2009年04月02日

若桜神社

 このたびの参拝で初めて参拝した神社の中で、その格式の高さに驚いたのが若桜神社です。

 境内地の大きさはもちろん、境内の雰囲気があの有名な玉置神社に似ていました。奈良の玉置神社は国常立命を祭る神社で、非常に格式の高い神社です。
縄文時代の杉が立ち並ぶ、歴史的には相当古いお社なのです。
 若桜神社境内にも樹齢1000年近い杉の巨木がそびえていました。長い長い石段を息を切らせながら登り詰めると、広い境内があります。その境内にさらに石垣があり、その上に拝殿そして本殿が鎮座しています。
 その光景があの玉置神社を彷彿とさせました。
 おそらくこの社も主祭神国常立命を祭る玉置神社を意識して同じような構造にしたのではないでしょうか。
 とにかくその荘厳さに圧倒されました。
 若桜神社のことは以前、県民局の方からもすばらしい神社であるとは聞いていました。しかし、実際に行ってみなければそれは実感できません。
 若桜の人たちの信仰心の強さを実感しました。

 以下は鳥取県神社誌から編集しました。

「祭神 国常立命 
合祀 天照大御神 ホンダワケ尊 素佐乃男尊、天御降産尊 保食神 倉稲魂神 菅原道真命 大己貴命 豊受神 ミズハノメの神 オオヤマズミの神 カグツチノ神 イザナミノミコト
 創立年代明らかならず。往古より松上大明神と称し、郡中の大社なり。当社始め若桜郷鶴尾山字八平谷に鎮座せられ、古来武将の崇敬篤し。…元弘三年五月後醍醐天皇隠岐より御還幸の途、名和長年鋒を奉り…

 これほどの規模の神社が式内社になっていないことも注目すべきことです。
 八頭郡の観光地の目玉となるべき神社であることには間違いありません。因幡でもっとも荘厳なお社の一つです。ぜひ行ってみてください。行かなきゃわからないことはあまりに多いのです。

posted by yakamihakuto at 00:13| 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

天照大神八上行宮の期間は?

 天照大神が八上の伊勢ヶ平を拠点にしてしばらくの間行宮されたのはほぼ間違いないようです。それは、今まで検証してきた地域に残る遺跡や、伝承などによって立証できます。これに加えて、筆者が以前より注目しているホツマにも、天照大神の山陰地方行幸のことが記されています。
 天照大神は、丹後にいらっしゃった豊受大神の崩御直前より、丹後にお越しになり、天照大神は豊受大神崩御後も、丹後の人たちに引き止められて、しばらくとどまられました。この「しばらく」という期間はどれくらいかというと、関西ホツマの集いの清藤代表にお聞きすると、ホツマに記された暦から、十年間とわかるそうです。(6紋に記されています。)
 以下は筆者の想像も交えます。
 その十年間の間に隠岐、八上にもお越しになったと思われます。八上の伊勢ヶ平にどれくらいいらっしゃったのかは不明ですが、おそらく1〜2年間くらいはいらっしゃったものと思われます。
 瀬織津姫は豊受大神が崩御されたとき、しばらくは伊勢伊雑宮におられ、その後、和歌山にワカ姫とともに稲虫の駆除に出かけられます。その報恩の印として、和歌山の人々は日前国懸宮を瀬織津姫に提供されます。ワカ姫には玉津島神社を提供されます。これらはホツマの記述によってわかることです。
 瀬織津姫は、そこから伊雑宮へお帰りになったか、または、そのまま、天照大神のいらっしゃる丹後へお越しになったかもしれません。それが綾部市に残る私市なのかもしれません。
 そして、天照大神とともに山陰地方の行幸に向かわれます。
 八上にしばらく行宮されるときに、瀬織津姫は伊勢ヶ平にいらっしゃった事でしょう。あるいは私都にいらっしゃった可能性もあります。
 その候補地は現在瀬織津姫を祭る私都の4〜5つの神社の地のいずれかである可能性が極めて高いといえるでしょう。
 そして、記紀やホツマにも記されていませんが、この地でもう一人御子神をお産みになります。
 それが八上姫と思われます。
 この姫は何かの事情、慮りで、この八上の地で地元の人に養育されることになりました。

 八上姫の特徴と瀬織津姫の特徴が、どちらも性格も良く容姿端麗であったこと、広範に流れたうわさを聞きつけて、出雲から八十神、大己貴命が求婚に来られたこと、時代的に一致することなどを考慮して、八上姫が天照大神と瀬織津姫との間に誕生したという可能性は十分にあるのです。
 そして、このたびの参拝で、ほぼ、八上姫と非常に縁の深い賣沼神社境内に熊野神社、タカオカミ、クラオカミが祭られていることが判明したことから、このお社も瀬織津姫とかなり濃厚な関係を有しているといえます。
 すると、筆者の想像もまんざらあてずっぽうではないのではないかという気がしてくるのです。
posted by yakamihakuto at 00:53| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

無事参拝成就!

 28,29、30と、私め白兎の小使いは、因幡全土の瀬織津姫を祭る神社ほとんどすべてと、兵庫県西宮市の地名由来(世間では西宮神社と思われていますが、西宮神社は広田神社の摂社でした。)の瀬織津姫を祭る神社、広田神社の参拝をしてきました。
以下は参拝先 そして立ち寄った名所です。
◎印は瀬織津姫を祭る神社、□印は瀬織津姫と思われる神を祭る神社です。
 
初日
◎白坪神社 八頭郡智頭町
◎虫井神社 八頭郡智頭町
◎上市場神社 八頭郡智頭町
◎諏訪神社  八頭郡智頭町
◎東井神社  旧八頭郡用瀬町
◎日月宮   旧八頭郡河原町
◎湯谷神社  旧八頭郡河原町

清流茶屋かわはら 旧八頭郡河原町

□賣沼神社  旧八頭郡河原町
 米岡神社  八頭郡旧郡家町
 御冠石   旧八頭郡河原町
 白兎神社 福本 八頭郡旧郡家町
□赤倉神社   八頭郡旧船岡町
◎大江神社   八頭郡旧船岡町
□賀茂神社   八頭郡旧郡家町

ラダック 鳥取市 懇親会場

二日目

◎水戸神社 賀露神社境内 鳥取市
白兎神社  鳥取市白兎海岸
◎利川神社 鳥取市青谷町
不動山 湯原滝 鳥取市青谷町
青谷上寺地遺跡展示館 鳥取市青谷町
青谷ようこそ館 のうみそせんべい発見

移動中に不思議現象あり(後日報告)

鳥取砂丘  鳥取市
多鯰ヶ池(たねがいけ)弁天神社 鳥取市

ラダック  昼食

◎越路神社 鳥取市越路

◎麻生神社  八頭郡私都
◎野町神社  八頭郡私都
福地神社  八頭郡私都
◎美幣奴神社 八頭郡私都

こおげ農業開発センター 八頭郡私都
(名所ではありませんが、要所でした。トイレ休憩アンド拙著の献本)

◎花原神社 八頭郡私都
◎隼神社  八頭郡旧船岡町

道の駅 わかさ 八頭郡若桜町

◎舂米神社 八頭郡若桜町
不動院岩屋堂 八頭郡若桜町
岩屋神社  八頭郡若桜町
◎池田神社 八頭郡若桜町
意非神社 八頭郡若桜町
□若桜神社 八頭郡若桜町
□江嶋神社 八頭郡若桜町
 
 以上、瀬織津姫を祭る神社18社、瀬織津姫と思われる神を祭る神社5社を合わせて23社を無事参拝することができました。
 鳥取市の立川神社、桜谷神社と合わせると計25社、因幡に瀬織津姫の関連の神社があります。
  ここで、瀬織津姫と思われる神について説明しておきます。

 まず、ミズハノメノ神は水の神ですが、瀬織津姫の名の代わりに使われている可能性があります。
今回参拝した神社では、赤倉神社と賀茂神社です。(ミズハノメノカミの御神像は奈良の丹生川上中社本殿に鎮座しています。社務所で写真を拝見したことがあります。)

 熊野神社は、和歌山の熊野那智の神社で、滝神、瀬織津姫を祭る神社です。八上姫で有名な賣沼(めぬま)神社にあります。(ちなみに元伊勢内宮の本殿脇にも熊野神社があります。)
 タカオカミ、クラオカミの2神も瀬織津姫の名の代わりに用いられた可能性があります。賣沼神社に祭られています。(奈良の丹生川上下社、京都の貴船神社に も祭られています。)
筆者は、このたび賣沼神社を訪れて初めて、瀬織津姫との関連を強く思いました。この神社が、かつて祭神名を伏せなくてはならない時代があったこととも関連してくるようです。今まで、祭神名が伏せられなくてはならない事情については、誰も何も言及することはありませんでした。
 八上姫の御親神は天照大神と瀬織津姫ではないか、という、以前から抱いていた筆者の大胆な発想にすこし根拠を持つことができました。賣沼神社は白兎ライン終点上にあり、その隣はというと、天照大神を祀る米岡神社です。この位置関係も絶妙であることが今回明確に浮かび上がってきた、ともいえるのです。

 市杵嶋姫は、広島県の宮島であまりに有名で、弁天さんとも言われる神ですが、瀬織津姫の可能性があります。今回の参拝では賀茂神社、若桜の江嶋神社です。また、旧郡家町池田の白兎神社にも祀られています。こちらも白兎ライン上です。賀茂神社、若桜の弁天さんどちらのお社も、由緒書きから、奇跡的なことが起こった神社であることが分かります。
 賀茂神社での筆者の間接的な不思議体験は、以前紹介したとおりで、13年前の夏、筆者が帰省して賀茂神社参拝の折、偶然ある老女と出会いました。その方には市杵嶋姫と思われる神が、はっきりとそのお姿を現されたようです。
 「あちらにいらっしゃいますよ。見えませんか。」と、言われて筆者も懸命に探し出して見ても、何も見えませんでしたが…。(昨年末、滋賀県高島市の田中神社に参拝したときも、同行の方には明確に見える神のお姿が社殿上方にあったそうですが、筆者には何も見えませんでした。同行の方は理系の科学技術専門の方でしたので、無理して見えないものを、「見える」と主張されているのではないだろうとは思いました。真相はわかりません。)
 イチキシマ姫とミズハノメノ神はホツマにも登場するので瀬織津姫イコールとはいえないかもしれません。
 しかし、たとえば伊勢外宮祭神、豊受大神がしばしば、保食神、稲生神(稲荷神)と同一視されることと事情が似ているように思われます。その意味ではすべてのイチキシマ姫を祭る神社、およびすべてのミズハノメノカミを祭る神社がイコール瀬織津姫ではないといえるでしょうが、逆にイチキシマ姫、ミズハノメノカミを祭る神社の中に瀬織津姫を祭っているお社があることは間違いないといってよいでしょう。それがどの社なのかは、外宮祭神の場合と同じく明確に分けることは難しいように思えます。
 一方高龗神タカオカミ、闇龗神クラオカミはホツマに登場しない中国由来と思える神名なので、こちらは祭神瀬織津姫の代わりに祭られた可能性がありそうです。
 



posted by yakamihakuto at 10:27| 瀬織津姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブログ容量一杯

 容量が一杯に近づき、昨年末あたりから、極端に写真掲載を制限していたのですが、ネタもまだ切れそうにないようなので、このブログを残しつつ、今後の記事は新しい引越し先で続けることにいたしました。
 とはいえ、まだ、使い方に慣れていないので、少しかかるかもしれません。
posted by yakamihakuto at 09:35| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月18日

欠史八代?

 鳥取県には7代孝霊天皇とゆかりのある神社などがあります。鳥取県西部には、孝霊天皇を祭る楽々福神社(ささふくじんじゃ)が複数あります。霊石山付近には、八頭町土師百井や河原町国英に孝霊天皇と血縁のある末裔の方もおられます。
 丹波、丹後には9代開化天皇に因む神社や伝承が残っています。
 一方で、初代神武天皇から10代崇神天皇までの間の天皇については、歴史学会の主流的な見方として、実在しなかったとされています。
 その理由は、その間の天皇の平均寿命が長いことや、記紀の叙述に詳しく述べられていないことがあげられています。その意図は、皇室の歴史を故意に延ばそうとしたものとして、実在しない天皇を作り上げたというものです。
 天皇の平均寿命や在位期間はともかく、その実在性そのものをもすべて否定しているのが主流となっているというわけです。
 実は、筆者は、ホツマを研究する数名の人たちとともに、一昨年、この欠史八代といわれる天皇の御陵をすべて回りました。
 架空の天皇であるなら、どうしてわざわざこれほど立派な御陵を作ったものであろうか、というのが率直な感想でした。もちろん、御陵は明治以降にかなり整備されてはいます。
 しかもそれを作ったのは、ほぼ間違いなくわが因幡と深い縁を持つ土師氏なのです。実際に御陵を回ってみて、その見事な造形美に改めて感心しました。
 神武天皇陵は長らくその場所が不明でしたが、明治の初期に記紀の記述にそって、場所を特定、整備されました。
 2代から9代までの天皇陵についても記紀にそれぞれ記述があり、そのとおりに御陵が存在するわけですから、これについてはもう少し素直に認めるべきではないでしょうか。
 
 欠史八代とホツマの叙述には関連があることを「関西ホツマの集い」の清藤代表が提唱されています。
 ホツマは、40章からなりますが、前半の1章から28章までは初代神武天皇の御世、クシミカタマノミコトが執筆したとされます。
 後半の29章から40章までは、10代崇神天皇・垂仁天皇の御世、クシミカタマノミコトの末裔であるオオタタネコノミコトが記したといわれます。
 そして、それに伴い、ホツマにおいても、2代から8代の天皇の御世の記述は必然的に少なくなっています。
 おそらく記紀も、ホツマ、あるいはホツマを底本とするほかの歴史書に基づいて記されたために、ちょうど、クシミカタマノミコトとオオタタネコノミコトの間の8代の天皇の御世のことが簡略的な叙述になったのであろうという説です。
 
 まさしくホツマを研究し、それと記紀を照合することによって浮かび上がる事実の一つなのです。
 
 欠史八代はいったい誰が提唱したのでしょう。筆者はこの間、それを追っていましたが、意外にも追求できません。これについてご存知の方はお知らせください。
 

posted by yakamihakuto at 23:39| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月04日

隼神社

 イドフの友さんからいただいたコメントから、このところ隼神社に俄然関心を持っています。
 ここで、鳥取県神社誌に掲載されている隼神社祭神をご紹介します。
 
 須佐之雄神 櫛稲田媛神 羽明玉神 イザナギノカミ イザナミノカミ 天照大御神 月読神 大己貴神 天穂日神 三穂津媛神 市杵島媛神 味スキ高彦根神 下照媛神 都味歯事代主神 高照光媛大神 建御名方神 木花開耶媛神 大屋津媛神 大年神 御年神 猿田彦神 瀬織津媛神 速秋津媛神 気吹戸主神 岐之神

 以前にも紹介しましたが、ここはかつて、竹内宿禰が居館を構えていたところと伝えられています。そのちょうど北方にやはり、竹内宿禰を主祭神とする因幡一ノ宮、宇倍神社があります。
 一説に竹内宿禰は、河原町の多加牟久神社と縁のある多加牟久命と同一、とも言われています。多加牟久命は大己貴命の子孫であり、その縁で河原の地に定住されました。
 
 隼神社には竹内宿禰は祭られていません。竹内宿禰が神々を祭る祭祀の場であり、それは当然のことといえるでしょう。

 隼神社をグーグル検索してみると、この八上以外に京都市の隼神社があるのみのようです。
非常に珍しい名前の神社です。
 祭神も多く、天穂日命も祭られていることから、土師氏ルーツでもあるはずです。
 古代エジプトにおいて神と崇められてきた隼、(ホルス ヘル、ファルコン) 神を乗せる船の存在、など、隼と船岡の地名は意味深長です。もしかすると、古代エジプトの末裔たちが大挙して移り住んだ所であったのかもしれません。
 日本は、全世界からの移民がさまざまな時代に入ってきた可能性があります。日本では、伝説扱いにしかなされていない徐福一行にしても、中国では史実として扱われています。日本にあこがれてやってきているという事実を看過してはなりません。
 奈良・京都・滋賀には、さまざまな海外からの文物が運び込まれましたが、それとともに世界各国からの民が移住してきた所でもあります。
 京都の太秦(うずまさ)などはユダヤ系ではないかと思われるようなものが多く残っています。聖徳太子の法隆寺などもゾロアスター教の影響もうかがえるという説もあります。東大寺のお水取り行事もタタール人との関連も指摘されます。滋賀県には百済系の移民の地がいくつかあります。
 因幡においても、古代エジプトの移民が一つの町を形成していた、と考えてもおかしくないでしょう。隼神社を中心に、かつては隼村と呼ばれていたのですから。
 朝鮮半島との関連はよく引き合いに出されますが、それだけでなく、もっと世界中のさまざまな民族が
日本に移り住んだといえるでしょう。もちろん白ロシア系も移住してきた事も考えられます。あったかも知れないムー大陸からの移民もいたかもしれません。世界的に見て、きわめて特徴的な日本語の音韻体系の歴史をたどると、そのような説にもうなづけるのです。
 しかし、日本の言語体系や文化、習慣に慣れ親しみ、もっとも優勢であったと考えられるネイティヴの土師氏となじむことによって、すべて民族的には同化されていったのでしょう。 
 これは何も八上に限ったことではありません。
 日本人を日本人たらしめるもの、その筆頭に日本語があると考えられます。
 そして、日本の祖先神が築き上げた情緒性豊かな感性や、しきたりがさまざまな年中行事を通じて日本の社会に継承されていったことがあります。
 ホツマのような教えの書もかつてはあったかもしれません。
 しかし、そのような教えの書がなくなっても日本人の生活習慣や常識的感覚の中に神々の教えが定着してきたのでしょう。
 八上はかつての日本の玄関といわれた日本海側においてさまざまな世界の文化を巧みに受容してきたのでしょう。
 隼の存在はそれを裏付けるものといえるかもしれません。



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2009年03月03日

世界の中の鳥取の神話Pt2

 世界の中の鳥取の神話の第2弾が催されたようです。
 地元のある方からメールでお知らせ頂戴しました。ありがとうございます。いつもお世話になります。
 またまた、毎日新聞に詳しく記事が載っていることもお教えいただきました。ありがとうございます。
ここ数年、動きが活発化しています。たいへん喜ばしいことです。
 私の頭の中でもこの3年間くらい兎が飛び跳ねています。頭からはなれません。
posted by yakamihakuto at 15:51| Comment(2) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月25日

ホツマの天照大神御製

 天が下  和して巡る  日月こそ
 晴れて明るき  民の父母なり
 
 アメガシタ ヤワシテメグル ヒツキコソ
 ハレテアカルキ タミノタラナリ

 実はホツマには天照大神のお詠みになった歌がいくつか掲載されています。
 すでに紹介した氷ノ山山麓に伝わる御製は、ホツマには掲載されていませんが、そのほかにもサツサツズ歌も天照大神のおつくりになった歌として紹介されています。

このほかにもホツマには神々の詠まれた歌がかなり紹介されています。
もちろん、歌だけではなく、天照大神ほか、神々の御教えがふんだんにちりばめられています。これらをすべて消し去って、神話時代の事実をかいつまんで、歪曲し、神々の関係を捻じ曲げ、あるいはわからなくして出来上がったのが記紀であることが、比較してみるとよくわかります。 
 以前にも述べましたが、「万葉集の中の詠み人知らずの歌の中には相当数、私たちの祖先神の詠まれたものが数多く含まれている」(白兎の小使い説)と見て良いでしょう。八上の氷ノ山に伝わる天照大神御製の存在確認によってこの説は生まれました。おそらく今までそのような見解を出した方はいらっしゃらないと思います。
 
 ホツマにはアシヒキノ ヌバタマノなどの枕詞の解説までなされているのです。
 古代の歌謡を研究する人にとってホツマは必須の書と言えるでしょう。
 フトマニの占いに用いられた128首の歌は、天照大神が編纂されたものと伝えられています。
 
posted by yakamihakuto at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月16日

因幡と土師氏

 天照大神の御子神である天穂日命を祖神とする土師氏が因幡の白兎と大いに関連を持っていることは、すでに判明しています。
 筆者は土師氏は記紀によって改ざんされる前の歴史時代、神話時代の事実を、知っていたのではないかと推測しています。
 ここで、再度因幡国内の土師氏に関連する地をあげてみます。
八上の土師郷ー土師百井、池田、福本、門尾、稲荷
3つの白兎神社  私都川はかつて土師川と呼ばれていました。この土師百井が、八上の、そして因幡の中心部の一つであったと推定します。もと白兎神社の存在、律令時代の大伽藍の寺院の存在、等々からそういえるでしょう。
   大江谷全集落 橋本(土師元)がその中心地でかつて国府があったという説も。大江神社がある。   
   私都谷 大江氏系の毛利氏の拠点
   日下部 天穂日命を祀る神社
   丹比 土師氏と関連がある多治比氏より
   舂米 大江氏の流れを汲む水谷氏
   高草 白兎神社、
   能美郷 大野見宿禰命神社 大江氏の拠点、天穂日命神社他

   土師郷(智頭町)土師神社

 因幡、八上は「土師氏の一大拠点」といっても良いのではないでしょうか。全国的にこれほど土師氏の地域が集中しているところはないのではないでしょうか。そして、これに重なるように瀬織津姫が、全国一の密度で奉祭されていることと関連があるといえるのではないでしょうか。
 土師氏は、瀬織津姫がいかなる神であるかを正確に知っていたはずです。そうであるがゆえに、瀬織津姫を封印したと思われる藤原氏との拮抗があったのでしょう。

      


posted by yakamihakuto at 10:23| Comment(10) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

瀬織津姫と八上

  すでにわかりきったことではあったのですが、あらためて菊池展明氏の、瀬織津姫を祀る全国神社分布図をみて、たしかにこれはすごいことだと思い直しました。
 菊池氏の調査によると、現在判明している全国の瀬織津姫を祀る神社総数は454社です。
 全国47都道府県で単純に割って、1都道府県に約10社という数になります。
 菊池氏の調査された資料(これを作成されるのには大変な労力を要したことと推察します。)から、10社を超えるのは20都府県で、そのうち20社を超えるのははわずかに6府県なのです。沖縄、熊本、佐賀は0で、九州全体で計26社ですから、鳥取にいかに集中しているかがよくわかります。
 最多は岩手の36社、続いて静岡の32社、鳥取は岡山と同数の25社です。
 以前にも記しましたが、鳥取県内でも因幡に18社、そのうち13社が2006年までの旧八頭郡(=郡家、船岡、河原、八東、若桜、用瀬、佐治、智頭。いにしえの八上郡と推定される)ですから、この全国の分布状況と比較しても、驚きの数値です。菊池氏の調査にはもれてしまった大江神社と舂米神社を合わせると15社となります。
 
 近代の行政区画、都道府県で判断するよりも、古代の国、あるいは郡単位でみていくことで因幡、八上の特徴が浮かび上がってくるのです。
 八上はもっと瀬織津姫を顕彰・応援していくべき土地柄であることがよくわかります。
八上に多く祀られている、あるいは、八上に固有に祀られている神様をあげるとこのようになるのでしょうか。

スサノヲノミコト (八上で祀る最多の神 八上にある神社の約半数の神社で祀られている。 筆者推定、ダントツに多く祀られている。おそらく1郡部での数は全国一でしょう。)
八上姫
大兎明神
瀬織津姫 (分布状況で八上は全国一の密度)
天穂日命 (土師氏の祖神 八上・因幡には土師氏の末裔が極めて多い つまり因幡の民はさかのぼれば、天照大神とつながる、ということです。筆者はこの事実をもっと因幡の方、因幡出身の方に強く意識していただきたいと思っています。)
神直日神 (きわめて珍しい祭神)
大直日神 (きわめて珍しい祭神)
日月神  (きわめて珍しい祭神)
天照大神(伝承に基づく点できわめて異例)
大己貴命(伝承に基づく点で)

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2009年02月01日

瑞垣

 伊勢神宮の神宮司庁広報課は、年に3回、『瑞垣』という神宮紹介の冊子を発行しています。神宮のさまざまなイベントや、皇室の方や著名人の参宮の記録、寄稿されたさまざまな分野の方々のエッセイや論文などが掲載されています。
 少々お堅い内容ですが、時折、非常に興味深い読み物もあり、筆者もすでに10年近く定期購読しています。といっても、実際は、ほとんど郵送料くらいの値段です。詳しくは神宮司庁広報課へ御問い合わせください。
 ちなみに、最新号では、宇治橋の架け替え、宇治橋の守護神社、橋姫神社が特集されています。

 筆者も『瑞垣』に掲載される記事からこのブログ記事に反映させているものも少なからずあります。


 

posted by yakamihakuto at 20:00| Comment(2) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

講演シンポジウムの記事が

 昨日催された鳥取大学地域学部主催の講演シンポジウムについて、ネット版毎日新聞に紹介されています。山陰中央新報にも掲載されていました。
posted by yakamihakuto at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

神蹟 豊受大神社

 京都市福知山市大江町には、元伊勢内宮と、元伊勢外宮があります。元伊勢外宮は豊受大神社が正式名称です。
 筆者はこれまでこの豊受大神社についてほとんど記していませんでした。
 実際のところ、判然としないことが多かったためです。
 この正月に初詣で久しぶりに元伊勢内宮とともに参拝した折、河田宮司家の方にお話をお聞きし、その後、宮司家に伝わる古文書からの資料を頂戴して、やはり重要なお社であることを確信しました。
 これまで、筆者は十数年来、丹後にある複数の元伊勢を参拝し、その折に少しずつ調査を進めてまいりました。

 その結果、雄略22年に伊勢山田へ向かったそのときの元伊勢外宮(ホツマでいう朝日宮:アサヒミヤ=豊受大神の奥都城)は京丹後市峰山町久次の山頂から山腹にあったと思われます。遷座の後にも祭祀は続けられやがて里に神殿が移築されたものと思われます。現在の比沼麻奈為神社ですが、戦国時代以前は、境内はもう少し手前に位置していたようです。
 久次、および隣接の苗代、二箇(にか)、五箇(ごか)、鱒留(ますどめ)にかけて特に豊受大神の神蹟や伝承が集中しています。
 ところで、大江町の元伊勢内宮の北方、真井野(まいの)にも真名井があり、豊受大神の伝承が伝わっています。
 丹後の元伊勢でもっとも有名な籠神社の摂社、真名井神社は久次岳山頂、山腹のオオミアエ石、比沼麻奈為神社社殿、大宮賣神社の真東に位置しています。、防衛上の観点から、海岸近くのここが元宮(奥都城)であったとは考えにくく、おそらくその位置関係より、元宮への遥拝の重要祭祀拠点であったと思われます。豊受大神が丹後を拠点に日本海沿岸各地に足を延ばされた形跡もあります。その一つがすでに紹介したように因幡における因幡大明神の稲作伝授であると思われます。
 それに加えて、北陸方面にも、神明社として天照大神が祀られているのではなく、豊受大神が祭られている社が多いそうです。 おそらく、そのあたりまで豊受大神がお越しになり、民の生活を助けられたことが神社の起源だと思います。
 摂津の国の宝塚、または三田市にも豊受大神がお越しになったことが、摂津国風土記に記されています。 (話はそれますが、摂津という地名は瀬織津姫の御神縁でついた名前ではないかと思っています。もちろん、摂津はずっと後の世につけられた名前なのですが、八頭のように、何らかの見えざる計らいが働いたものではないかと思います。摂津には瀬織津姫が晩年過ごされた広田神社があり、奥都城もその近くにあるかもしれないからです。あるいは天照大神の奥都城の近くかもしれません。)

 豊受大神はかなり広範でにご活躍されていましたが、特に丹後を拠点にされていたので、その関連の神社が多いのでしょう。ですから、元伊勢の本命はもちろんあるのですが、数ある元伊勢の多くが豊受大神の御現身のときの神蹟ととらえたほうがよいでしょう。現代人の文献中心の研究のみで、信仰とは無関係にあれこれ論議したところで、無意味です。
 
 そして、豊受(とゆけ)大神社です。とゆけ、と呼ばれていることはホツマの表記に近い事にも注目すべきでしょう。ここは、筆者は、久次岳から伊勢へ御遷座の際にお泊りになったところではないかと思っていました。確かにその可能性もあります。兵庫県市島町や、亀岡市に、その御遷座の跡とされるところが残っています。しかし、規模があまりに違いすぎるのです。ここは元伊勢内宮とまではいかなくとも、境内には相当格式のある社殿があります。河田氏のお話によると、周りを囲む39の摂社はそれほど古い歴史を持っているものではないそうです。しかし、中心の本殿や脇殿は昔からのものと思われます。
 河田宮司家の文書を拝見してここの重要性を確信しました。
 元からの祭神はなんと比沼麻奈為神社本殿祭神とまったく同じです。
 
 祭神 豊受大神 相殿 ニニギノミコト、天児屋根命、天太玉命

 平安時代から現在に至るまで、河田家が一貫して宮司を務めてきたこの豊受大神社は、ほぼ60年ごとの遷座の伝統を守っておられます。 
 ここの真西に位置する出雲大社においても60年ごとの遷宮の伝統を守っています。その期間がぴたりと符合しています。
 では、このお社の起源をいつごろと見るのが良いかということですが、筆者は雄略22年よりはるかに古い時代、トヨスキイリヒメが大和から第一番に天照大神の御霊代を丹後に遷座された時、と思います。 
 もちろん、その遷座地は元伊勢内宮です。トヨスキイリヒメがここにおいでになったときに、豊受大神が天降られたことが記録に残っています。ずばりこの場所が豊受大神社だったと思われます。
 元伊勢外宮はその後、ずっと祭祀が続けられたかどうかは定かではありません。
 というのも、元伊勢外宮の山、舟岡山(ふなおかやま:ここも船岡です。久次にも船岡(ふなおか)があり、そこは丹波道主命の府の岡でした。ふと八上の船岡の語源は何なのでしょうと思いました。)は前方後円墳ではないかという説もあるくらいです。
 その真偽のほどはさておき、少なくとも記録に残っている限りでは昌泰3年(西暦900年)には存していたことがわかります。
 おそらく、トヨスキイリヒメがここに4年間いらっしゃった間に豊受大神の御神霊が出現され、大きな瑞祥として、その地に格式のある社殿が創建されたのでしょう。
 


 

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世界の中の鳥取の神話

  なんと、たまたま鳥取大学のホームページを久々に見てみると、出ているではありませんか。
因幡の白兎に関する講演会が今週の土曜日に鳥取市で催されます。ちょっと直前すぎて、筆者は参加することはできませんが、ぜひ、地元の皆様、ご参加ください。
  世界に誇れる因幡の白兎神話です。鳥取を国際観光都市にすることも夢ではありません。全世界にウサギファンはいます。ウサギの神話や神社があるなどということが世界に知れ渡ったら、世界中のウサギマニアがこぞってやってくるに違いありません。
 さまざまな視点で因幡の白兎神話を取り上げていくべきで、鳥取大学地域学部の一連の研究や試みには筆者も大いに期待しています。

 「フランスから見た白兎神話は?−世界の中の鳥取の神話−」
  
下記の日程で、神話の講演とシンポジウムを開催します。
たくさんの方のご参加をお待ちしております。

日時 2009年1月31日(土)
    13:30〜16:30
会場 とりぎん文化会館 1階会議室
講演 「医療神としてのオオクニヌシ」
    フィリップ・ヴァルテール氏(グルノーブルV大学創造性研究所長)

posted by yakamihakuto at 21:25| Comment(4) | TrackBack(0) | 講演会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

和魂洋才 和魂漢才

  
 和魂漢才は菅原道真公の有名な言葉です。和魂洋才は明治期、欧米列強に伍するためのスローガンとして使われたようです。
 歴史学者の上田正昭氏は、よく、著書で和魂洋才のことを述べておられますが、現代の日本人は、もはや、和の心を忘れ去って洋魂洋才になってしまっている、と指摘されています。確かにそのとおりです。
 教育においても、神道のことが語られることがなく、テレビ番組でも、これまで神社について取り上げられることはほとんどありませんでした。しかし、年末年始ごろには筆者は見逃しましたが、「世界不思議発見」で特集がなされたり、養老孟司さんやビートたけしさんが、伊勢神宮を参宮したときのドキュメント番組などがありました。
 エジプトのピラミッドについてもよく取り上げられますが、先ずはお膝元の日本でほとんど研究が手付かずの状態で、今も信仰の対象となっている10万もの神社の存在の謎のほうが奥深いものがあります。
 
 食生活にしても、欧米化してしまい、そのことから現代病=生活習慣病が蔓延しているとも言われます。アンチエイジングのためにも、自然環境破壊を止めるにも野菜中心の食生活が有効なのですが。
 日本人はほんの数十年前までは日常の食卓で、獣肉を頻繁に食べることなどなかったのですが、今ではごく当たり前となっています。これに関しても、ホツマでは明確に天照大神が肉食の弊害を説かれているのですが、記紀によって見事にかき消された、と見てよいでしょう。
 
 ところで、09年センター試験英語の問題の中にアインシュタインが晩年に1年間ベジタリアンになったことが問題文にありました。別の問題のところでも、有名なYou are what you eatというセンテンスが紹介され、その意味を並べ替えで問うものもありました。もっともこの言葉はさまざまに受け取る側によって解釈されています。
 筆者はこれを読んで、問題作成者の中には、食のことに敏感になっている人がいるのだと確信しました。
 センター試験ですから、受験者の中で特に感性の鋭い人には、大きな好ましい影響を及ぼすことでしょう。
 
 英語の教材などを見る機会があるのですが、その問題文や例文の中に、好ましくない内容が少なからず含まれていることに気がつきます。
 たとえば単語を覚える例文として「It is easy to deceive people.人を騙すのは簡単だ。」などというものが平然と掲載されているのを見て驚きました。そのテキストには他にもいくらか問題と思える表現が使われています。作成者の思想性が表れたものでしょうが、数十万から数百万の多くの生徒がこれを読み、暗誦し、潜在意識に刻み込まれていくことを考えると、これはよからぬことであるとは思いませんか。数十年前ならば、このような文は見過ごされることはなかったでしょう。
 IQのみを必死に鍛えて、EQに欠ける人たちが主流をなす社会は必ず衰退していくでしょう。日本人の情緒性の高さを取り戻さなくてはなりません。和魂洋才、いや、今となっては和魂和才で国を立て直すことが大切です。
 
 昨日200万人もの群集の前で就任したオバマ氏には期待したいところです。彼なら大変革をやってくれそうです。大きな邪魔が入りませんように。

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2009年01月12日

外宮と内宮

 伊勢神宮は外宮と内宮および、関連する計125社からなっています。
 記紀に外宮の祭神についてほとんど記載がないこと、内宮の成立についても記述がないことから、内宮と外宮の祭神の関係についてはさまざまな論が展開されています。
 中には、少々行きすぎと思える主張もネット上で見かけます。
神々のことを論じるときに、神格を否定するのは言語道断ですが、あまりに冷徹でシニカルな論評をするのはどうかと思います。少し前までの日本人は、何かはわからなくとも、畏敬の念を持って古来より神仏や自然を崇拝してきたものです。「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」(西行です。)
 唯物主義的な学問的方法論が大学を中心に支配する中で、学究的に追究するあまり、信仰とはなれてしまっているのは残念な思いがします。(そのような傾向が長く続いている今日、東京大学において60年ぶりに神道を研究する会が発足したのは非常に意義のあることです。また、顧問である菅野覚明教授も、その著作『神道の逆襲』において、伊勢神道を、倫理的な観点から積極的に評価しながら、従来の神道五部書を全否定するかのようなステレオタイプ化された説にとらわれないで、独自に慎重に論じています。)
 また、神仏を論じるにあたって、神秘的な事象はほとんど無視されています。古い時代のものであればそれは受け入れられたりもしますが。
 外宮と内宮の関連は、記紀において意図的にわからなくされているものであることが、ホツマによって明確になります。(ホツマが真書であるとするなら本当に、今までの恣意的な解釈がほとんど吹き飛び、整合性を持った真相が顕在化します。)
 特に日本書紀がその意図を顕わにしています。雄略22年7月に丹後(当時は丹波)比沼の真奈井の比沼山頂(現久次岳)から、伊勢の宇治山田へと外宮祭神は遷座されるのですが、このことには一切触れられていません。そして同雄略22年7月、丹後伊根筒川から浦島太郎が竜宮城へ向かったことを大々的に日本書紀は取り上げているのです。同じ年の同じ月、ですから、これは明白です。
浦島太郎は300年後の淳和天皇の御世に竜宮から戻ってくるというものですが、史実としてありえそうにないこと、しかも、国家的レベルから考えても外宮の伊勢への遷座という一大事とは比較にならないことです。Wikipediaにその背景、執筆者と思われる人物についても記されています。
「『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた作品を本にしたものでありこの人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『壊風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。『雄略記』や『丹後国風土記』、『万葉集』「巻九」などに見られる8世紀の浦島物語の原話は伊預部馬養によって描かれた神仙伝奇小説であった可能性が大きい。」と説明されています。


 同時に、豊受大神の数々のご活躍の舞台であった比沼の里、真奈井では、風土記において、豊受大神があたかも羽衣天女の一人であるかのような「伝承創作」をした形跡が濃厚です。
(このような創作が、古事記のイナバノシロウサギ神話においてもなされていることは、石破洋教授が『イナバノシロウサギの総合研究』で解明されているとおりです。 
筆者は、古事記のイナバノシロウサギは、天照大神を導いた白兎が、その後、瑞祥の象徴となったことを押し隠そうとした意図があるものと見ています。
 全国各地の古い歴史を持ついくつかの神社で、兎が吉兆の象徴として大切にされていることの起源は、記紀では一切不明で、古事記では、逆にうそをついた、というレッテルを貼られてしまっているのです。)
 
 ホツマによって、天照大神と豊受大神の本当の関係や、丹後真奈井が、重要な政治拠点となっていたことを知る者にとって、おとぎ話それ自身は幻想的で興味深いことは否定しませんが、このような中国風の作り話で事実をファブリケイトされていることに、唖然としてしまいます。
 そのような意図が見え隠れしているにもかかわらず、主に記紀や風土記の叙述に頼って、他の面での検証抜きにして、天照大神と豊受大神の神格を誤って認識しているものが、アカデミズムの中で少なからず存するのは、由々しき問題ではないかと、筆者は感じています。
 他の面とは、例えば、京都の伊勢、日向大神宮の外宮祭神が天御中主神とニニギノミコトであること、天橋立、籠神社にも豊受大神が天御中主神、国常立命とご同体であるという所伝が独自にあること、大本教でも同様の解釈がなされていること、そしてホツマにも豊受大神は国常立命の転生された神であることが記されており、それぞれが相互に関連することなく、しかも伊勢神道とは無関係に存在していることです。
 加えて、藤原不比等、持統天皇のときに、内宮と外宮の社家に大きな変更が加えられ、その直後より天皇ですら伊勢神宮へ参宮できなくされるという緊張関係が生じていたことを、知ってか知らずか等閑視し、もともと内宮と外宮の両宮の社家であった渡会氏が、鎌倉時代になってやっと表に出すことのできた伊勢神道を、軽んじている主張が多いのには、ただただ驚くばかりです。
(天皇の参宮禁止は明治維新まで約1200年間続きました。外宮に関しては菅原道真公の生誕の際、祈祷がなされたくらいですから、平安初期から一般庶民の参宮は認められていたと思われます。
その後、鎌倉期からは内宮も、武家そして一般庶民の参宮を受け入れています。然し、皇室関係者に限っては斎王を除いて一切参宮された方がいないのです。
その一方で、戦国時代、後陽成天皇は丹後の元伊勢、比沼麻奈為神社へお越しになり、額を奉納されています。ですから皇室も本当は伊勢神宮祭神の直接祭祀を切望されていたと思われます。
さきの日向大神宮へは歴代の数名の天皇も参拝しておられるようです。宮中八神には伊勢の祭神は含まれていません。宮中においても天照大神を祭祀することはままならなかったようです。「私幣禁断」の真相は「皇室の参宮禁止」ととらえた方が妥当でしょう。)
 神道五部書に偽書の烙印を押した吉見幸和の主張がいかなるものであったか、非常に気になるところです。
社家の強引な変更も突然実行され、神宮にあった古文書も焚書された可能性もあるのではないかと思われます。また、一般民衆と皇室をも伊勢神宮から切り離してしまった「私幣禁断」の狙いは祭祀の担い手を伊勢神宮内宮神官のみに限定し、神宮を孤立させ、経済的にも困窮させて、ゆくゆくは廃絶しようとしたのではないかと思われます。
神宮の御杣(ミソマ)山も伊勢から遥か遠くの木曾へと、用材確保にも苦労しました。
 この御杣山で、遷宮のたびごとに1万本以上ものヒノキが切り出されるます。用材の中には、量は少ないのですが、樹齢600年を超える大きさのものも必要とされます。元は神宮の宮域から確保できていたそうですが、鎌倉期には、もはやすべて切り出してしまってなくなったという事実には注目すべきでしょう。

丹後の元伊勢は庶民に対してなんら奉幣の制限などありません。豊受大神が稲作をはじめられた月の輪田や籾種を浸された清水戸も昔から今に至るまで、庶民の生活の場に位置しており、「私幣禁断」などというしきたりとはまったく無縁です。
ホツマによれば、豊受大神が真奈井で天照大神に伝えた最後の教えでも、君主は民の親であり、庶民への愛を大切にすることを強調されました。この思想と「私幣禁断」には筆者は距離・違和感を感じます。
 おそらく他の古い伝統を持つ神社でも60年ごとの遷座は行われていました(おかげ参りも60年周期で爆発的にヒットしたそうです。出雲大社も昨年60年ぶりに修復がなされたようですし、京都府大江町の元伊勢豊受大神社においても平安時代より、ほぼ60年ごとの遷宮を行ってきていることが社家の河田家に伝わる古文書に記されています。おそらくここはトヨスキイリヒメが三輪より遷座したときに創建されたものではないかと筆者は思っています。)が、外部のサポートを一切絶たれた状況で神宮を20年ごとに遷座し続けることは神宮にとって大きな負担となったはずです。
 御師の登場、活躍がなければ、間違いなく神宮は消滅、ないしは大幅に規模を縮小せざるを得なかったと思われます。然し、パラドクシカルにいうならば、持統天皇の御世に定まったとされる20年毎の遷宮は、庶民の伊勢神宮への関心を喚起する機会を頻繁に与えることができるものとなっています。

 ホツマによれば、豊受大神はイザナミノミコトの父、即ち天照大神の祖父に当たる神で、天照大神のご誕生のために、宇宙の天御祖神に8000回に及ぶ祈祷をされ、ご誕生後は天照大神を東北の日高見で養育されたのです。
豊受大神は丹後真奈井で崩御される間際にも、天照大神を伊勢の伊雑宮からお呼びになって、最後の教えを説かれました。後に天照大御神もここ丹後の豊受大神の元でご永眠されることを望まれて、奥都城を丹後になされたのです。
それくらい縁の深いところであったがゆえに、崇神天皇の御世にトヨスキイリヒメが天照大御神の御霊代の遷座の地として、先ず第一番に丹後を選ばれたのです。その場所とは天照大御神の長期的な行在所、または奥都城であろうと思われます。それら関連の地が元伊勢として信仰の場とされてきたのです。
 最終的には、天照大御神の晩年のご住居である伊勢五十鈴川上流、現在の内宮の地に遷座されることになります。
 天照大神の崩御の後に瀬織津姫は、大神のご遺言どおりに五十鈴川の宮殿を後にして、ワカ姫とともに西宮の広田の地にお移りになったのです。
広田神社は瀬織津姫の別名、撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめ)という名前で祀られている非常に珍しいお社です。
 ホツマの記述がいかに神社祭神や伝承と一致しているかが皆さんも次第に納得していただいていると思います。繰り返しますが、記紀では、これらの記述の数%にも満たないことしか記されていません。丹後の元伊勢伝承地は勿論、伊勢の内宮、外宮、伊雑宮の関連なども、さっぱり見当がつきません。

 
 伊勢神道においても不明な、豊受大神と天照大御神のご関係と、その関連の社とその位置関係、元伊勢遷座の意味などが、ほぼ全て理路整然と説明できるのは唯一、ホツマしかないのです。
 こうして比較検討してみると、記紀の執筆者の狙いは、日本の祖先神のご業績を踏みにじり、分からなくすることにあったといえるでしょう。
 

 また、豊受大神の最後の教えのご伝授の後、丹波の民に慰留を懇願されて、しばらく行宮された縁で、天照大神が、後に因幡・八上へ行宮されることになったのだと思われます。
 
 豊受大神は天照大神にとって、特別の神だったのです。これに関して、ネット上で、大変興味深いたとえをしているのを発見しました。非常にわかりやすいたとえです。
   
posted by yakamihakuto at 23:51| Comment(6) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

鯰絵の天照大御神

 今朝ニューギニアで大きな地震が起こったそうです。大きな被害が出ないことを祈ります。
 
 ところで、江戸時代には地震からのお守りとして、鯰絵(なまずえ)というものが流行したそうですが、その中には天照大御神が男神として描かれているものもあるようです。
 実に ユニークな構図で、地震を引き起こした鯰が鹿島神宮に連れ出されて、天照大御神の前で、詫びの証文を書いている様子が描かれています。
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2009年01月03日

姫路神社 鳥取市気高町

 元日の日本海新聞第4部には鳥取市気高町にある姫路神社と丑の関連についての記事がありました。
 それによると、ここには、牛の舌祭りという行事が続けられているそうです。祭りの起源は16世紀ということですが、「祭神スサノヲノミコトが出雲の国でヤマタノオロチを退治した後、疲れて帰ったことで慰労のための「御忌みさん」に入ると伝えられている。その帰ってきた日が丑の日の丑の刻、起きたのが申(さる)の日の丑の刻。申の日の午前中に牛の舌をかたどった餅を奉納する」そうです。
 このように、神社の伝承を検証していくと、それぞれの神様の御現身(おうつしみ)のときの足跡が浮かび上がってきます。
 ヤマタノオロチ伝承は出雲の斐川上流とされていますが、日野郡や八頭郡も比定地としうるところです。スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治した後、「帰ってきた」と表現されるということは、ここも、あの国境付近に当たる気多の崎の近くであり、スサノヲノミコトが拠点としていたところは因幡であった可能性が出てくるのかもしれません。
 その意味では、因幡の白兎神話と同様、ヤマタノオロチ退治の神話も出雲から因幡へと広範囲にわたるストーリーとしてとらえていった方がよいと思われます。
 それにしても、なぜ姫路という名が冠せられているのでしょうか。
posted by yakamihakuto at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「参宮・遷宮・伊勢神宮」展

 なんと、元日から3月1日の2ヶ月にわたって、因幡の地、鳥取市歴史博物館(やまびこ館)において、「参宮・遷宮・伊勢神宮」展が催されています。
主催は、霞会館と鳥取市歴史博物館です。主に神宮文庫、神宮司庁、神宮徴古館からの特別展示物と県内の博物館所蔵の展示物で構成され、その展示物一覧の写真と詳細は『参宮・遷宮・伊勢神宮』と題された1冊の書籍として、展示会場で販売もされています。
 その中には、霞会館学芸員の論文のほか、地元の博物館学芸員の詳細な研究成果も記されています。
 特に、伊勢神宮と庶民を結びつけた御師(おし・おんし)に関する詳細な研究や、因幡・八上の伊勢道に関する写真や論文も紹介されており、大変貴重です。 展示物の中に智頭町の檀家に残されていた藁苞(わらづと)が紹介されていました。これは、毎年、新しいお札をもらったあと、古いお札をトンド焼きで焼くのではなく、ずっとその藁筒に保管し、それを天井裏に置いておくと雷除けになるということで、大切にされてきたものだそうです。
 その中に記録されたことを詳細に研究していくと、さらに伊勢信仰や御師の活躍ぶりが明らかになるものと思われます。
 ぜひ、皆様もこの特別展示をご覧になってください。
 
posted by yakamihakuto at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 鳥取市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

山陰文化観光圏

 新年明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 帰省中に地元の日本海新聞を読みました。筆者にとってはすべての新聞の中で、最も読みごたえのある新聞です。
 元旦の朝刊第2部には「山陰観光文化圏」が特集されていました。新聞によれば、2泊3日以上の滞在型の観光観光地作りを国が進めており、その候補地16地域の中に中海・宍道湖・大山を中心とした山陰文化観光圏が選ばれたそうです。今年から本格的に取り組みがスタートされるそうです。
 その中に荒神谷博物館長藤岡大拙氏のインタビュー記事が掲載されていました。
 藤岡氏は鳥取島根両県をまたぐこの文化観光圏のキーワードの一つは「神話」で、その中でも因幡の白兎について、斐川町には八上姫と大国主命の間にできた御子神、御井の神を祀った御井神社や大国主命が八十神に襲われた伝承の残る赤猪岩(あかいいわ)神社があることから、因幡の白兎神話を出雲にまで広げることで、「因幡の白兎は壮大なコースができあがる」と指摘されています。
 神話でつながる山陰、筆者も同感です。
 山陰の魅力は豊富な神話とその舞台を大いに活かすことで、さらに引き立ってきます。
posted by yakamihakuto at 17:43| Comment(2) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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