほぼ真南に位置することなど、何か関連を示そうという意図があるのではないかと思われます。
                    
 智頭町と岡山県奈義町の境にある那岐山(なぎせん)はイザナギノミコト・イザナミノミコトの降臨伝承に因む山です。麓の那岐神社は天地開闢(てんちかいびゃく)のときに現れた神世七代(かみよななよ)の神が祀られているという珍しいお社です。

 日本の神話を代表する天照大御神・須佐之男命・大己貴命・イザナギノミコト・イザナミノミコト(智頭郡もかつての八上郡だったと考えられる)の伝承が、そろって残るという、全国的にみてもきわめてまれな「神話のふるさと八上」は、今まで出雲神話の陰に隠れてあまり知られることはありませんでした。日本の神話を代表する神々の伝承が残る八上、因幡は、現在、大変注目を浴びている宮崎県よりも内容の濃い「神話のふるさと」といえるでしょう。
 
 石破洋元島根県立女子短期大学教授の『イナバノシロウサギの総合研究』をきっかけに、脚光を浴びつつある因幡・八上の神話伝承、特に八上に固有の天照大御神と白兎の神話、それに関連する数々の遺跡について顕彰していくことは、後の世にこの貴重な伝承を受け継ぐためにも、そしてかつての八上全体を活気づけるためにも大切なことだと思われます。

 以上をふまえて八上の神話伝承とそれに関連する遺跡などについてお話させていただきます。

 まず最初に、平成になってからこのようなムーブメントが起こった発端は、1999年兎年、石破洋教授のイナバノシロウサギに関する新説が日本海新聞記事に紹介されたことにはじまります。翌2000年石破教授は『イナバノシロウサギの総合研究』を出版されました。これはイナバノシロウサギに関する初の学術研究書で、『古事記・日本書紀』の研究対象として掘り下げられなかった八上にはじめてスポットがあてられたものです。石破教授の研究の諸成果なくして、私たちの今日のような催しは決してありえなかったことです。実は約50年前の昭和32年、郡家町の広報にもこの伝承が紹介されたことがあります。しかし、それを引き継いで大きく取り上げる動きはそのときは現れませんでした。

 これから八上のお話をする前に、まず、因幡の地名由来について私が思うことを述べていきます。
 稲葉とは稲作に関係のある地名ですが、どうしてこのような名前がつけられたのでしょう。その謎を解く鍵は稲葉神社です。鳥取市立川にあります。祭神は稲葉大明神です。稲葉大明神とはどのような神様でしょうか。稲葉大明神は稲葉神社の東の卯垣(ぼうがき)にあった半月形の苗代田、古苗代と関連があります。現在は消滅した古苗代跡、そこには記念碑が一本あるのみです。大苗代というところもあったそうです。これは稲葉大明神がどこからかお越しになり、稲葉の民に、初めて苗代を用いた稲作を伝授されたところなのです。そして漢字は稲場、稲葉、稲羽、現在の因幡へと変遷していきますが、音は正確に伝えられていったものと思われます。
 ところで、同じような遺跡と伝承が伝わるところがあります。京都府北部、天橋立の手前、丹後半島の山間部、現京丹後市峰山町二箇というところに「月の輪田」という名前の半月形の苗代田が残っています。残念なことに、実は本来の月の輪田は昭和の圃場整備で消滅し、移転・縮小されています。この月の輪田は、丹波の地名由来と関連するのではないかといわれています。田庭が田場になり、現在の丹波になったと考えられます。
 月の輪田のすぐ隣の久次には久次岳という山があり、その麓には比沼麻奈為神社があります。祭神は伊勢神宮外宮の豊受大御神です。久次岳の中腹から山頂にかけては禁足地とされていますが、そこには、古代の祭祀場跡があるようです。豊受大御神の伊勢神宮外宮故地といわれているところです。豊受大御神の伝承が色濃く残るところで、月の輪田には、豊受大御神が丹波で初めて稲作を始められたところという伝承があるのです。そして豊受大御神は周辺の地域にこの稲作の方法を伝授されたそうです。隣の豊岡市は豊受大御神と関連のある地名ですし、但馬もその可能性が高いでしょう。摂津にも伝承があります。
 このような伝承内容の類似関係を見ると、稲葉大明神とは豊受大御神であるのではないでしょうか。
    
 続いて因幡の祖先神について考えて見ます。鳥取市湖山のかつての高草郡には天穂日命と、その御子神を祀る神社があります。天穂日命の末裔、土師氏の始祖であり、相撲の始祖でもあることでも有名な野見宿禰命を祭る神社もあります。土師氏と名乗り始めてからの拠点は実は八頭町の土師郷ではないでしょうか。土師氏の系統から後に学問の神様で有名な菅原道真公の菅原氏や、大江氏が登場します。土師氏は皇室と非常に関係の深い氏族です。
 天穂日命は天照大神の御子神ですが、出雲の国譲りの際の交渉役として高天原から派遣された神です。天穂日命は出雲大社の祭祀を司る北島家と千家家の始祖でもあります。 因幡の氏族の一つである土師氏は因幡全土に多く分布し、特に八上と高草に多いようです。土師氏の職掌は、土師器の製造と陵墓の造営・管理です。八上の私都谷と下坂、奥谷には、非常に窯の跡が多く土師氏の分布と重なっています。そして霊石山山麓を中心に古墳群が多く分布しています。またその中には特殊な形の古墳もありました。福本70号墳がそうです。これもいずれは復元されると良いでしょう。
 

 八上の神々
 ここで八上の名称由来について少し私なりの推測を述べたいと思います。先ほど那岐神社の紹介をしましたが、神世七代の神、6代目がオモダルノミコト、七代目がイザナギノミコト、そして、8代目が天照大神なのです。
 和歌山県南紀白浜の近くには熊野古道があり、そこに八上王子という神社があります。ハニカミ王子ではありません。ハンカチ王子でもありません。(註:笑いをとろうとしましたが、失敗しました。残念!)この神社の主祭神は天照大御神です。また、天照大御神を祀る伊勢神宮内宮のご神体は八咫鏡で、これも数字の八と関係があります。八という数字と天照大御神の関連があり、ここに天照大御神がお越しになったという歴史的事件を象徴する地名として八上となったのではないでしょうか。

 天照大御神伝承と白兎 
 地元の青龍寺・慈住寺の縁起に記された天照大御神と白兎の伝承をご紹介します。鳥取市方面との境には門尾の三本松があります。このあたりで天照大御神は白兎と出会います。白兎は天照大神の装束の裾を銜えて、行宮にふさわしいところへと導きます。
 そして、霊石山の山頂近くの伊勢が平という平原まで、天照大御神ご一行を導き、そこで姿を消してしまいます。天照大御神はしばらくこの伊勢が平で行宮され、八上を治めます。その後、八東、若桜を経て氷ノ越えの道を進まれ、雪深い峠近くで、美しい樹氷をご覧になり、御製を詠まれました。
 
 霊石山とその周囲の神蹟をみていきます。まず霊石山の東側の麓には私都川が流れ、古の八上の街道がありました。それに沿うように3つの白兎神社があります。福本には八上の白兎神社本社があります。福本の南西方面には池田の白兎神社があります。そして土師百井にも、もと白兎神社があります。ここだけ、もと、という言葉がくっついていることはとても重要だと思います。いずれも大正3年、1914年に宮谷の賀茂神社に合祀されました。福本の白兎神社の立派な社殿は幸運にも壊されることなく、当時の青龍寺住職によって青龍寺本堂の厨子として再利用され、現在に至っています。福本の燈籠は同じく賀茂神社に移設されたものと思われます。白兎大明神と記された燈籠が賀茂神社の木製鳥居の前に残っています。
 ところで少し話はそれますが、宮谷の賀茂神社の主祭神である瓊瓊杵命と、宮谷にある5つの堤には関連があるように思えます。
 賀茂神社は、平安時代に藤原氏によって選定された式内社には含まれていませんが、この賀茂神社が、かなりの崇敬を受けていた神社であることの証として、育英小学校跡地の前にある御旅所跡があります。かつては神輿の渡御が行われていたのです。
 飢饉や日照りが続いたときには、近郷の農民が賀茂神社にお参りに来ていたのだと思われます。また、井関や、堤などの具体的な水利の技術を学んだのかもしれません。私は、瓊瓊杵命と宮谷にある5つの堤とは大いに関連があり、おそらくこの堤のうちの一つは、瓊瓊杵命ご一行がここにおいでになり、おつくりになったものではないかと思っております。
 白兎神社の話に戻ります。
 門尾と、下門尾にもそれぞれ白兎神社の氏子の集落として、白兎神社と刻まれた燈籠が残っています。祭礼の日には白兎神社の幟が立てられます。
次に、霊石山山頂付近の伊勢が平です。ここまで天照大御神御一行を案内したシロウサギはここで、姿を隠してしまいます。ここには、大小二つの岩があり、皇居石、または皇后石と呼ばれています。この山頂の不思議な平原にしばらくの間、天照大御神は行宮されます。 御冠岩はこの伊勢が平の西の山腹にあり、そこからは、河原平野を望むことができます。天照大御神がこの岩の上に冠を置かれたのでその名がつけられたようです。ここは稲羽誌によれば、かつては因幡を代表する名所だったようです。今ではここを訪れる人はきわめて少数です。 
 天照大御神が実は男の神様であることをうかがわせる伝承となっていることにお気づきの方もいらっしゃると思います。実は天照大御神は、男の神様として描かれている場合もないわけではありません。
 祇園祭の鋒と山は何十もありますが、その中に岩戸山があります。この岩戸山は、天の岩戸開きをテーマとしているとしているものですが、祭神のお姿を象った像が祭りの時には一般公開されています。私もこの夏、祇園祭の期間中に、行って見て来ました。イザナギノミコト、タヂカラヲノミコトとならんで、天照大御神の像が鎮座しています。岩戸山保存会の方のお話によると、ずっと昔からここでは天照大御神は男の神様として伝わってきたそうで、伝統を重んじる京都ですから、女神を男の神様へ変更することはありえないことのようです。
 他にも、源氏物語に出てくる奈良の長谷寺にも天照大御神が雨宝童子という男の神として像が安置されています。江戸時代に活躍した円空という仏師も男性の天照大御神の像を制作しています。平安時代の大江匡房(おおえまさふさ)も伊勢神宮奉納の装束から天照大御神は男神と断定しています。

 このように、天照大御神が男の神であるということを示す例も少ないながらも残っていることは注目すべきことであろうと思われます。その点からも、ほとんど伝承の残っていない天照大御神の、しかも男の神様としての様子が伺える八上の伝承は非常に重要です。
 さて、続いて米岡神社です。元は伊勢ヶ平に祀られていたものを今から500年位前にこの地に下ろして祭っているということらしいのですが、白兎ラインのことを考慮すると、どうやら、この米岡にも古くからお社があったとしか思えません。全国的に見ても極めて珍しい天照大御神伝承に基づくお社です。八上はすごいところですね。

 次は若桜町、氷ノ山の天照大御神伝承に話は移ります。
若桜町舂米集落には天照大御神御一行の行幸伝承とともに、ここで天照大御神がお詠みになったとされる御製が伝承されています。その御製を紹介します。

 あしひきのやまへはゆかじ
        しらかしのすえもたははに
                ゆきもふれしば 
 実はこれと酷似する和歌が万葉集に載っています。柿本人麻呂編集による万葉集10巻 2315番の和歌です。因幡万葉歴史館の庭園にあるシラカシの植樹のところでも紹介されています。

 あしひきのやまじはしらず
        しらかしのえだもとををに
                ゆきもふれれば
 私は、大胆な推論を立てました。万葉集の中の詠み人知らずの和歌の中には、私たちの祖先神たちの詠まれた和歌が多く含まれているのではないかということです。和歌を詠むことは、すなわち政の一環として非常に重要視されていたことからもその可能性は高いと思います。
 天照大御神は、雪の降り積もる舂米の集落、あるいはスサノヲノミコトの宮殿でしばらく氷ノ越えの機会をうかがっていたのかもしれません。そして朝日に輝く樹氷のすばらしい景色をご覧になって、複数の何らかの意味を重ね合わせてこの和歌をお詠みになったのでしょう。
 天照大御神がお通りになったこの道は、後の伊勢道として伊勢参りが盛んになった江戸時代ごろには、由緒あるところとしてその名が知られていたようです。 各所に伊勢道の道しるべが残っています。八頭町の加藤要治氏が、鳥取県内のこのような古くからの石碑の詳細な研究をされて、1冊の厚い本を出版されています。
 ところで、氷ノ越えの峠には、かつて因幡堂というお堂があり、そこには大兎明神が祭られていたそうです。因幡の国境付近には八上姫を祀る神社やシロウサギの伝承が必ずといっていいほどあります。因幡堂は、現在は但馬にあるそうですがどうなっているのでしょうか。できればこの峠に再建されるといいですね。
    
 白兎神社のラインこのラインは地元福本の郷土史研究家、新誠さんと私が共同発見したラインです。このラインに基づく遺跡の位置関係は、古代において暦を知る手段として重視されていたのではないでしょうか。 日知り(ひしり)、聖神社という名の神社もありますが、これも関連するものだと思います。太陰暦に基づく暦は、農作や漁業においても大変重宝されているようで、暦を正確に知ることはとても重要なことだったと思います。
 もちろん暦を知るのみならず、このように、神々の拠点をその地に置いているということは呪術的な意味も含まれていると思います。東西のライン 富士山、恵那山、伊吹山、元伊勢内宮、八上、三徳山、大山、出雲大社がならぶことはとても不思議です。恵那山には天照大御神のご誕生の際の胞衣(えな)が埋設されたという伝承があります。元伊勢は天照大御神を祭る壮大な社で、80以上もの摂社があります。かつては因幡からも多くの参詣者が来ていたそうです。氷ノ越えの伊勢参りは実はこの元伊勢参りがメインでした。
 八上姫 
 莫男(まくなむ)駅というちょっと変わった名前の駅が八上にあったそうです。これは 奈良・平安時代の律令時代に作られた街道に設けられた駅ですが、旧八頭郡地域では他に智頭に道俣駅があったようです。なぜ八上の駅にはこのような名前がつけられたのか、ということに関して土師百井の郷土史家三木薫先生は、男つまり、夫、恋人と泣く泣く別れて相手を無くした八上姫のことを言い換えたものではないか、と解釈されています。すると、この名前が残る場所の付近が八上姫の本拠と考えられるのではないでしょうか。石田百井には井古田という字が残っていますが、これは忌子、つまり、祭祀を司る巫女を意味するものであったのではないかと考えます。
 いずれにせよ、白兎神社のある土師百井、池田、福本、全国最大レベルの規模を持つ郡役所、八上郡衙のあった万代寺に八上姫のご住居と、祭祀の施設があったのではないでしょうか。あるいは、野々宮神社のある船岡町上野(かみの)、下濃(しもの)も有力です。
 では八上姫を祀る神社を確認していきます。まず、鳥取市河原町曳田の賣沼神社です。ここは八上で、現在八上姫を主祭神として祀り、最も厚く信仰されている神社です。元の社地は隣の簗瀬山中腹:嶽古墳近くにあったそうです。
 旧船岡町才原の大江神社は大己貴命、天穂日命、美穂津姫命の神を主祭神としていますが、このお社には、なんとかつては30くらいの摂社があり、その中の一つに八上姫を祀るお社がありました。現在は本殿に合祀されています。いずれ、元のように摂社ができるといいですね。
 鳥取市河原町佐貫にある都波只知上(つばきちかみ)神社にも八上姫が合祀されていますが、元は同じ佐貫の、字石坪にあった神社に主祭神として祀られていたそうです。以上の3つの社が八上郡の中で祀られている神社です。
 では八上以外で八上姫を祀る神社を見ていきます。
まず鳥取市用瀬町にある犬山神社です。残念なことに、神社の由緒書きに八上姫の名は上げられていませんが、町誌などには八上姫の名が祭神として記されています。ここは珍しく、大己貴命がアシハラノシコヲノミコトという珍しい呼び名で祀られています。犬山神社の宮司様のお話によれば、ここに安蔵長者の娘であった八上姫と大己貴命がお住まいになっていたそうです。ここは八上から外れているところなのですが、八上姫という名前であることからやはり、かつての智頭郡も八上の一部であった可能性が高いといえるでしょう。
 最初に紹介した稲葉神社にも八上姫が祀られています。稲葉殿として大己貴命と八上姫を特別に祀っているようです。因幡を象徴する神社に祀られるようになった経緯には何か深いものがあるのではないでしょうか。  
 そして、因幡の北東、岩美町岩井にある御湯神社には大己貴命と八上姫、御井の神が祀られています。ここには波兎の彫刻が燈籠に施されており、八上姫ファミリーがすべてそろっている珍しい神社といえます。伊勢宮とも呼ばれる壮大なお社です。
 鳥取市青谷町の長尾鼻は石破教授が古事記のイナバノシロウサギと大己貴命が出会った気多の崎ではないかと推定されているところで、因幡と伯耆の国境近くです。ここにも八上姫を祀る塩津神社があります。ここにはあの青谷上寺地遺跡があり、そこから、フトマニに用いる卜骨(ぼっこつ)が大量に出てきた祭祀拠点でもあった所です。
 今回、講演依頼を受けて、その前にぜひとも確認しておくべきところとして国府町菅野の酒賀神社がありました。主祭神は八上姫と大己貴命、扇の山の神、オオヤマズミノミコトです。最も奥まった因幡の国境付近にしては壮大な境内地と参道、社殿があり、格の高さを感じました。驚くべきことは、ここの祭祀を司る長尾宮司は、当代で50代目に当たるそうです。一世代を30年と計算すれば約1500年前から、一世代を40年と計算すれば、約2000年の歴史を持つ、長尾家です。若桜の須賀ノ山がかつてはスサノヲノミコトとクシナダヒメの宮殿のあった場所だという言い伝えがあることを有力視すれば、ここは、八上姫と大己貴命の宮殿のあったところなのではないでしょうか。
 そのほかに祭神としてでは在りませんが、因幡一ノ宮、宇倍神社は八上姫のご誕生されたところという伝承も残っているようです。
 以上見てきたように八上姫が八上以外で祀られている理由は、実は因幡全体がかつては八上と呼ばれていた時代があったことによるものだとおもわれます。
 八上姫は因幡の国の神 
 八上姫の化身はイナバノシロウサギという石破教授の説から、八上姫=イナバノシロウサギは太古の因幡の国の神ととらえてよいと思います。因幡全体に残るさまざまな神々の伝承を、顕彰し、特に因幡の国の神である八上姫とシロウサギの神を称えると、因幡の未来は明るくなると思います。


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2008年11月17日

日本海新聞に記事が 

 本日の日本海新聞朝刊に私め、白兎の小使いへのインタビュー記事が筆者の見苦しい写真とともに、載りました。23日の講演会へ向けた内容です。
 
 23日午後1時半より八頭町郡家公民館(宮谷)、講演会とパネルディスカッション、お時間がございましたらおいでください。
 講演では、因幡の地名由来なども織り交ぜて、因幡・八上に伝わるさまざまな神話伝承や、神社祭神のお話をするつもりです。
 講演内容が風化しないように、詳しい要約も当日お配りします。好評の白兎・波兎マップも用意しております。(先着順です。)拙著も販売をいたします。
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2008年10月30日

箱根神社

 箱根神社 別荘地としても有名なこの地に古くからある箱根神社。その湖畔にある鳥居です。すばらしい景色です。できればここに永住したい気がします。
 箱根神社の祭神はニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト、ヒコホホデミノミコト、とどこかで、見たたことのあるような組み合わせです。
 そうです。八上の宮谷の賀茂神社です。もともとの主祭神はニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメ、そしてニニギノミコトの別名別雷命です。
 ホツマによればここは天忍穂耳命の御陵にあたるところです。実際、富士山ろくの近くにはそれと関連するようにオシという響きを持つ地名が残っています。芦ノ湖の鳥居です。

箱根神社




















箱根神社2
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2008年10月26日

浅間大社

 静岡県富士宮市の浅間大社です。主祭神はもちろん、コノハナサクヤヒメノ命です。
 ホツマによれば、この浅間大社、もしくは、富士山周辺にある同名の浅間神社、または、浅間大社奥宮のいずれかにおいて、天照大神は旧暦の正月一日にお生まれになりました。
 


浅間大社
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富士山

 八上の真東に位置する富士山です。八上の真西には、大山があります。
 このふもとのどこかで、天照大神はお生まれになり、富士山の真西の恵那山にその胞衣(えな)が埋められました。

JR三島駅ホームより眺めた富士山の雄姿です。

富士山


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2008年10月24日

イナバノシロウサギ神話 シンポジウムを開催!

 
八頭町にもあった!イナバノシロウサギ神話
 八神姫とイナバノシロウサギ
来る11月23日(日)午後1時30分より八頭町郡家公民館でイナバノシロウサギ神話シンポジウムが開催されます。主催は八頭町観光協会です。

 なんと驚くなかれ、この私め、白兎の小使いが講演をさせていただくことになりました。
 二部構成で、前半が、私の基調講演、「八上の白兎と神々の伝承の謎」と題して、旧八頭郡全体に残された伝承や遺跡の再認識をし、今までばらばらにされていたそれらのつながりを浮かび上がらせていきます。
 後半はコーディネーターとして、日本海新聞より石井記者をお招きしてのパネルディスカッションで、どんな話になるかは皆目見当がつきません。パネラーの一人はご存知、郷土史研究家の新誠さんです。こちらのほうが面白そうです。
 これで、3年連続で地元八頭町で、イナバノシロウサギの催しが開催されることになります。しかも今年は因幡でスローライフ学会や石破洋教授のいくつかの講演会も催されるなど、大賑わいです。いよいよです。
 次の兎年に向けて旧八頭郡全体、八頭町で大きなうねりができることを期待しております。
 


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