2008年12月26日

八上 冬至 日の入り

 八上 福本の白兎神社からの冬至の前日の日の入りの写真が八上出身の方から届けられました。ありがとうございます。
 ちょうど河原の賣沼神社方面へと西の日が暮れていきます。西の日天王とはここを基点に生まれた呼称だろうと、郷土史研究家の新誠さんは指摘しています。
 これからいよいよ八上 白兎神社復興へ大きく前進します。
それにしても、写真に写っている一番上の雲が白兎の顔に見えるのは私一人だけでしょうか。


冬至 日の入り
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ホツマ文字とウサギ

 先日の講演シンポジウムで神様カードを頂戴した方とのメールのやり取りで、驚くべきブログを紹介していただきました。なんと、以前紹介したこともある大神神社のなでウサギの正面からの形がホツマ=ヲシテ文字のトとそっくりだと指摘しています。詳しくはこちらを参照してください。

 うさぎは昔は何と呼ばれていたのでしょうか。ウ(卯)と呼ばれる以前は、ト(兎)と呼ばれていたかもしれません。うさぎが神の使いとしてその像が境内に装飾されている神社の祭神は原初の神を祀っている場合が多いことを、以前記しましたが、やはり、トのヲシテと関連するのかもしれません。
 それを古事記神話の作者がうさぎの本来の神聖性を歪めるために、「ワニを騙して」云々の話を挿入したのではないでしょうか。八上に伝わる白兎伝承には騙しの話など一切無縁で、非常に神々しい印象しかありません。 
 トの教えとは初代天神国常立命の立国の教えであり、人類社会に普遍的な理念が示されています。やはり、ウサギ神には深い意味が付与されています。
 トノという音を持つ地名も、因幡、八上に数箇所残っています。殿様という名前もこのあたりが関係しているのではないでしょうか。整う(トトノウ)も関連ありで、数字の十(ト)も神を表すのでトには深い意味が隠されているのかもしれません。トは北を示しますし、ト(うら)は占いをも示します。兎野(トノ)とも漢字を当てはめることができます。トを取る(獲得する)でトットリ(鳥取、十取り)とも関連するかもしれません。
 地名の由来はそれぞれ、比較的新しいのかもしれませんが、八頭、という地名の持つ不思議な偶然性と合わせ、何か無視できないものがあるようにも思えます。
 記紀のみでは、日本の神々の正確なご業績も不明で、神社へ参拝しても、祭神の神徳もわかりづらい思いをし、閉塞感を持たざるを得ないもどかしい気持ちがありました。
 しかし、ホツマをはじめとするヲシテ文字の文献によって、一挙に日本の神々の業績とその偉大さ、そして、現代にまで引き継がれる日本の精神文化のすばらしさの源がすべて理解できるようになります。
 仮にこれらが神代の時代および、崇神天皇〜景行天皇の御世に記されたものでなく、江戸時代の高度な思想家によるものであったとしても、何らかの方法によって神々の考えを忠実に再現したものといって間違いないと思われます。それは花形隆一郎氏や、鳥居礼氏がすでに指摘しているように、江戸時代に存した思想家の世界観、神道観、支配的なイデオロギーとは大きく異なるからです。プラトンが霊感によってアトランティス大陸の存在を示唆したごとくに、無から有が生じたとしか言いようがないのです。
 ホツマに記された全国各地の古い地名にしても、これだけのもの(実際に触れてみてください。ネット上でもホツマの文章は全て公開されています。)を掲載するには、東北から九州にいたるまで全国津々浦々を歩き回らなければ得られないようなものが多く、自由に全国各地を旅することのできなかった時代にそれらの情報を収集することは不可能です。しかも古い地名のみを選び取らなくてはならないのは、至難の業、まさに神業としか言いようがありません。
 しかも神社の祭神や伝承にいたっては、すりかえられたり、埋没させられているものもあり、それらをホツマのように記すことは不可能です。
 
 記紀は日本の神々の業績や神々の精神的深さ、人類愛、哲学的世界観をほとんどすべて消し去った代物であることが明確に浮かび上がってきます。
 ではなぜ、このようなすばらしい歴史や世界観が消されてしまったのでしょうか。
 
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2008年12月18日

地名の変遷

 筆者はかつての因幡全体が八上と呼ばれていたのではないかという推論を立てています。
 八上と呼ばれる前は、地理的範囲は確定できませんが、ホツマにあるようにサホコチタル、古事記に登場する根の国、底(ソコ=サホコ)の国、あるいはヤマカゲ、と呼ばれていたのかもしれません。
 もし、スサノヲノミコトが須賀の山にクシナダ姫と宮殿にお住まいになっていたのであれば、その時点から出雲と呼ばれていた可能性も無きにしも非ずです。

 天照大御神がここに行幸されて以降、八上と呼ばれるようになったのでしょう。そして大己貴命が八上姫を娶ったことで、因幡とほぼ地域的に同一であった八上は出雲、と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
 地名は、残っていくものですから、複数の呼称が重なって残っていった可能性が高いでしょう。
 また一方、おそらく豊受大御神が稲葉大明神として鳥取市立川付近にお越しになった直後、その地域は稲葉と呼ばれるようになったのだと思われます。そしてやがて八上が稲葉と呼ばれるようになり、八上は因幡の中心部に限定されていったのでしょう。それでも因幡の中で最も大きい面積を持つ郡としてその名は残りました。
 因幡、八上も出雲と呼ばれていたことがあるとするならば、納得のいくことが多く出てきます。一つはスサノヲノミコトの八岐大蛇退治伝承の舞台(須賀の山山麓)、天穂日命の拠点比定地(高草)、出雲土師氏の本貫地(八上の土師百井)など、現在の島根県の出雲では、それらの比定地として根拠に乏しい感があるのですが、因幡まで広げるとその舞台をカバーできるのです。
 これまで、歴史学、神話学では出雲、といえば島根県とせいぜい鳥取県西部までしか視野に入れていませんでしたが、因幡も出雲とみなすことで、さまざまな謎が解けてくるのではないでしょうか。岡山方面もそう呼ばれていた可能性もあります。
 ではなぜ、大出雲が現在認識されているような島根の東部に限定されていったのでしょうか。
 それはやはり国譲りと関係するものと思われます。国譲りの後、大己貴命は青森の津軽、岩木山へ国替えされます。そのときに、現在の出雲に地域が確定されたのでしょう。
 しかし、先に述べたように、いったん出雲と名づけられた稲葉方面も、出雲の呼称が残ったのでしょう。
 その後、8世紀初頭、記紀編纂の折に、その内容にそぐうように出雲地域を限定し、その限定された出雲に記紀の記述に合わせて、関連の施設、伝承地を作り上げていったのではないでしょうか。そのように捉えることで、出雲国風土記と記紀の内容の相違の発生もうなづけます。と、ここまで述べましたが、筆者も自信がありません。あくまで推測の領域です。
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2008年12月17日

フトマニと和歌 神様カード

 先日の講演シンポジウムに参加された方より、大変興味深い神様カードというものを頂戴いたしました。誠にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。
 これは正に日本版タロットカードといえるかもしれませんが、決定的な違いがあります。それはこの中には当然のことながら、魔に通じるものは一つもないということです。さすが日本発です。日本人の性格の良さ、道徳性の高さは、この魔的な要素が皆無、ないしは極めて少ないことに由来しています。日本の生活習慣になじむことは、自然にそのような潜在意識を誰もが持つことにつながると思われます。
 どれが選ばれようとも、必ず、良い意味を持っています。プラス発想、ポジティヴシンキングが人の運命を好転させる原理と同じです。しかも、日本の古来の神々ですから、私たちと非常に縁があります。日本の神々の御神徳は、日本人に共通する潜在意識の決定要因です。
 カード解説の中で、神様の祭られている代表的な神社の中に、鳥取では国坂神社(祭神少彦名命)、そして、前回紹介した八東町安井宿の伊蘇乃佐只神社が紹介されていました。

 実は、日本でも古くから占いに用いる道具がありました。それは豊受大神が作成されたフトマニ図と天照大神が選定された128首の和歌です。
 以前にも述べましたが、和歌が政(まつりごと)と深いつながりがあった、その源はここにあったのです。いったい誰の手によって隠されたのでしょうか。おそらく、邪な思想を持った皇統の外部の権力者によって、かき消されたのでしょう。ですから、これに関連するホツマ、ミカサフミ、カグミハタなどもともに皇室、皇室周辺から遠ざけられることになたのでしょう。
 日本人がお伊勢さんに自然に惹かれていくのは、中国びいきの為政者によって、どんなに神々のその業績を隠されても、深く日本人のDNAの中に記憶が刻み込まれているからでしょう。128と関連するのは24部128門より成る和名抄ですが、ひょっとすると、このフトマニ、和歌の伝承が何らかの形で残っていたための一致でしょうか。
 
 そして上の記事を書いた直後に、生まれて初めて選び出したカードは、なんと豊受大御神でした。やはり、という感じです。実に不思議ですね。私は、人に見えないものが見えたりするようなことは一切ないのですが、このような不思議な符合の一致や、シンクロニシティーは数多く経験しています。そのことは、このブログを定期的に読んでくださっている方もすでにお気づきのことと思います。
posted by yakamihakuto at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月12日

伊蘇乃佐只神社

 先日、講演シンポジウムの翌日に、雨の伊蘇乃佐只神社に参拝に行ってきました。八東町安井宿の水田地帯にある地元の人も普段はあまり参拝していない神社ですが、実は祭神が非常に珍しい神直琵神、大直琵神で、全国的にも極めてまれなので、一部にはたいへん有名なお社なのです。まさに宝は田からです。
 伊蘇乃佐只は埋没神、伊豆能売神を連想させます。「いやー、八上は本当にすごいところですねー。」と、水野晴郎さん風に、言葉が自然と出てきます。多くの宝に恵まれた八上、因幡、その価値を再発見し、その情報を発信していけば町はどんどんよくなると思います。
 
イソノサキ本殿
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2008年12月06日

小泉友賢

 筆者はいまのところ、17世紀に記された小泉友賢の「因幡民談記」を直接目にしていません。
 石破洋教授の「イナバノシロウサギの総合研究」に小泉友賢の因幡民談記の記述、「又八上姫の社も当国に有るべけれども今何れの地に有りということを聞かず」が紹介されていますが、これはいったいどういうことなのでしょうか。
 筆者が調べてきたように、少なくとも因幡の国には八上姫を祀る神社は、賣沼神社、石坪神社、大江神社、酒賀神社、稲葉神社、御湯神社、潮津神社の7社があったわけですが、小泉友賢はなぜこのように書いたのでしょうか。今非常に疑問を持っています。
 小泉友賢は因幡中探し回って八上姫を祀る社は見当たらないといっているのです。これは非常に不可思議です。八上姫を祀る神社は複数あるにもかかわらずどうしてこのように記したのでしょう。
 前回のブログ記事で記した多加牟久神社も元の祭神は大己貴命と八上姫であった可能性があり、その意味では、表向きに八上姫を祀る神社としては当時、認識されなくなっていたと考えられます。
 しかし少なくとも酒賀神社や潮津神社、そしておそらく御湯神社も一貫して八上姫を主祭神として祀っていたはずなので、この小泉友賢の記述は非常に疑問です。
 この小泉友賢の記述を信じるならば、酒賀神社、御湯神社、潮津神社の祭神も中世においてまったく不明であったのでしょうか。
 もしそうだとするならば、祭神八上姫を隠さなくてはならなかった大きな理由が何かあったのでしょうか。
 もしくは単に小泉友賢の見落としなのでしょうか。
 ここを確認することが因幡の八上姫を祀る神社の謎を解く鍵であると思います。

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2008年12月05日

多加牟久神社

 八上姫を祀っていたらしい社のようです。
鳥取県神社誌によれば、「社伝によれば延喜式に二座とせしは大穴牟遅命、八上比賣命にしてその後、事代主命を合祀せり 即ち今に多加牟久之神二座、岡大明神と称すという。然らば祭神中に八上姫を脱せるものなり」とあります。
 また、式内社調査報告によれば「賊退治のために派遣されてこの地へきた多加牟久命は洗足山の賊を見事退治したが、ここへ来て初めて知ったことに、かつてこの地は大国主命と八上姫とが契りを結んだ場所であった。たとへば、高尾の山の仮陣営の近くに「カケアガリ」という字名がある。これは八十神に追われた大国主と八上姫とが、逃げて駆け上がったときについた地名であった。...」大国主命の十六代めの子孫である多加牟久命は「そのことを知って九州に下ることをやめてこの場所に大国主神を祀って自身は土着したのである。その子孫もまたこの社に多加牟久命を併せ祀って、代々神主として奉仕したという。この神社に通じる道は三つある。一番表道が「カケアガリ」の道、もう一つは明治谷や小河内谷方面から高尾に入る道、三つ目は裏山から入る道であるが「カケアガリ」の道に面した。「宮ノ下」という場所に多加牟久命の子孫が住んでいたと伝えている。ちかくには、神を斎(いつ)くという意味で「イツガミ」という字名があり、また「穴久保」という字名の所は湿田で多加牟久命の子孫が水路をつけずに稲作をした場所と言い伝えている。」と記されています。
 郷土史研究家の新誠氏も指摘していましたが、社伝は非常に重要です。おそらくここに記されているようにこの多加牟久神社とその周辺は大己貴命と八上姫の縁アル地でしょう。今ではせいぜい「カケアガリ」の地名とその伝承しか残っていないようですが、本当は他にも伝承があったのではないでしょうか。
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2008年12月04日

金星 木星 月

 珍しい天体現象が先日おこったようです。
 金星と木星が三日月の周りで輝き、見ようによっては月の周りを兎(rabbits)が飛び跳ねているようにも見えます。
11月25日で紹介した月のしずくと波兎の写真を思い起こしました。またこれもシンクロニシティーでしょうか。

Photo by Helen in South Africa.(an Eddie Jobson fan)

金星 木星 月
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2008年11月30日

潮津神社

 鳥取市青谷町の潮津(うしおづ)神社です。
祭神は八上姫と大己貴命です。ここはすでに以前から紹介しているように、因幡と伯耆の国境付近で、青谷上寺地遺跡の北方にあります。
 これで因幡にある八上姫を祀る神社をすべて参拝することができました。
 先日、清流茶屋かわはらの方から伯耆の八上姫を祀る神社の資料を頂戴しました。誠にありがとうございます。
それによると、日野郡福栄村字神福の福栄(ふくさかえ)神社(大字豊栄の大阪神社の祭神を合祀)、日野郡石見村大字上石見の大石見神社に八上姫が祀られています。
 このほかに、「伯耆の素兎」で有名な大山町束積の中山神社の境内社の鷺の宮にも素兎の神とともに八上比賣幸魂が祀られているそうです。
 改めて八上姫を祀る神社を列挙します。 
八上
 賣沼神社
 都波只知上神社
 大江神社
 
因幡八上以外
 酒賀神社
 御湯神社
 稲葉神社(稲葉殿)
 潮津神社
 
伯耆
 福栄神社
 大石見神社
 鷺の宮
県外
 三井神社(島根県)
 島御子神社(長崎県対馬)
 気多神社摂社(石川県)
 大己貴命とともに祀る神社は酒賀神社、御湯神社、稲葉神社、潮津神社、大石見神社、福栄神社、島御子神社の7社です。気多神社は確認できていません。合祀後であれば、大江神社、都波只知上神社もあります。
 
 

潮津神社

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2008年11月29日

ふたたび宮谷の賀茂神社

 御旅所について、筆者は誤った認識をしていました。ここに訂正させいただきます。
 八頭町宮谷の賀茂神社には、御旅所跡があります。ここは、祭礼のとき、賀茂神社の神輿が渡御したところです。御旅所がかつてあった神社とは、庶民の信仰の厚かった神社であることを示します。そこには胞衣塚の跡もあります。胞衣塚は古来、それを埋めることによって、災厄から守られるという信仰があったようです。ところで、その位置が白兎夏至冬至ライン上にあることから、この胞衣は八上に生誕された高貴な方の個人的な胞衣塚とみなすことはできないでしょうか。八上生誕の高貴な方となると、やはり一番思いつくのは八上姫です。福本70号墳はこの胞衣塚の真西に位置しており、非常に関連性があるといえるのではないでしょうか。
 郡家町誌の賀茂神社の項には、こう記されています。「創建年代は不明であるが、古文書の一つである、文明三年(1471)六月付の「賀茂大神宮」によれば、家伝に鳥居日向守の祖先が山城国(京都府)の賀茂大神宮をこの地に移すとある。この地とは宮谷字細谷の経塚の南の平地であるという。その後日向守重宣なる人が歌学専修業の途次、、当地で大雪に逢い、重賢に頼り、八年逗留して重賢の女を娶って当所に永住した。そのために山城国の県主(重宣の父)に依頼して神領を給与された。これは朱雀天皇(930〜945)の時であったという。なお、天暦6年(952)日付の棟札写によれば高橋庄兵衛(卯歳)の名で「奉建立本堂一宇字社内安全脩 湯口安左衛門九月吉日」とあり。このときに本殿が建築されたのである。次に古文書の第二、賀茂大明神曰謂(えつい)書によれば神領二百石あったが、羽柴秀吉来伐の時、古文書等宝物皆焼失して今残存しているのは高麗犬と古名だけである。

 それから、奥宮の京賀里から今の地に移転した。
この京賀里とは京都の賀茂大明神をこの里に遷祭したことを伝承したものである。次に第三の古文書『賀茂祖皇太神宮録記』によれば天平壬申年(732)夏、大干ばつで五穀皆枯れて稔らなかったので農民が非常に憂慮した。その時賀茂別雷太神宮の神託があったので山城国愛宕郡の上賀茂の別雷尊を稲葉(因幡)のこの里に移し祭ったので、その後は五穀も豊かに稔り村中繁栄したという。
 天降別雷神乃神代与利天津日継者不絶計里(あまくだり わけいかづちの かみよより あまつひつぎは たえずありけり)鳥居日向守重宣(筆者注:賀茂神社宮司)
 さて、天平4年賀茂別雷神を勧請して帰り、休息した地を御生地(みあれのち)としてエナ塚という。
 現在育英小学校の前で、用水路が三つに分かれているので俗に『三ついで』という。ここから東方100メートル余の所に石の鳥居があったが、現在は宮谷村入り口近くに移転した。
『三ついで』の一つは私都川の方向(北西方)に流れる。他の二つは郡家方面(南方)に向かって流れる。この中間の川を足洗い川(俗称あらいで)という。別雷神を奉持して帰国した供人が手足を洗った所である。これから上流の奥谷、下坂、井古村のあたりははるか上流の市場堰八上堰の流末であって旱害(干害)の多いところで、水不足の年毎に雨ごいをした...。」
 「大神宮」という呼称からも、やはり非常に格の高さを感じます。

ちょっと不思議なお話があります。
 実は筆者は約10年前の夏のある日にこの賀茂神社に参拝したとき、境内である白装束の老女と出会いました。その方はなんと兵庫県の佐用町からタクシーを使って連日この賀茂神社へ参拝に来ているということでした。理由を尋ねると、この賀茂神社に現れる女神に呼ばれているからだそうです。拝殿のほうを見て、「あそこに神様が見えませんか。」と言われて、見てみましたが、当然、私には何も見えません。
 しかし、この老女にははっきりと見えているのです。その女神とはコノハナサクヤ姫、トヨタマ姫、イチキシマ姫、ミズハノメノ神、瀬織津姫、または素兎=八上姫なのでしょうか。
 このようなことがあったことも筆者が賀茂神社がただならぬ神社であると思った理由です。
 
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2008年11月28日

能登半島 八上姫を祀る神社

能登半島にある気多神社に関連する神社にも八上姫が祀られています。「嶋山の内、別所村に八上比売の神社あり。八上明神という。」とあります。
 また、「南西に望めば、田畝茫々として湖水湛えたり、此の辺の山を能登の中山と云い、此の山上の端一宮垂跡の地也。 巫女原と云い山を巫女山と云う。」とあり、ここにも中山があり、その付近に巫女と関連する地があるのも八上と共通します。 
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対馬 八上姫を祀る神社

  八上姫を祀る神社が対馬にもあることを講演会で紹介しましたが、こちらです。
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2008年11月27日

現代版 イナバノシロウサギ

 昨日日本海新聞で紹介された新さんの不思議なエピソードの舞台は実は八頭町の大江谷(旧船岡町)水口(みなくち)の金比羅大権現です。 ここの兎神が、実際の野ウサギに化身して、新さんを案内されたのかもしれません。この鳥居の近くで野ウサギは姿を消したことになります。
 本殿と拝殿の隙間の見つけにくいところに施されているこの立体の波兎神をぜひ皆さんもぜひ見学、参拝してください。水口の集落からかなり山間に入ったところです。道は一本ですが、念のため地元の方に道を確かめておいた方が良いでしょう。うまくすると兎さんに案内してもらえるかもしれません。

金比羅 鳥居
















金比羅 波兎
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2008年11月26日

海潮音にシンポジウムの事が

 本日11月26日付 日本海新聞のコラム、海潮音に23日のシンポジウムについての所感が紹介されていました。 冒頭の新さんのウサギの案内のエピソードは近々、筆者も自身の最近の体験とあわせて紹介しようと思っていました。詳細はこちらでどうぞ。執筆者のおっしゃるとおり「千年の眠りから覚めた兎の神様」が今動き出しています。

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食べる! 兎ー因幡の白兎ー

食べる! 兎 - 因幡の白兎 -   
 先日のシンポジウムのパネルディスカッションで、筆者は会場からのご質問、「江戸時代に兎を鵜と鷺にして、鳥だから食べてもよいとして食されていたこと」について、「兎を食べないでください。」と、的外れなお答えをしました。
 しかし、その発言も少し修正しなければなりません。ちるくるさんのホームページには、因幡で売られている食べる兎が紹介されています。
 これなら大丈夫です。あとは虫歯に気をつけましょう。
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2008年11月25日

神秘の波兎 もっとウサギを!

 講演シンポジウムも終わり、ほっとして、ドライブを楽しんでいるとふと視界に、追い求めているものが出現しました。
 八頭町大御門の隣の安井宿の内田様宅の土蔵に施された鏝絵の波兎です。やはり、旧八東町です。八東町の方々もご先祖様からの何かを受け継いでいらっしゃるのだと思われます。白兎は天照大神を氷ノ越えまで案内されたのでしょう。その途中でお通りになった八東です。(八東には天照大神と白兎という密意がこめられているのではないかというのは筆者の自説です。)後の世にこれが伊勢道となります。(勿論、この写真は内田様に許可を頂戴して撮影し、公表させていただいております。内田様、このたびは誠にありがとうございます。)
 ちょうど小雨の振る中での撮影で、何枚も撮りましたが、その中の1枚には雨のしずくがちょうどお月さんのようになって写ってくれました。月世界から白波とともに地上に舞い降りてくる神秘の白兎です。ヒデキ感激!(ヒデキじゃありませんが。 ちょっと古いかな?)

内田様のお話によりますと、5年くらい前、土蔵の塗り替えの際に、職人さんに勧められて、子宝(子沢山)に恵まれるようにとの願いで、制作されたそうです。
 八上、因幡一帯にこのようなウサギの像や八上姫をはじめとする神々の像が増えていくと、もっともっと町は栄えていくように思えます。ホントにほのぼのとした気持ちになります。
そろそろ日本全国、町中いたるところにクリスマスのイルミネーションで飾られますが、どこへ行っても同じではなく、八上へ行けば、こうしてさまざまなウサギさんに会えるというのは地域独自の魅力です。日本では、多神教ならではの個性のオンパレードができるのです。いずれこれは全国的な評判になります。
 もっと光を!ではなく、もっとウサギを!が八上・因幡の合言葉となりますように。
 

神秘の波兎
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2008年11月24日

シンポジウム無事終了!

 11月23日 イナバノシロウサギシンポジウムは無事、終了しました。約150名もの方に集まっていただきました。誠にありがとうございます。主催の八頭町役場、産業課の方々や観光協会の方々の非常に手際のよい準備により、講演会はスムーズに進行しました。細かな配慮が行き届いていると思いました。本当にお世話になりました。米子からもある禰宜の方から祝電をお寄せいただきました。ありがとうございます。地元で大評判の甘味屋の梅大福まで頂戴し、初めて口にしてそのおいしさにびっくりしました。ありがとうございます。
 鳥取産はおいしい、と巷でも評判が高まっています。カレーもギャル曽根さんで有名になったようです。
 
 そして、なんと八頭町長もお越しいただき、パネルディスカッションの最後までご清聴いただきました。
 この催しをさらに町の活気作りにつなげていくことができれば目標達成です。また、教育関係者の方も比較的多くいらっしゃったようで、今後、シンポジウムで話された内容がさまざまな形で反映されていくことをとても期待しております。
 
 筆者は講演慣れしておらず、結局、原稿を用意してスライド写真をスクリーンに写しながら、ほとんど読み上げていくというものでした。
 パネルディスカッションは、筆者は準備できておらず、ほとんどを他のパネラーのみなさんにお話してもらいました。コーディネーターの日本海新聞記者石井記者は、話の流れを上手に作っておられて、さすが、と思いました。パネラーの松本さん、平木さんも率直で的確なご意見でうまく場を盛り上げていただきました。
 そして、新さんは、主に歴史時代の因幡、八上の豪族が大和政権樹立に大きく貢献してきたことの形跡や、土師氏や物部氏と兎神の関連について展開され、話の内容が非常にアカデミックになりました。
 筆者もその中で何とか発言し、「八上の白兎は古事記の話のように騙したりしない尊い神であり、地元の方はもっと誇らしく思っていただきたいこと、伝承地や遺跡、社寺は直接自身の目で確かめして初めていろいろなことが感じ取れ、理解できること」を強調しました。
 
 では大胆にも、筆者の講演原稿を公開いたします。

 原稿版11月23日 イナバノシロウサギ神話シンポジウム
 八上の白兎と神々の伝承の謎  
 八上ルネサンスへの序章
因幡の白兎は、誰にでも知られている『古事記』神話の一つです。だましたワニに赤裸にされてしまった兎は、通りかかった大己貴命に助けられます。大己貴命は助けた兎に、これから出会う八上姫と結ばれることを予言されます。『古事記』にはその八上姫がいた八上の里がどんなところであったか、一言も記されていません。
鳥取市の白兎海岸には、この神話伝承と関連して白兎神社があります。白兎海岸の白兎神社本殿の台座には、珍しい菊の御紋が施されており、皇室との関連があるのではないかといわれながらも、長年謎とされてきました。
 一方、八上姫の住まう八上の里にはその謎を解く鍵が隠されていました。そこには、天照大御神の八上行幸の折、白兎が現れて行宮(あんぐう)にふさわしい場所へ案内した、といういわば「もう一つのイナバノシロウサギ伝承」が残っているのです。これが白兎神社の台座に残された菊の御紋の由来と関連すると思われます。
 八上にはたいへん貴重な伝承、それと関連する様々な神蹟があります。
 八上の白兎が天照大御神を案内
 因幡の中央、八上の霊石山山麓の城光寺(八頭町下門尾 現青龍寺)と慈住寺(八頭町土師百井)の縁起には「霊石山に天照大御神が行幸され、その時白兎が大御神の御装束を口にくわえて西方の伊勢が平まで案内された」と記されています。それを裏付けるように、霊石山には「伊勢が平(いせがなる)」という地名が今も残り、「皇居石(こうきょいし)」や「御冠石(みこいわ)」と名づけられたイワクラ等があり、霊石山の東の麓には3つの白兎神社があるのです。
 なお縁起には、鳥取・兵庫県境の山、氷ノ山(赤倉山)は、天照大御神が旭日に輝く日枝の山(ひえのやま)、と感動されたことがその名の由来であることも記されています。その縁起の伝承記述と符合するように、若桜町舂米(つくよね)集落には天照大御神御一行の行幸伝承が残っており、天照大御神の御製といわれる和歌が伝わっているのです。全国を見渡しても天照大御神の伝承の残る場所は極めてまれであり、しかも御製に至っては唯一、といってよいでしょう。
 須佐之男命と大己貴命も八上に
 現在の氷ノ山は山頂に須佐之男命の宮殿があったことから、昔から須賀の山(すがのせん)と呼ばれていた山です。ヤマタノオロチ伝承もここであるという説もあります。(『須賀の山雑記』山根達治著より)もと山頂にあった神社は、現在舂米集落に遷宮していますが、宇宙の根元神:造化三神(天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ))を祀っています。かつては因幡・美作・但馬・播磨4カ国の総社で皇室が管理されていた、という非常に格式の高いお社です。
 鳥取県神社誌によれば、旧八頭郡(古の八上郡と推定 郡家・船岡・八東・若桜・河原・用瀬・佐治・智頭町)には、199の神社がありますが、その半数近くの84のお社で須佐之男命を祀っています。これほど集中的に須佐之男命を祀っている地域は極めてまれといえるでしょう。これは人々を悩ませていたヤマタノオロチを退治した須佐之男命を英雄とみなしていることからでしょう。
 また、旧船岡町才原(さいばら:財原)の大江神社の地は、大己貴命(おおなむちのみこと)がこの地で民に農業を教えて、村が豊かになったとする伝承を残すところです。隣の鳥取市河原町には八上姫を祀る売沼(めぬま)神社やその御子神である御井神(みいのかみ)を祀る黒木神社があり、大己貴命を祭る神社が多く残っています。
 瀬織津姫命・イザナギノミコト
 『古事記・日本書紀』には登場しない瀬織津姫(せおりつひめ)が、八上の私都(きさいち)に集中的に祀られているのは、地名の由来と関連がありそうです。智頭町の虫井神社は瀬織津姫を祀る壮大なお社で、かつては船岡の大江氏が祭祀を司っていたようです。瀬織津姫とは 大祓祝詞(おおはらえのりと)に登場します。鳥取県は瀬織津姫を祀る神社が全国で3番目に多いところです。一番多いのが36社の岩手です。32社の静岡に次いで3番目の鳥取ですが、全部で25社あり、そのうち旧八頭郡に14社もあるのです。私都だけで4社もあるのは驚きです。私都という地名と瀬織津姫は密接に関連しているように思えます。瀬織津姫を祀る私都 花原の花原神社は天照大御神の行宮の地、伊勢が平(いせがなる)の真東に位置しています。智頭町の虫井神社も、天照大御神を祀る八頭町大江の赤倉神社のほぼ真南に位置することなど、何か関連を示そうという意図があるのではないかと思われます。
                    
 智頭町と岡山県奈義町の境にある那岐山(なぎせん)はイザナギノミコト・イザナミノミコトの降臨伝承に因む山です。麓の那岐神社は天地開闢(てんちかいびゃく)のときに現れた神世七代(かみよななよ)の神が祀られているという珍しいお社です。

 日本の神話を代表する天照大御神・須佐之男命・大己貴命・イザナギノミコト・イザナミノミコト(智頭郡もかつての八上郡だったと考えられる)の伝承が、そろって残るという、全国的にみてもきわめてまれな「神話のふるさと八上」は、今まで出雲神話の陰に隠れてあまり知られることはありませんでした。日本の神話を代表する神々の伝承が残る八上、因幡は、現在、大変注目を浴びている宮崎県よりも内容の濃い「神話のふるさと」といえるでしょう。
 
 石破洋元島根県立女子短期大学教授の『イナバノシロウサギの総合研究』をきっかけに、脚光を浴びつつある因幡・八上の神話伝承、特に八上に固有の天照大御神と白兎の神話、それに関連する数々の遺跡について顕彰していくことは、後の世にこの貴重な伝承を受け継ぐためにも、そしてかつての八上全体を活気づけるためにも大切なことだと思われます。

 以上をふまえて八上の神話伝承とそれに関連する遺跡などについてお話させていただきます。

 まず最初に、平成になってからこのようなムーブメントが起こった発端は、1999年兎年、石破洋教授のイナバノシロウサギに関する新説が日本海新聞記事に紹介されたことにはじまります。翌2000年石破教授は『イナバノシロウサギの総合研究』を出版されました。これはイナバノシロウサギに関する初の学術研究書で、『古事記・日本書紀』の研究対象として掘り下げられなかった八上にはじめてスポットがあてられたものです。石破教授の研究の諸成果なくして、私たちの今日のような催しは決してありえなかったことです。実は約50年前の昭和32年、郡家町の広報にもこの伝承が紹介されたことがあります。しかし、それを引き継いで大きく取り上げる動きはそのときは現れませんでした。

 これから八上のお話をする前に、まず、因幡の地名由来について私が思うことを述べていきます。
 稲葉とは稲作に関係のある地名ですが、どうしてこのような名前がつけられたのでしょう。その謎を解く鍵は稲葉神社です。鳥取市立川にあります。祭神は稲葉大明神です。稲葉大明神とはどのような神様でしょうか。稲葉大明神は稲葉神社の東の卯垣(ぼうがき)にあった半月形の苗代田、古苗代と関連があります。現在は消滅した古苗代跡、そこには記念碑が一本あるのみです。大苗代というところもあったそうです。これは稲葉大明神がどこからかお越しになり、稲葉の民に、初めて苗代を用いた稲作を伝授されたところなのです。そして漢字は稲場、稲葉、稲羽、現在の因幡へと変遷していきますが、音は正確に伝えられていったものと思われます。
 ところで、同じような遺跡と伝承が伝わるところがあります。京都府北部、天橋立の手前、丹後半島の山間部、現京丹後市峰山町二箇というところに「月の輪田」という名前の半月形の苗代田が残っています。残念なことに、実は本来の月の輪田は昭和の圃場整備で消滅し、移転・縮小されています。この月の輪田は、丹波の地名由来と関連するのではないかといわれています。田庭が田場になり、現在の丹波になったと考えられます。
 月の輪田のすぐ隣の久次には久次岳という山があり、その麓には比沼麻奈為神社があります。祭神は伊勢神宮外宮の豊受大御神です。久次岳の中腹から山頂にかけては禁足地とされていますが、そこには、古代の祭祀場跡があるようです。豊受大御神の伊勢神宮外宮故地といわれているところです。豊受大御神の伝承が色濃く残るところで、月の輪田には、豊受大御神が丹波で初めて稲作を始められたところという伝承があるのです。そして豊受大御神は周辺の地域にこの稲作の方法を伝授されたそうです。隣の豊岡市は豊受大御神と関連のある地名ですし、但馬もその可能性が高いでしょう。摂津にも伝承があります。
 このような伝承内容の類似関係を見ると、稲葉大明神とは豊受大御神であるのではないでしょうか。
    
 続いて因幡の祖先神について考えて見ます。鳥取市湖山のかつての高草郡には天穂日命と、その御子神を祀る神社があります。天穂日命の末裔、土師氏の始祖であり、相撲の始祖でもあることでも有名な野見宿禰命を祭る神社もあります。土師氏と名乗り始めてからの拠点は実は八頭町の土師郷ではないでしょうか。土師氏の系統から後に学問の神様で有名な菅原道真公の菅原氏や、大江氏が登場します。土師氏は皇室と非常に関係の深い氏族です。
 天穂日命は天照大神の御子神ですが、出雲の国譲りの際の交渉役として高天原から派遣された神です。天穂日命は出雲大社の祭祀を司る北島家と千家家の始祖でもあります。 因幡の氏族の一つである土師氏は因幡全土に多く分布し、特に八上と高草に多いようです。土師氏の職掌は、土師器の製造と陵墓の造営・管理です。八上の私都谷と下坂、奥谷には、非常に窯の跡が多く土師氏の分布と重なっています。そして霊石山山麓を中心に古墳群が多く分布しています。またその中には特殊な形の古墳もありました。福本70号墳がそうです。これもいずれは復元されると良いでしょう。
 

 八上の神々
 ここで八上の名称由来について少し私なりの推測を述べたいと思います。先ほど那岐神社の紹介をしましたが、神世七代の神、6代目がオモダルノミコト、七代目がイザナギノミコト、そして、8代目が天照大神なのです。
 和歌山県南紀白浜の近くには熊野古道があり、そこに八上王子という神社があります。ハニカミ王子ではありません。ハンカチ王子でもありません。(註:笑いをとろうとしましたが、失敗しました。残念!)この神社の主祭神は天照大御神です。また、天照大御神を祀る伊勢神宮内宮のご神体は八咫鏡で、これも数字の八と関係があります。八という数字と天照大御神の関連があり、ここに天照大御神がお越しになったという歴史的事件を象徴する地名として八上となったのではないでしょうか。

 天照大御神伝承と白兎 
 地元の青龍寺・慈住寺の縁起に記された天照大御神と白兎の伝承をご紹介します。鳥取市方面との境には門尾の三本松があります。このあたりで天照大御神は白兎と出会います。白兎は天照大神の装束の裾を銜えて、行宮にふさわしいところへと導きます。
 そして、霊石山の山頂近くの伊勢が平という平原まで、天照大御神ご一行を導き、そこで姿を消してしまいます。天照大御神はしばらくこの伊勢が平で行宮され、八上を治めます。その後、八東、若桜を経て氷ノ越えの道を進まれ、雪深い峠近くで、美しい樹氷をご覧になり、御製を詠まれました。
 
 霊石山とその周囲の神蹟をみていきます。まず霊石山の東側の麓には私都川が流れ、古の八上の街道がありました。それに沿うように3つの白兎神社があります。福本には八上の白兎神社本社があります。福本の南西方面には池田の白兎神社があります。そして土師百井にも、もと白兎神社があります。ここだけ、もと、という言葉がくっついていることはとても重要だと思います。いずれも大正3年、1914年に宮谷の賀茂神社に合祀されました。福本の白兎神社の立派な社殿は幸運にも壊されることなく、当時の青龍寺住職によって青龍寺本堂の厨子として再利用され、現在に至っています。福本の燈籠は同じく賀茂神社に移設されたものと思われます。白兎大明神と記された燈籠が賀茂神社の木製鳥居の前に残っています。
 ところで少し話はそれますが、宮谷の賀茂神社の主祭神である瓊瓊杵命と、宮谷にある5つの堤には関連があるように思えます。
 賀茂神社は、平安時代に藤原氏によって選定された式内社には含まれていませんが、この賀茂神社が、かなりの崇敬を受けていた神社であることの証として、育英小学校跡地の前にある御旅所跡があります。かつては神輿の渡御が行われていたのです。
 飢饉や日照りが続いたときには、近郷の農民が賀茂神社にお参りに来ていたのだと思われます。また、井関や、堤などの具体的な水利の技術を学んだのかもしれません。私は、瓊瓊杵命と宮谷にある5つの堤とは大いに関連があり、おそらくこの堤のうちの一つは、瓊瓊杵命ご一行がここにおいでになり、おつくりになったものではないかと思っております。
 白兎神社の話に戻ります。
 門尾と、下門尾にもそれぞれ白兎神社の氏子の集落として、白兎神社と刻まれた燈籠が残っています。祭礼の日には白兎神社の幟が立てられます。
次に、霊石山山頂付近の伊勢が平です。ここまで天照大御神御一行を案内したシロウサギはここで、姿を隠してしまいます。ここには、大小二つの岩があり、皇居石、または皇后石と呼ばれています。この山頂の不思議な平原にしばらくの間、天照大御神は行宮されます。 御冠岩はこの伊勢が平の西の山腹にあり、そこからは、河原平野を望むことができます。天照大御神がこの岩の上に冠を置かれたのでその名がつけられたようです。ここは稲羽誌によれば、かつては因幡を代表する名所だったようです。今ではここを訪れる人はきわめて少数です。 
 天照大御神が実は男の神様であることをうかがわせる伝承となっていることにお気づきの方もいらっしゃると思います。実は天照大御神は、男の神様として描かれている場合もないわけではありません。
 祇園祭の鋒と山は何十もありますが、その中に岩戸山があります。この岩戸山は、天の岩戸開きをテーマとしているとしているものですが、祭神のお姿を象った像が祭りの時には一般公開されています。私もこの夏、祇園祭の期間中に、行って見て来ました。イザナギノミコト、タヂカラヲノミコトとならんで、天照大御神の像が鎮座しています。岩戸山保存会の方のお話によると、ずっと昔からここでは天照大御神は男の神様として伝わってきたそうで、伝統を重んじる京都ですから、女神を男の神様へ変更することはありえないことのようです。
 他にも、源氏物語に出てくる奈良の長谷寺にも天照大御神が雨宝童子という男の神として像が安置されています。江戸時代に活躍した円空という仏師も男性の天照大御神の像を制作しています。平安時代の大江匡房(おおえまさふさ)も伊勢神宮奉納の装束から天照大御神は男神と断定しています。

 このように、天照大御神が男の神であるということを示す例も少ないながらも残っていることは注目すべきことであろうと思われます。その点からも、ほとんど伝承の残っていない天照大御神の、しかも男の神様としての様子が伺える八上の伝承は非常に重要です。
 さて、続いて米岡神社です。元は伊勢ヶ平に祀られていたものを今から500年位前にこの地に下ろして祭っているということらしいのですが、白兎ラインのことを考慮すると、どうやら、この米岡にも古くからお社があったとしか思えません。全国的に見ても極めて珍しい天照大御神伝承に基づくお社です。八上はすごいところですね。

 次は若桜町、氷ノ山の天照大御神伝承に話は移ります。
若桜町舂米集落には天照大御神御一行の行幸伝承とともに、ここで天照大御神がお詠みになったとされる御製が伝承されています。その御製を紹介します。

 あしひきのやまへはゆかじ
        しらかしのすえもたははに
                ゆきもふれしば 
 実はこれと酷似する和歌が万葉集に載っています。柿本人麻呂編集による万葉集10巻 2315番の和歌です。因幡万葉歴史館の庭園にあるシラカシの植樹のところでも紹介されています。

 あしひきのやまじはしらず
        しらかしのえだもとををに
                ゆきもふれれば
 私は、大胆な推論を立てました。万葉集の中の詠み人知らずの和歌の中には、私たちの祖先神たちの詠まれた和歌が多く含まれているのではないかということです。和歌を詠むことは、すなわち政の一環として非常に重要視されていたことからもその可能性は高いと思います。
 天照大御神は、雪の降り積もる舂米の集落、あるいはスサノヲノミコトの宮殿でしばらく氷ノ越えの機会をうかがっていたのかもしれません。そして朝日に輝く樹氷のすばらしい景色をご覧になって、複数の何らかの意味を重ね合わせてこの和歌をお詠みになったのでしょう。
 天照大御神がお通りになったこの道は、後の伊勢道として伊勢参りが盛んになった江戸時代ごろには、由緒あるところとしてその名が知られていたようです。 各所に伊勢道の道しるべが残っています。八頭町の加藤要治氏が、鳥取県内のこのような古くからの石碑の詳細な研究をされて、1冊の厚い本を出版されています。
 ところで、氷ノ越えの峠には、かつて因幡堂というお堂があり、そこには大兎明神が祭られていたそうです。因幡の国境付近には八上姫を祀る神社やシロウサギの伝承が必ずといっていいほどあります。因幡堂は、現在は但馬にあるそうですがどうなっているのでしょうか。できればこの峠に再建されるといいですね。
    
 白兎神社のラインこのラインは地元福本の郷土史研究家、新誠さんと私が共同発見したラインです。このラインに基づく遺跡の位置関係は、古代において暦を知る手段として重視されていたのではないでしょうか。 日知り(ひしり)、聖神社という名の神社もありますが、これも関連するものだと思います。太陰暦に基づく暦は、農作や漁業においても大変重宝されているようで、暦を正確に知ることはとても重要なことだったと思います。
 もちろん暦を知るのみならず、このように、神々の拠点をその地に置いているということは呪術的な意味も含まれていると思います。東西のライン 富士山、恵那山、伊吹山、元伊勢内宮、八上、三徳山、大山、出雲大社がならぶことはとても不思議です。恵那山には天照大御神のご誕生の際の胞衣(えな)が埋設されたという伝承があります。元伊勢は天照大御神を祭る壮大な社で、80以上もの摂社があります。かつては因幡からも多くの参詣者が来ていたそうです。氷ノ越えの伊勢参りは実はこの元伊勢参りがメインでした。
 八上姫 
 莫男(まくなむ)駅というちょっと変わった名前の駅が八上にあったそうです。これは 奈良・平安時代の律令時代に作られた街道に設けられた駅ですが、旧八頭郡地域では他に智頭に道俣駅があったようです。なぜ八上の駅にはこのような名前がつけられたのか、ということに関して土師百井の郷土史家三木薫先生は、男つまり、夫、恋人と泣く泣く別れて相手を無くした八上姫のことを言い換えたものではないか、と解釈されています。すると、この名前が残る場所の付近が八上姫の本拠と考えられるのではないでしょうか。石田百井には井古田という字が残っていますが、これは忌子、つまり、祭祀を司る巫女を意味するものであったのではないかと考えます。
 いずれにせよ、白兎神社のある土師百井、池田、福本、全国最大レベルの規模を持つ郡役所、八上郡衙のあった万代寺に八上姫のご住居と、祭祀の施設があったのではないでしょうか。あるいは、野々宮神社のある船岡町上野(かみの)、下濃(しもの)も有力です。
 では八上姫を祀る神社を確認していきます。まず、鳥取市河原町曳田の賣沼神社です。ここは八上で、現在八上姫を主祭神として祀り、最も厚く信仰されている神社です。元の社地は隣の簗瀬山中腹:嶽古墳近くにあったそうです。
 旧船岡町才原の大江神社は大己貴命、天穂日命、美穂津姫命の神を主祭神としていますが、このお社には、なんとかつては30くらいの摂社があり、その中の一つに八上姫を祀るお社がありました。現在は本殿に合祀されています。いずれ、元のように摂社ができるといいですね。
 鳥取市河原町佐貫にある都波只知上(つばきちかみ)神社にも八上姫が合祀されていますが、元は同じ佐貫の、字石坪にあった神社に主祭神として祀られていたそうです。以上の3つの社が八上郡の中で祀られている神社です。
 では八上以外で八上姫を祀る神社を見ていきます。
まず鳥取市用瀬町にある犬山神社です。残念なことに、神社の由緒書きに八上姫の名は上げられていませんが、町誌などには八上姫の名が祭神として記されています。ここは珍しく、大己貴命がアシハラノシコヲノミコトという珍しい呼び名で祀られています。犬山神社の宮司様のお話によれば、ここに安蔵長者の娘であった八上姫と大己貴命がお住まいになっていたそうです。ここは八上から外れているところなのですが、八上姫という名前であることからやはり、かつての智頭郡も八上の一部であった可能性が高いといえるでしょう。
 最初に紹介した稲葉神社にも八上姫が祀られています。稲葉殿として大己貴命と八上姫を特別に祀っているようです。因幡を象徴する神社に祀られるようになった経緯には何か深いものがあるのではないでしょうか。  
 そして、因幡の北東、岩美町岩井にある御湯神社には大己貴命と八上姫、御井の神が祀られています。ここには波兎の彫刻が燈籠に施されており、八上姫ファミリーがすべてそろっている珍しい神社といえます。伊勢宮とも呼ばれる壮大なお社です。
 鳥取市青谷町の長尾鼻は石破教授が古事記のイナバノシロウサギと大己貴命が出会った気多の崎ではないかと推定されているところで、因幡と伯耆の国境近くです。ここにも八上姫を祀る塩津神社があります。ここにはあの青谷上寺地遺跡があり、そこから、フトマニに用いる卜骨(ぼっこつ)が大量に出てきた祭祀拠点でもあった所です。
 今回、講演依頼を受けて、その前にぜひとも確認しておくべきところとして国府町菅野の酒賀神社がありました。主祭神は八上姫と大己貴命、扇の山の神、オオヤマズミノミコトです。最も奥まった因幡の国境付近にしては壮大な境内地と参道、社殿があり、格の高さを感じました。驚くべきことは、ここの祭祀を司る長尾宮司は、当代で50代目に当たるそうです。一世代を30年と計算すれば約1500年前から、一世代を40年と計算すれば、約2000年の歴史を持つ、長尾家です。若桜の須賀ノ山がかつてはスサノヲノミコトとクシナダヒメの宮殿のあった場所だという言い伝えがあることを有力視すれば、ここは、八上姫と大己貴命の宮殿のあったところなのではないでしょうか。
 そのほかに祭神としてでは在りませんが、因幡一ノ宮、宇倍神社は八上姫のご誕生されたところという伝承も残っているようです。
 以上見てきたように八上姫が八上以外で祀られている理由は、実は因幡全体がかつては八上と呼ばれていた時代があったことによるものだとおもわれます。
 八上姫は因幡の国の神 
 八上姫の化身はイナバノシロウサギという石破教授の説から、八上姫=イナバノシロウサギは太古の因幡の国の神ととらえてよいと思います。因幡全体に残るさまざまな神々の伝承を、顕彰し、特に因幡の国の神である八上姫とシロウサギの神を称えると、因幡の未来は明るくなると思います。


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2008年11月17日

日本海新聞に記事が 

 本日の日本海新聞朝刊に私め、白兎の小使いへのインタビュー記事が筆者の見苦しい写真とともに、載りました。23日の講演会へ向けた内容です。
 
 23日午後1時半より八頭町郡家公民館(宮谷)、講演会とパネルディスカッション、お時間がございましたらおいでください。
 講演では、因幡の地名由来なども織り交ぜて、因幡・八上に伝わるさまざまな神話伝承や、神社祭神のお話をするつもりです。
 講演内容が風化しないように、詳しい要約も当日お配りします。好評の白兎・波兎マップも用意しております。(先着順です。)拙著も販売をいたします。
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2008年11月16日

酒賀神社 由緒 その1

 筆者が八上姫のお社として最も注目する酒賀神社、境内にある石製の由緒書きの内容を紹介します。

 「祭神  大己貴命 八上姫 大山祇命
 例祭 四月十九日  十月十九日
 
 三代実録所載の国史現在社で菅野大明神とも称する
旧大草郷十三ヶ村の氏神であり郷中の一ノ宮である
 そもそも当神社の創立たる判然として知ること能わざれども古伝旧事記に依りて考えるに今を去る千百余年の昔 天平勝宝六年須賀山の麓に坐す宮処を栃本山が鼻に奉移 皇室の尊崇により貞観三年従五位下 同十六年従五位上を授けられる
 元慶元年地方大震災のため宮殿社地崩壊したるを以って翌二年須賀山の旧社地へ復遷 其の後元和八年三月 野火 山に入り社殿まで残らず灰燼に帰したるが故に寛永元年九月再営 天保十三年八月社地を菅野山の峰に移転し宮祠を再建成就す   現在の社殿 即ち 是である
 明治五年二月 郷社に列せられる」

 幾星霜を経る中で幾多の困難を乗り越えてきた酒賀神社の由緒です。それにしてもこの酒賀神社のこの写真、なんだかジーンとくるものがあります。天気のよかったのもあるのでしょうがそれだけではないような気がします。本殿のすばらしさもありますが、筆者は、いくつか撮影した酒賀神社の写真のなかで、この拝殿を写した写真に非常に感激しました。筆者は、このあたりに八上姫と大己貴命の宮殿があったのだとなんとなく確信しています。この拝殿は、その古の宮殿を模したものではないかという気がしてくるのです。
 いずれこのあたりも詳しく探索させていただくことになりそうです。
 とにかく、八上姫に関心のある方は、この酒賀神社はmustな場所です。ぜひご参拝ください。筆者は非常に心惹かれています。理由は説明できません。
ある意味で、因幡の神社を研究していくことは、自身のルーツ探しにつながっています。
 そしてルーツを遡っていくと、因幡の住民のほとんどが、神々の系統とつながっていることがわかります。私たちは、もっと祖先神のことを知る必要があります。縦の系統はとても大切です。

酒賀神社拝殿
posted by yakamihakuto at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 八上姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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