2007年05月17日

能登の白うさぎ

 能登と因幡の関連については以前に記しましたが、羽咋市にもシロウサギ伝承があります。ストーリーは因幡の白兎と同じで、舞台が柴垣海岸と長手島の妙成岩となっているだけです。登場するのは大国主命と白兎、サメです。地元の案内看板には、興味深いことが書かれています。古くは出雲から能登のあたりまでの日本海を気多の海と呼んでいたそうです。因幡がその名称由来とみなされている気多が広範囲に使われていたのは驚きです。
 同じく能登にはヤマタノオロチ伝承もあります。邑知潟(おうちがた)という地名がオロチからつけられた名前のようです。九頭竜という地名や河川名もあるのであながち縁がないとはいえません。
 オロチは複数いたのでしょうか。『須賀の山雑記』には須賀の山はスサノオノミコトとクシナダヒメが、須賀の山頂に宮を建てられてお住まいになったところで、舂米川がヒノ川にあたるとされています。偶然にも、後世に八頭郡が誕生し、その存在証明をしている、といえるのかもしれません。
 また、岡山にもスサノオノミコトの遺跡といわれる熊山遺跡や、オロチ伝承もあるようで、これも複数の舞台があって、なかなかどこが本当の場所なのか特定は難しいようです。
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2007年04月25日

芦屋神社

 兵庫県芦屋市 芦屋神社境内 鳥居横の石碑です。主祭神は天穂日命です。芦屋は英語のAsiaとほぼ同じ発音ですが、Asiaとは 日出ずる処 という意味を持つそうです。確かに極東に位置する日本は、西欧から見れば日の昇る方角であり、そこに理想郷があるとも思われていました。中国の徐福も孔子も日本にあこがれていたそうです。
 以前にも述べましたが、芦屋周辺は、山陰方面から移住した人々が住んでいたところで、その祖神である天穂日命を祀るようになったことが芦屋神社の縁起とも言われ、また芦屋神社のある山に天穂日命が天降ったともいわれています。六甲山山頂付近の六甲カンツリーハウス敷地内に天穂日命を祀るイワクラがあります。 
 六甲山とその周辺には古代祭祀のあとが数多くあります。
 ともあれ、芦屋は現在、およそそのようなこととは関係なく、関西の高級住宅地として有名な場所です。

芦屋神社
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2007年03月31日

記事の編集

 ブログを始めて約1年近く、調べてわかった内容を、つれづれなるままに書いてきました。この内容を、ちゃんと並べ替えて、文章も整えてまとめるための作業をしているところです。
 約一年間、いろいろと調べてまいりました。ほぼ調べるべきことがひととおり出揃ってきました。今後は記事の更新の頻度は1月に1回程度になると思います。
 文章を編集してみると、このブログ記事のあらが見えて恥ずかしい思いになります。誤字・脱字・主語述語関係の乱れを始め、話題の突然の飛躍などもあり、たいへん見苦しい内容であることに改めて気がつきました。(編集には少し期間がかかりそうです。)その意味でも、しっかり編集して、何らかの形で紙の記録としておいたほうが良いと思われます。どのような形でいつ発行するかは未定ですが、出来上がりましたら、お知らせいたします。皆様のご投稿記事の到着は毎日確認しております。ご意見やご感想・ご質問等、どしどしお寄せください。コメント非公開ご希望の場合はその旨をお書き添えください。
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2007年03月12日

太古の黒うさぎ  

 ちゃぶちさんから頂戴した奄美 黒糖焼酎「太古の黒うさぎ」です。ちゃぶちさん、ありがとうございます。頂戴してずいぶん経っているのですが、もったいなくてまだ開けておりません。でもそろそろいただきます。
 容器のラベルにはこのお酒の命名の背景が書かれています。「鹿児島と台湾との間にまたがる南西諸島のほぼ中央に位置する奄美大島は世界でも珍しい動植物の宝庫です。サンゴ礁や色鮮やかな熱帯魚、マングローブの森やルリカケスに代表される野鳥類、ヒカゲヘゴが幻想的なムードを漂わせる金作原(きんさくはる)の原生林など。
 中でも天然記念物のアマミクロウサギは一千万年の昔から生き続ける珍しい品種。マングースの繁殖で絶滅が心配されています。
 古の技と味を未来に伝える気持ちで、二十数年前より作り続ける長期貯蔵酒に黒うさぎと命名しました。黒糖の甘い香りと樫樽のスモーキーなフレーバー、古酒ならでは喉ごしの良さは格別です。アマミクロウサギともども時を越え永久に愛され続けることを願っております。
※黒糖焼酎は奄美大島だけに許された製法です。…」


太古の黒うさぎ
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2007年03月06日

「伊勢道」 談話会のお知らせ

 3月18日(日)午後1時半〜4時八頭町郡家図書館 2F研修室で談話会が実施されるそうです。
 郡家図書館は八頭町宮谷256−4 郡家保健センター隣です。

 「この地方に残されている道しるべについて 若桜往来と伊勢道の道標を中心に 」と題して、講演会が催されます。同時開催として、3月13日〜3月20日展示会「若桜往来の道標の拓本・写真展」が同じく郡家図書館2Fで催されます。
案内文をご紹介します。
 「藩政時代、人馬の往来や物資の流通のために、鳥取城下を中心に、鹿野・智頭・若桜の街道(往来)が整備された。街道の峠道や川渡し、宿駅、分かれ道(分岐点)には、旅人の安全を願うお地蔵さんや道標が立てられ、現在も路傍の草むらの中にひっそりと残されています。 
 今回は鳥取から郡境の三本松峠を経て、若桜の県境に至る若桜往来と播磨道(戸倉越え)、但馬道、「伊勢道」(氷の越え)に残る道標について…お話を聞くことになりました。若桜往来は、近世以降盛んになった「伊勢参り」のみちでもあり、現在も「伊勢道」を示す道標が何箇所も残されています。
 興味・関心をお持ちの方々、ふるってご参加ください。(事前の申込・参加費は不要です。)」
 
 伊勢道がどのようなルートであったかは、興味深いものです。しかも、八上の伊勢道は、ほかの全国各地の伊勢道とは一線を画す価値のあるものです。その理由は城光寺縁起等にあるとおり、天照大神がお通りになったという伝承の道がその中に含まれているからです。氷ノ山越えがまさしくその道です。
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2007年03月03日

兎と烏

3月22日加筆 
ちゃぶちさんからの情報(3月2日記事:都波只知上神社のコメント)によりますと、関東のほうでは「オビシャ」と呼ばれる行事があるそうです。これは新年の1月か2月ごろにその年の豊作や吉凶を占う、という意味がこめられている祭りだそうです。特に茨城県南部の利根川流域と千葉県に多く行事が残っているようで、烏と兎が登場し、日月祭とも呼ばれます。千葉県には麻賀田神社があり、日月の神を祀っています。
 もちろん三本足の烏ですから、この行事は紀州熊野にもあるようです。三つ目の兎と三本足の烏を描いた的を射るというものですが地方によっては的のデザインや祭りの内容は異なっているようです。
 兎と烏の組み合わせは新誠(あたらしまこと)さんの調査資料によれば、島根県の隠岐、美保神社でも見られます。ここでも兎が月の神を表し、烏が日の神を象徴しているようです。
 「隠岐の御客祭
 穏地郡武良郷、中村の御客祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭である。ここに古式の的射神事が残されている。その的となるのは遠来の神、日神たる「烏」の図像である。武良郷全体の大祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)も、また日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を、祭りの旗印(御神体)とする。」

 美保神社
 美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏、兎もそれぞれ日神と月神を象徴しているそうです。
 陰陽道の書である『金烏玉兎集』も日月の運行を読み取って占うものだそうです。

 鳥取市河原町北村にも日月宮があり、往古は日月の神を祭っていたようですし、八頭町大江の赤倉神社のかつての祭神も日月の神ではなかったかと、筆者は推測しています。霊石山の天照大神と白兎の伝承、日月の神、いずれも兎と関連があります。
偶然にも、福本の白兎神社は兎、東の賀茂神社は烏と非常に縁の深い京都の上賀茂神社から勧請した神を祀っており、霊石山山頂の真東に位置する二つの社で日月を示している、とはいえないでしょうか。
  
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2007年02月28日

八頭町議会だより

 八頭町役場公式サイトに、年末の八頭町議会の議事録の要約が掲載されました。簡潔な文言の記録の中に重要な方向性が指し示されています。
 一日26本もの特急列車「スーパーはくと」の停車駅であるにもかかわらず、郡家駅前が寂れてきている。その再開発に、八頭町の重要な遺産を活かしていくことを、議員の方が町長に質問されたことに端を発しています。議事録の最後のほうの箇所です。ご覧ください。
 先日、帰省した折にも地元の方々からお聞きしていますが、皆さん、歴史遺産の顕彰に対して実はかなり高い期待を持っておられます。その期待が、単に経済効果という点だけでないことも十分に伝わってきました。まさに日本唯一あるいは屈指で、しかも相当レベルの高いものが複数あるわけですから。
 まずは駅や公共施設、学校、店頭など人が多く目にするところに、さまざまな遺跡などのパネル写真等を掲示するだけでも、ずいぶん効果があると思います。温泉マップはよくありますが、白兎マップは珍しく、周囲の耳目を集めることになるかもしれません。物産の販売に偏っている「道の駅」では入手できないものを、同じく観光客が立ち寄るガソリンスタンドなどに置くのもひとつの妙案かもしれません。地方史に関心を持つ歴史愛好家はかなりいます。筆者も旅先で立ち寄る道の駅で、何か、その地方の秘められた歴史を紹介したものはないかと期待してみていますが、案外と置いていないのです。その人たちの満足を得られるような情報は大切です。実は外からの観光客だけでなく、郷土の歴史に強い関心を元々持っている地元の方は少なくありません。一冊の本にはならなくともリーフレットぐらいならできる、という郷土史愛好家は多いので、それらの研究成果を一堂に集めて、どこかで頒布、または安価で販売していくのも悪くないでしょう。こういうニーズが潜在的にあることを筆者は探索の過程で強く感じています。
 また、例えば現在の地元の銘菓「れいせき」だけでなく、銘菓「八上の白兎」「いせ道」「伊勢ヶ平」、「日枝の山」(若桜)、「御冠石」(河原)なども登場するとますます盛り上がっていくかも知れません。
八上姫ならぬ八上米や白兎米も受けるかもしれません。河原町では「兎さ米(うさまい)」を販売しているくらいですから。
 「スーパーはくと」の乗客へ向けてこのような情報が、地図やリーフレットのような形で発信されれば、八上のあちこちは、たちどころに有名な観光名所になっていくのではないでしょうか。同時に最低限、案内看板などの整備も急がれます。
 白兎神社に大きな看板を掲げれば、「スーパーはくと」の乗客にもアピールできます。
 若桜鉄道の郡家駅から八頭高前までの「全国一安い区間」では魅力に欠けますが、船岡、八東、若桜の沿線にもレベルの高い貴重な遺産はたくさんあります。そうすれば若桜鉄道の利用客も増えるのではないでしょうか。
 ちなみに白兎マップは、山崎郡家図書館長のご厚意により、郡家図書館の2階で配布されています。ご自由にお取りください。
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2007年01月30日

社説「埋もれた文化遺産の再発見」

 なんと本年1月22日、日本海新聞に「埋もれた文化遺産の再発見」と題して八上をはじめとする諸地域の優れた遺産を今後生かして行こう、という趣旨の記事が社説として掲載されました。
 こうなると、筆者の役目も果たせたかな、という感じになってきました。
 八上が古代の聖地だったとする石破教授の説があること、八上に3つの白兎神社があること(ウサギを祀る神社は賀茂神社も含めて4社です)や波ウサギの彫刻があること、天照大神と白兎伝承や八上姫の神社のことも触れられています。
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2007年01月24日

全国の八上

 2月19日改定
 「八上」をグーグル検索すると、因幡の八上以外に出てくる所として、兵庫県の丹波篠山の「八上」、大阪府堺市の「八上」、和歌山県田辺市の「八上王子」が出てきます。
 丹波の八上は、実は因幡の八上の武士、波多野氏の関連に基づいて命名されたものであることははっきりしています。因幡を離れて、新たな勢力圏を作った波多野氏が、故郷にちなんで八上の地名を付けたのでしょう。
 堺市の八上もおそらく因幡出身の人たちが故郷を懐かしんで命名したものではないかと思われますが、今のところ確証はありません。ところで八頭町の郷土史家、新 誠さんの研究によれば、因幡を拠点として活躍した赤染氏は、やはりこの河内に拠点を構えていたようで、これが地名由来と大いに関連するものかもしれません。
 和歌山の八上王子は地名ではなく、神社名です。このブログをはじめたときにも記していますが、八上王子は天照大神を主祭神としており、すぐ近くに稲葉根王子があることを考慮すると、稲葉由来の人たちがここに移住して、天照大神を祀ったと考えられるのではないでしょうか。
 筆者の勝手な想像はますます広がります。
 千葉県の印旛も、ご当地の方も「印旛は稲葉となんらかの関係があるのではないか」と指摘されていました。確かに因幡と縁の深い大伴家持が、印旛の麻賀田神社に参詣し、大鳥居を寄進したり、神社の本殿に波ウサギの彫刻が施されていたり、境内に瀬織津姫と日月の神を祀る摂社があったりなど、因幡、八上とも共通するものがあまりに多くあります。
 
 
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2007年01月14日

ガンジーの言葉

 「国家の偉大さとモラルの高さはその国の動物に対する扱い方で判断できる」      ガンジー
 ビートルズもメンバー4人がベジタリアンになりました。特にポールマッカートニーは、動物虐待を全世界からなくそうという意味も込めて、現在も世界中を回っています。2002年の大阪公演では「モーカリマッカ?」という挨拶とあわせて動物虐待の実態を浮き彫りにした短編フィルムが流れました。実はこの20年近く世界中を公演するたびごとにこのようなフィルムを上映しています。ポールが最近世界8カ国で出版した初の絵本「あの雲のむこうに」でも地球環境保護や、動物保護を訴えています。
 現在はペットブームですが一方で、飼えなくなった動物を身勝手にも捨てたり保健所に送ったりしており、その処理(殺される)数は少なく見ても年間40万頭にも及ぶそうです。凶暴な外来種も無責任にもあちこちで捨てられて、生態系を大きく狂わせています。筆者の勝手な想像ですが、日本の動物は海外の動物に比べて比較的凶暴なものや毒性の強いものが少ないのは気候風土はもちろん、古代の人々のなんらかの功績があったのかもしれません。
 日本では古来より牧畜という制度はあまり行われておらず、獣肉を専ら食する習慣はなかったようです。 一方、稲作は面積辺りの収穫量が多く、土地も休耕させなくても毎年使うことができるという優れた食糧生産です。しかも米は籾殻をつけたままであれば100年近く保存できるといわれますから、実は飢餓や食糧危機の問題を解決できるはずのものなのです。また、地球温暖化を防ぐためにも、化石燃料の消費削減などと並んで、多くのメタンガスを発生させ、森林破壊を促している畜産を減らすことは急務といえるでしょう。本来、人の栄養補給に獣肉食など不要なのです。
 気候上の要因も絡み、農作物の育ちにくい諸外国の一部地域ではやむをえない事情もあるのかもしれませんが、日本ではずっと穀物・野菜と海産物、魚類を食生活の中心としてきました。特に伊勢神宮を現在のような形に整備した天武天皇の詔以降、明治になるまで日本では獣肉食は原則禁止されていたのです。
 神前のお供え物もお神酒・米・塩・水と季節の作物やせいぜい魚介類までです。
 先日のニュースによると何とドイツで巨大ウサギが食用ウサギとして人工繁殖されているそうです。ウサギは繁殖力が強く大きくなるまでの期間も短くえさ代も安く済む、ということで北朝鮮がその食糧難をこの食用ウサギでしのぐ計画にある、というものでした。
 筆者にとっては、目も当てられない報道でした。ウサギに限りませんが、屠殺してまで食するという事は実はたいへんな作業です。筆者は二十世紀梨や花御所柿(八頭町大御門名産)、大根やにんじん、トマトなどはなんのためらいもなくナイフで切れます。しかし筆者が動物を自らの手で屠殺できないのは明らかで、やはり突き詰めて考えると、あまり積極的に食すべきものではないという結論に到達しそうです。
 筆者は、全くのベジタリアンというわけではありませんが、動物性たんぱく質をあまり摂取しなくなってから体が元気になったことを身をもって経験しています。世間でいわれている栄養の偏りで病気になる、という説と全く逆の現象でした。
 近代科学=栄養学の名の下に間違った食のあり方が是認されてきているのではないでしょうか。筆者はその観点から、新谷弘実氏のHP「病気にならない生き方」にリンクをつなげています。

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2007年01月07日

地域文化調査発表会

 1月13日土曜日午後12時半より鳥取県立県民文化会館で鳥取大学地域学部主催の発表会があるそうです。入場無料です。「イナバノシロウサギ神話の不思議を探る調査2」、「地域と文化資産」と題する発表の中で八上の事が触れられそうです。筆者は仕事のため出席できませんが、地元の皆さん、ぜひ参加してください。
 大学が地域と連携して研究活動や問題提起をするのは非常に好ましいことです。しかも、鳥取大学に地元の出身者が少ないという事は各地域を客観的な視点で見ることができるということです。県庁の出張機関である八頭県民局とも連携しているようで、今後の活躍が期待できるのではないでしょうか。

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2006年12月24日

仕事納め

 本年のブログ記事はこれで終わりです。来年は6日以降に更新いたします。ご声援ありがとうございました。
 来年の動きが楽しみです。
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2006年12月20日

後醍醐天皇と八上 

 八上の大御門・八東地区には後醍醐天皇のいらっしゃった遺跡や伝承がたくさん残っているようですが、それらすべてがいまだにまとめられてはいないようです。
 内親王のお墓があるらしいこともほとんど知られていません。事実なら、もっと丁重に扱われるべきでしょう。
以下に関連の地を挙げてみます。
霊石山(八頭町)
山路の旧街道(八頭町)
野々宮神社(八頭町上野) 筆者推定 内親王=斎王の関連をうかがわせる社名より
西御門の地名、社寺(八頭町)
西御門の大銀杏 伝 内親王の墓所
和多理神社(八頭町殿) 
新興寺(八頭町新興寺)
清徳寺(八頭町清徳)伝後醍醐天皇お手植えの銀杏
若桜神社(若桜町)名和長年参詣
綾木峠(八東から智頭へぬける峠)

智頭
西光寺
などなど、思いついたものだけでもこれだけあります。町誌などで調べるといろいろな伝承が伝わっており、もっと多くのことが出てきます。これらを顕彰することも八上にとって大切なことであると思います。
同じ県内の名和町は、しっかり、遺跡を整備しています。吉野でも大切に史跡が守られています。

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2006年12月19日

八頭町議会

さる12月17日八頭町議会で、石破教授の新聞インタビューが紹介され、八上の貴重な遺産を大切にしていこうという内容で話された模様です。日本海新聞コラム東風西風に紹介されました。 記事の詳細は直接日本海新聞へお問い合わせください。
 今年は大きな胎動を見せました。来年が楽しみです!
ブログを作った甲斐があったというものです。

 八上、八頭、因幡・伯耆全体で記紀で影が薄くなった地元に伝わる本当の神話や伝承の原型に基づいて、郷土に誇りを持てる町づくりが進められるとよいと思います。
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2006年12月15日

出雲と兎2

 三枚の写真ともちゃぶちさん提供です。今年は、お互いめでたい年でした。ちゃぶちさんの来鳥のおかげもあって地元の皆さんの素兎神への思いが深まったようです。またのお越しをお待ちしております。それまでに関係の地が整備されると良いのですが。実はその動きも出始めているようです。詳しくは近日中に。

伊奈西波岐(いなせはぎ)神社灯篭の見返り美兎

いなせ2

















出雲大社門の見返り美兎

出雲大社波兎 2

















出雲大社 大国主命と兎神

出雲大社 銅像
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2006年12月13日

石破教授の著作 賞受賞

 今朝の日本海新聞には石破洋教授が影井賞という賞を受賞されたことが掲載されています。「鳥取藩国学者 衣川長秋『田蓑日記』影印翻刻と研究」と題する著作が受賞作です。この『田蓑日記』や衣川長秋については、『イナバノシロウサギの総合研究』にも紹介されていました。
 受賞おめでとうございます。石破教授は八頭町の名誉町民です。
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2006年12月07日

八頭郡誌

 八頭郡誌の基調は、筆者の問題意識に近いものであることは以前述べました。
 因幡が神代の時代から、皇室と縁が深い土地柄であることは、このブログをスタートしたときに書きました。霊石山伝承の天照大神をはじめ、皇室と縁の深い白兎、須佐之男命、大己貴命、土師氏・大江氏・菅原氏ルーツの天穂日命・野見宿禰、そして霊石山行宮の孝霊天皇、応神天皇、後醍醐天皇、景行天皇と日本武尊、武内宿禰の賊征討伝承等、一地方にしてはあまりに多いのではないかと思えるほどのものがあります。やはりこれも聖なる地であることの所以でしょうか。
 八頭郡誌には興味深い記述があります。たとえば、「土師百井と国英の○○家は、人皇第7代孝霊天皇の胤を受けている。…国英の○○家は人皇第31代敏達天皇から出て数十代を経て楠正成・正行あり。…稲常の○○家は郭実親王より出る。…都波只知上神
社神主○○氏は武内大臣(宿禰)の裔孫也とある。」 そのほかにも後醍醐天皇の関連の地は八頭町大御門地区、八東地区、若桜町にも多く残っているようで、特に「隠岐国で(大御門の)和多理神社の託宣により伯州船上山まで御遷幸…」という記述は、何故、後醍醐天皇が八上の里に比較的長期にわたって滞在されたのか、その理由を明らかにするものといえるでしょう。
 源範頼の霊石山伝承や墓所の存在も、何故ここに、という疑問が解消できそうです。鎌倉幕府の実質的リーダーとも言われる大江広元が、橘行平が、そして在原行平が自らのルーツを求めて因幡・八上の里を訪れたのもうなづけます。
 そして、土師百井の「もと白兎神社」が神明鳥居を採用しているのもこのあたりに淵源があるように思えます。皇室を遠祖に持つ土師百井の氏族が白兎神社の祭祀を担っていたのでしょう。一方福本の遠祖も伊勢神宮=皇室との関連があるように思えます。伊勢神宮では花菱を神宮の紋としていますが、福本でもこの菱紋が多く家紋として使われているようです。

 「もと」といえば、伊勢神宮にも元伊勢があり、とりわけ丹後の元伊勢は特別な意味合いを持っています。同様にもと白兎神社も、もともとの社、最初に祀られた社を意味するのではないでしょうか。
いずれにせよ、国中(くんなか)平野、私都川沿い、霊石山東麓が素兎神を祀る元の地であるのは、動かしがたいでしょう。

 話戻って。八頭郡誌にはこのほかにも、孝行を尽くした人が褒美を頂戴した話などもたくさんあり、現代の社会環境において忘れ去られてしまった価値観に基づいて編纂されており、反省を促されます。
 
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2006年12月04日

「古代因幡の聖域だった」

 本日12月4日の日本海新聞に石破洋教授のインタビュー記事が掲載されました。石破氏の近影写真2枚と5段、A4サイズにもなる大きな記事です。
 インタビューのおおよその内容は、11月の講演会でお話されたことと重なります。
 このような特集が今後も頻繁に掲載されるようになると、地域の活性化につながります。
 実際の記事内容は、直接日本海新聞へお問い合わせください。
 コラム東風西風12月5日に関連のエッセーが掲載されました。これも日本海新聞社にお問い合わせください。
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2006年12月02日

八上姫の本拠は?

 2月17日加筆
 八上の里で八上姫を祀っているとされる有名な神社は、鳥取市河原町曳田(ひけた)の賣沼(めぬま)神社です。この神社は以前「西の日天王」と呼ばれていました。白兎ラインの西端にあることから付けられたであろう名称のようです。
 鳥取市河原町は、八上姫を町のシンボルとして、実に見事に町おこしに生かしています。河原町内で収穫されたお米に「兎さ米」と名づけて売られてもいます。筆者も河原城で見つけて思わず買いました。八頭町とは対極的なくらい十分に町の活性化に活かしています。
 しかし、総合的に綿密にこの地域一帯を考察する必要があると思います。それぞれの伝承や遺跡などが無関係なものとされてしまっているのが現状です。
 石破教授の研究によれば、賣沼神社の祭神が昔からずっと八上姫だったかどうかがはっきりしないそうです。もっとも既に紹介しているように賣沼神社は福本白兎神社を中心として、土師神社を白兎ラインの起点とすれば、終点となる位置にあるので関連の社であろうと思われます。元は東南の簗瀬山の嶽古墳の手前にあった神社を現在地に移したようです。筆者も嶽古墳のある簗瀬山に登った際、小さな祠があったのを覚えていますが、これが元の社だったのかもしれません。ここに埋葬された人物は、おそらく地理的条件から、この地の豪族で、亡くなった後もここを守ろうという意志を示しているような気がします。
 河原町の都波只知上神社への合祀神の一柱として八上姫が祀られています。同じく旧船岡町橋本の大江神社にも八上姫が祀られていることが判明しました。橋本には大己貴命の伝承がちゃんと残っています。主祭神ではないので明治期の神社合祀の際に付近の神社から合祀されたのでしょう。いずれも元はどこに祭られていたのでしょうか。
 岩美郡にも気多郡にも八上姫を祀る神社があります。それぞれの社でいつごろから祭神として祀られているのかは不明です。
 悲しい性(さが)を背負って帰郷した神話時代の八上姫にせよ、歴史時代の安貴王との悲しい別れを余儀なくされた八上姫にせよ、稲葉の山里に隠棲されたのかもしれません。
 ひょっとして、因幡の地がイナバ、と呼ばれる以前は、因幡全域を八上と呼んでいたのかもしれません...。因幡には八上郡の他に高草郡、気多郡、巨濃(この)郡、法美(ほうみ)郡、邑美(おうみ)郡、知頭郡がありました。高草・気多を除くと(巨濃は微妙ですが)、他の郡名は音読みのようであり、比較的新しい時代に作られた郡ではなかろうかと思われます。石破教授も指摘されていますが、ほんの2〜3年前の旧八頭郡が八上郡であっただろうと思われる節もあります。それにしても八上郡は面積においても因幡で最大の郡だったようです。
 八頭町図書館の開架図書「郡家町の地名」によれば奈良時代は因幡は八上郡と智頭郡であった、と記されているのを発見しました。これは単なる誤記でしょうか。
 
 
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2006年11月19日

墓碑銘の存在?

 パソコンのグーグル検索で偶然見つけた池田仁三氏のホームページには古墳や神社のイワクラに肉眼では確認できない文字の跡をコンピュータ画像解析によって浮かび上がらせた写真が紹介されています。真偽のほどは不明で、後世の偽作などもある可能性はあるのでしょうが、中には未盗掘のものもあり、ありえないことではないように思えます。
 池田氏以外の誰かがコンピュータ画像解析を行って同じ結果が出ればそれはさらに信頼できるでしょう。 江戸時代に蒲生君平をはじめとして、陵墓の調査が真剣に実施されましたが、そのときの記述、という可能性も考えられなくもありません。しかしそれすら、使用された墨から年代がほぼ断定できるでしょう。また、日本書紀をはじめとする歴史書の記述と照合して、被葬者の生存年や年齢の一致等について検討するとかなりのことがわかってくるはずです。
 とにかくこれは複数の研究者によるデータ解析で真実をより深く知ることができると思います。このようなコンピュータ画像解析の技術は、考古学の分野では正式に取り入れられていないのでしょうか。稲荷山古墳の鉄剣についてはレントゲン検査が実施されたようですが、古墳や他の出土品についてもどうしてこのようなレベルの調査を実施しようとしないのか首を傾げてしまいます。しかしもっと現代の科学技術の最高の粋を活かして、調査すべきではないでしょうか。もちろん破壊にならぬ程度で。
 池田氏の解析結果によれば、高松塚古墳の被葬者、壁画に描かれた人物も、刻まれているとされる文字によって、誰なのかが一人残らず特定されています。しかも壁画の作成者の名前まで刻まれているそうで、もし本当なら、学界を大きく揺るがす一大発見といえるでしょう。
 このような発見の一方で高松塚古墳のここ3年くらいのずさんな管理が問題となっています。今回の壁画の解体による保存は重大な問題があるのではないでしょうか。解体保存に至った経緯を見ると、実にいい加減で不自然なようにも思えます。どうしてカビの発生、などという初歩的なミスが起きたのか不思議です。ならば、発掘などしないほうがましです。明らかに自然劣化を防止しなくてはならないときに限り、手を加えるべきで、今回のように逆に遺跡の寿命を縮めるのはもってのほかです。
漢字が使用されだした時代以降の福本70号墳に使われていた石室の石をコンピュータ画像処理することで、もしかすると何か浮かび上がってくるかもしれません。全国の所々の神社に伝わる特殊文字などの原形もひょっとして見つかるかもしれません。
 鳥取市国府町の今木山には解読不能の文字が刻まれた石がありますが、この他にももはや肉眼では確認できないものの、特殊処理によって確認できる文字がもっと出てくるかもしれません。先日の講演会で石破教授も指摘されていましたが、古墳の発掘は破壊であり、現在の技術ではわからなくとも、後の世になってわかってくることがあり、現状ではできるだけそのまま保存するべきでしょう。
posted by yakamihakuto at 10:09| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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